書評七福神とは翻訳ミステリが好きでたまらない書評家七人のことなんである。

 書評七福神の二人、翻訳ミステリーばかり読んでいる翻訳マン1号こと川出正樹と翻訳マン2号・杉江松恋がその月に読んだ中から三冊ずつをお薦めする動画配信(音声配信から昇格しました)「翻訳メ~ン」聴いていただけているでしょうか。最新版2019年2月号が到着しておりますので、併せてご覧ください。

 というわけで今月も書評七福神始まります。

(ルール)

  1. この一ヶ月で読んだ中でいちばんおもしろかった/胸に迫った/爆笑した/虚をつかれた/この作者の作品をもっと読みたいと思った作品を事前相談なしに各自が挙げる。
  2. 挙げた作品の重複は気にしない。
  3. 挙げる作品は必ずしもその月のものとは限らず、同年度の刊行であれば、何月に出た作品を挙げても構わない。
  4. 要するに、本の選択に関しては各人のプライドだけで決定すること。
  5. 掲載は原稿の到着順。

 

 

川出正樹

『カッコーの歌』フランシス・ハーディング/児玉敦子訳

東京創元社

 待ちかねたぞフランシス・ハーディング、堪能したぞ『カッコーの歌』。嗚呼、感動が冷めやらず、高揚が収まらない。2019年度になって早三ヵ月、年間ベスト・ワン級の作品がついに出た。

 オールタイム・ベスト級の前作『嘘の木』が、ファンタジーの要素を核として精緻に作り上げられた謎解きミステリであるのに対して、『カッコーの歌』は、ミステリの手際が随所に光る謎と冒険に満ち満ちたファンタジーだ。ジャンルと手法の比重が逆転しているのだけれど、知性と魂を押し込められた少女がアイデンティティを獲得すべく枷だらけの世界に抗う成長小説という重心は変わらない。今回、謎解き要素を減じて活劇成分を強めた上、七日間という待ったなしのタイムリミットを設けたことで、全編を覆う不穏な空気と横溢するエネルギー、サスペンスフルな展開は『嘘の木』を上回る。

 舞台は一九二〇年代初頭のイギリス。主人公は、「土木工学の奇跡」で港町を甦らせた名士ピアスの十一歳になる娘トリス。沼に落ちて以来、彼女の身の周りで不気味で不可思議な現象が立て続けに起きる。破り取られた日記帳、満たされることのない空腹感、口をきく人形、憎悪に満ちた眼でトリスを拒絶する妹ペン、そして「あと七日」と囁く謎の声。一体何が起きているのか。謎また謎の連べ打ちにページを繰る手が止まらない。やがて、その原因が明かされた時、物語は本格的に動き出す。受けから攻めへと。

 そして少女は疾駆する、レンガとモルタルで出来た巨大な迷宮の如き町の中を。物語の世界に浸る喜びを十二分に味わわせてくれる間然する所のない傑作だ。

 

千街晶之

『心霊電流』スティーヴン・キング/峯村利哉訳

文藝春秋

 

 主人公が子供時代に出会った若き牧師は、ある悲劇に見舞われたのをきっかけに神を信じなくなり、異様な説教を残して町を去った。その後、ギタリストになった主人公は、人生のあいだに幾度もこの元牧師と再会するのだが……。「恐怖の帝王、久々の絶対恐怖の物語」というのが本作の上巻の惹句だけれども、凄惨なシーンや不吉なシーンはところどころにあるにせよ、この上巻の時点では恐怖を感じさせるほどのシーンは存在しない。しかし「絶対恐怖」と銘打っているからには必ず怖くなる筈だ……と思って下巻を読み進めてもなかなか怖くならない。キングの作品としても珍しいほどの長い長い助走の果て、その「恐怖」は突然訪れる。それまでのノスタルジックで哀しくて不穏で長大な物語こそが、主人公と読者をゆっくりと絡め捕る罠そのものだったのだと、読者は悟るだろう――もはや逃げ場はこの世にもあの世にもないという絶望とともに。

 

吉野仁

『拳銃使いの娘』ジョーダン・ハーパー/鈴木恵訳

ハヤカワ・ミステリ

 

 ムショ帰りの父とその娘が、追いかけてくるギャング団に立ち向かい闘っていくという単純な設定ながら、キャラクターよし細部よしでテンポよく痛快に読ませる犯罪アクションものだ。ドゥエイン・スウィアジンスキー『カナリアはさえずる』も同じく個性的なヒロインが登場するクライムノヴェルで、お薦め。麻薬取引にまきこまれた女子大生が、秘密情報提供者として捜査に協力する羽目になるというストーリーだが、こちらは凝ったプロットによる意外な展開で上下巻たっぷりと愉しませてくれる。また、スティーヴン・キング『心霊電流』は、語り手の主人公が幸福だった若き日のエピソード、とくにギターとロックにのめり込んでいくあたりの場面が個人的にはたまらない。そこで時が永遠にとまってくれと願わずにおれない、のだけれども、そうはいかないどころか、以下略の恐怖譚だ。

 

 

 

 

北上次郎

『種の起源』チョン・ユジュン/カン・バンファ訳

ハヤカワ・ミステリ

 馳星周『不夜城』を読んだときを思い出す。こういう小説は好きではない、と思いながらも、この才能は認めざるを得ない――との読後感を思い出す。この長編もそれに近いところがある。帯に大きく「悪人の誕生記」とあるが、ようするにそういう話である。『不夜城』に似た読後感ということは、こういう話は苦手なのだ。読みたくないのだ。しかし、徐々に明らかになっていく構成がうまいのである。だから、読みふけってしまうのである。困った話だ。

 

霜月蒼

『拳銃使いの娘』ジョーダン・ハーパー/鈴木恵訳

ハヤカワ・ミステリ

 

 親も他の大人たちと同じく弱さも限界もある普通の人間なんだ――と気づく瞬間が誰にもある。これは子ども心にショッキングな啓示で、でもそこを境に僕たちは大人になってゆく。これは大いなる瞬間なのだ。その瞬間を描いた傑作が1月には2冊も出てしまった。まだどちらをベストに推すか決められないままこれを書いている。年明け早々に年間ベスト級の作品を2作も出されると困るんである。

 一つは傑作『嘘の木』のフランシス・ハーディングの『カッコーの歌』、もう一つは新人ジョーダン・ハーパーのデビュー作『拳銃使いの娘』である。前者はある少女と家族を見舞うマジカルな危機をめぐるファンタスティックなサスペンス/冒険活劇で、後者は強大な犯罪組織の標的となってしまった元犯罪者とその娘の逃亡/反撃を描くクライム・ノワール。リアリズムの程度も、筆致の質感も、属するサブジャンルもまるで違う。しかしこの二作は不思議に重なり合う。小学校高学年くらいの少女を主人公としていること。その親(主に父)が冷酷な「世界」との戦いで敗北者の地位に置かれること。主人公がそんな父に対して失望し、しかし、そんな父と同じ地平に立って――父=娘の関係ではなく自立した人間同士の関係に立って――自分の尊厳のために戦おうとすること。いまの私は、強い人間が敵を倒す物語より、弱い人間が自分の尊厳のために戦おうとする物語を買うが、どちらもそういう小説なのだ。困る。

 あとは好みだ。完成度が高いのは『カッコーの歌』で間違いない。だが『拳銃使いの娘』で中盤に突如はさみこまれて完成度を損ねている挿話は、ごろりと投げ出すような酷薄さで見事な短編のような趣を放って忘れがたい。どちらも心理描写は精細で、『カッコー』の主人公の苦悩は胸に迫るが、『拳銃使いの娘』も苦悩や苦痛の描き方で負けていない。それぞれの主人公の相棒の「妹」(カッコー)と「熊」(拳銃使い)、どちらも魅力的だ。どちらも記憶に残る傑作で、どちらも必読だ。さあ困った。

 クライマックスで少女自身が演じる死闘のすごさで『拳銃使いの娘』に軍配をあげよう。奇妙に「伝説」めいた物語が立ち上がるラストもいい。そしてもちろん熊の貢献のせいでもある。熊に名前がないのがまたいい。

 

酒井貞道

『カナリアはさえずる』ドゥエイン・スウィアジンスキー/公手成幸訳

扶桑社文庫

 女子大生の主人公サリーは、ひょんなことから、半ば偶発的に麻薬取引に関与してしまう。しかもそれを麻薬捜査官に勘付かれ、目を付けられてしまった。捜査官はサリーを脅迫して、情報提供者になることを強要する。結果、サリーは犯罪組織に潜り込まざるを得なくなるのだ。ここまでは、サリーは物語において受動的である。しかしながら潜入が本格化するにつれ、サリーは徐々に、自分の損得を考えて、自分で判断し思い切った行動をとるようになる。
この物語を通して、サリーは受動的で周囲に振り回される人物から、能動的で周囲を振り回す人物に変貌していく。主体的な言動が目立つようになってくる。終盤は主体的な言動しかとっていないとすら言えるわけで、《巻き込まれ》状態だった冒頭とは全く状況が違う。こういう変化を見ると、彼女が若者ということもあって「本書は成長小説なのだ!」と断じてしまいそうになるが、実際にはそうとも言い切れないのである。頑として麻薬捜査官にも口を割らない事柄があるなど、サリーの我の強さは最初から明らかだからだ。では何が変化したのかというと――サリーの側の心理的な準備(事態の見極め)だったのだろうなあ。そして、このような変容を生み出した、一筋縄では行かないストーリー展開も特筆大書されるべきである。『メアリー-ケイト』や『解雇手当』に比べたらだいぶマトモなクライムノベルだが、個性的なことは間違いない。この作家、もっと訳して欲しいなあ。

 

杉江松恋

『カッコーの歌』フランシス・ハーディング/児玉敦子訳

東京創元社

 たぶん、上のほうでどなたか同じことを書いていると思うのだけど、今月は『拳銃使いの娘』と『カッコーの歌』の一騎打ちだった。どちらも大好き。両方ともなんで自分が解説を書いてないのか、と思うぐらい好き。あ、解説の人選は、なるほど、と納得する適材適所です。編集者は正しい。

 

『拳銃使いの娘』と『カッコーの歌』には複数の共通点がある。逃亡小説であるというのがその一つで、『拳銃使いの娘』では白人優位主義の犯罪集団から死刑宣告を下された父娘が生き残りのためのなりふり構わない逃避行に出る。『カッコーの歌』のほうはちょっと説明しがたい状況が出現して、主人公の少女は何もかも捨てて逃げださなければならなくなる。この逃げ出すまでの陰鬱な展開が本書の肝で、これがあるからこそ物語が静から動に転じたあとに疾走感が出る。これは生存を賭けているだけではなく、自由を掴むための逃走でもあるわけだ。『カッコーの歌』でも主人公は一人で走るのではなく、同伴者がいる。誰と一緒に逃げるのかは、内緒だ。おお、両方とも相棒小説ではないか。ここも共通点である。

 どっちの小説も相棒としての契約が結ばれるまでの手順をきちんと踏んでいるのがいい。ここをおろそかにする相棒小説もあるが、ちゃんと書きこまないと駄目だ。『拳銃使いの娘』の場合、刑務所から出てきた父親が有無を言わせず娘を連れて逃げ出すのだが、途中であることが起き、我が子に対して「お前は子供だがきちんと選ばせるべきだった」と詫び、自分と一緒に来るかどうかを考えさせる場面がある。ここがいい。ここに痺れた。そう、血縁のあるなしに関係なく、一緒に歩く相手は自分で選ばなくちゃ駄目なのである。『カッコーの歌』は、上にも書いたように主人公の相棒が誰なのか書けないのだが、契約の言葉を口にする前に事態が急変して二人は逃げ出さずにいられなくなる。しかしその後でやはり胸の熱くなる場面がある。相棒が口にした言葉から、それまで反目ばかりで敵視さえされていたと思う相手が、自分のことを信頼してくれていると主人公は知るのである。ここもしっかり言葉にしているところがいい。そして相棒の言葉は後に主人公の運命を決する大事なものになっていく。

 ほら、やっぱり互角に好きだ。本来なら順位を決めることなど無理なのだが、イメージの豊かさを取って『カッコーの歌』を採る。ごめん、『拳銃使いの娘』。犯罪小説としては君のほうが好きだ。途中でリチャード・スターク『悪党パーカー/犯罪組織』みたいになるところとか。主人公ポリーの乱暴な言葉遣いが『がんばれベアーズ』のアマンダとか、『ペーパー・ムーン』のアディを思わせるところとか。あ、両方ともテイタム・オニールじゃん。他にはディック・ロクティ『眠れる犬』とかも思い出した。セレンディピティ。『カッコーの歌』のほうも読んでいるとどんどん連想が広がっていく小説で、子供のころ学校の図書室で貪り読んだ諸作が脳裏に去来し、とても幸福な時間を過ごすことができた。この二冊、大人はもちろんローティーンのうちに読むことにとても意義のある小説だと思う。すべての小中学校の図書室に入りますように。

 12月に続き、豊作揃いの1月でした。点数はそれほど多くないけど粒ぞろい。この調子でいくと、2019年も豊かな読書生活が楽しめそうです。では、また来月お会いしましょう。(杉)

書評七福神の今月の一冊・バックナンバー一覧