価値がないから、価値があるのよ
 3万ドルの手数料で機関士の財布から5ポンド紙幣を盗むことをニックに依頼した娘はこういう。ニックは、チェスタトンも称賛するような逆説だね、といって笑みを浮かべる。(「機関士の五ポンド紙幣を盗め」)
「価値がまったくないか、少ししかないもの」しか盗まない怪盗ニック全仕事シリーズ2014年以来4年越しでついに最終巻に至った。

■E.D.ホック『怪盗ニック全仕事6 』


文庫のフロントページに曰く「本書には本邦初訳8編を含む全14編収録。シリーズ全87作品を発表順に収録した文庫版全集、堂々の完結
 本国アメリカにも存在しない怪盗ニック全集が、未訳作もすべて訳され、ここに完結。めでたい、ありがたい。版元と訳者の木村二郎氏に敬意と感謝を捧げたい。
 ニック・ヴェルヴェット物は、1966年にEQMM誌に「斑の虎を盗め」で登場したのを皮切りに、以来1907年まで活躍を続けた。多数のキャラクターを創造し、短編ミステリ創作に腕をふるったホックとしても、こんな長寿シリーズになるとは思っていなかったに違いない。
 40年にもわたるシリーズの執筆は、マンネリズムとの闘いだったとも想像する。
 what(何を盗むのか)という部分では、既に2巻辺りで、「何も盗まない」「ニック自身を盗む」などやり尽くした感があるのに、how(どのように)、why(なぜ依頼人はそれを欲するのか)という興味にプラスして、関連して起こる事件でのフーダニット(who done it?) 興味を織り交ぜるなど様々なヴァリエーションを駆使して読む者を飽きさせない。
 様々な舞台や題材も扱った。東京創元社の「webミステリーズ!」に掲載された労作「完結記念トリビア集」(http://www.webmysteries.jp/archives/14900714.html) によると、明確になっているものだけでもニックの活躍は全米19州に及び、海外13か国に及ぶという。本書でもメキシコ国境付近やパリ、イギリスのワイト島等と広範囲に材をとっている。
 ニックの同居人でガールフレンド、グロリアとの関係も徐々に変化。3巻目ではグロリアにニックの本業がバレたり、4巻目では別の求婚者が現れ家を出たり、5巻目では白髪が目立ちはじめる。本巻では、グロリアは、ニックの罪を償うために? ホームレス・シェルターでボランティアをしている。
 四巻目45作目からは、「不可能を朝食前に」をモットーとする女怪盗サンドラ・パリスを投入。いくつもの事件でニックの好敵手又はパートナーとして欠かせないキャラクターとなるる。
 作中では、実際の時間よりはゆったり時間が流れているようだが、ニック自身にもしのびよる老いは隠せず、最終作では、悪党どもに「盛りを過ぎている」ので縛る必要はないといわれている。時代は移り変わり、本作では、ニックもインターネットを駆使し、登場人物は携帯電話を手にしている。
 6巻目となる本作でも、作者はあの手この手で、興味をつなぐ。
「グロリアの赤いコートを盗め」は、グロリア自身が語り手となる一編で、1967年の北米大停電の際のニックとの出会いを回顧したハートフルな一編。二人は出会いの後『ドクトル・ジバゴ』を観に行き、二日後にグロリアはニックの家に引っ越すのだ。「バースデイ・ケーキのロウソクを盗め」は、サンドラの仕事とニックの仕事が二元中継的に描かれ、やがて意外な交差をしていくという異色編。「機関士の五ポンド紙幣を盗め」はコンゲーム的要素が盛られ、冒頭に掲げた台詞も効いているし、ニックの反撃も痛快だ。サンドラは、5編に登場するが、立て続けに大きなヤマに失敗するし、ダチョウに蹴られたりでいささか気の毒。
 ホックとしても、87作目「仲間外れのダチョウを盗め」をもってニックの活躍を終わらせる気は毛頭なかっただろうが、作品の冒頭でサンドラは「とくに情熱的な夢の中ではニックを恋人として想像したことさえあった」と書いているのは、ニックへのせめてものはなむけになるだろうか。さらば、怪盗ニック。
 ニックは、ほとんど自らの感情を示すことがない。ハードボイルドの探偵よろしく、依頼に応じて価値のないものを盗むという己のコードをストイックに遵守し続けるわけで、怪盗ニック譚は、価値がないから価値があることを確信した男の行動の物語だったともいえる。そして、その逆説は間違いなく、ミステリ読者にとって大いなる価値をもたらしたというべきだろう。

『怪盗ニック全仕事1』
https://honyakumystery.jp/1418771509
『怪盗ニック全仕事2』
https://honyakumystery.jp/1442971117
『怪盗ニック全仕事3』
https://honyakumystery.jp/1469488278
『怪盗ニック全仕事4』
https://honyakumystery.jp/1496186649
『怪盗ニック全仕事5』
https://honyakumystery.jp/6965

■オースティン・フリーマン『ニュー・イン三十一番の謎』

 ここ数年をとっても、論創海外ミステリで『アンジェリーナ・フルードの謎』、ちくま文庫『オシリスの眼』『キャッツ・アイ』とフリーマンの新訳が続く。ホームズの最大のライヴァルといわれたソーンダイク博士譚の紹介が続くのは歓迎だ。
 この『ニュー・イン三十一番の謎』(1912) は、戦後すぐに企画された雄鶏社の≪推理小説叢書≫の中の予定書目に「新31館」として含まれていた作品で、監修者の木々高太郎が訳すつもりだったが、刊行されずに終わったという。(長谷部史親『欧米推理小説翻訳史』(1993)) 同書には、フリーマンの長編の新たな翻訳は昭和32年の『ダーブレイの秘密』が最後とあるから隔世の感がある。それだけ、長編探偵小説を確立した第一人者の再評価の動きが高まっているということだろう。
 本書は、ソーンダイク博士が登場する長編としては、『赤い拇指紋』(1907)、『オシリスの眼』(1911) に続く第三作。『赤い拇指紋』事件で登場したジャーヴィスが本作では、代診医稼業に見切りをつけ、ソーンダイク博士のジュニアパートナーとなることを決意する。
 物語は、代診医ジャーヴィスのところに夜の往診の依頼があるところからはじまる。彼は、周囲から目隠しされた馬車で運ばれ、謎めいた家で極度にやつれた年配の患者を診察する。患者はアヘンもしくはモルヒネ中毒と判断し、ジャーヴィスは薬を処方するが、警察へ通報すべきか判断に迷い、旧友のソーンダイクに相談する。
 一方、ソーンダイク博士のところへ持ち込まれているのは、叔父の遺言書の文言が正確を期して書き換えられたがゆえに、本来受け取れる財産を失ってしまった甥の案件。ブラックモアという伯父の住んでいたのが、ニュー・イン31番で、ニュー・インとは、法曹院ミドル・テンプルにある建物のことをいうらしい。
 叔父は筆文字で日本人と日本語で文通できる東洋学者、というところが一風変わっており、この東洋通というところが、謎解きの重要な鍵となる。
 ジャーヴィスの遭遇した奇譚めいた往診と遺言書の事件が何らかの関わりがあることは、現代の読者には容易に想像がつくが、ジャーヴィスらが何ら気づく気配がないのには、多少いらいらさせられるかもしれない。
 ソーンダイクは並行して謎の患者事件を探索して、冷酷な犯罪事件が背後あることをつきとめる。一方で、ジャーヴィスへ謎の女の脅威も迫るというサスペンスも盛られている。
 作品には、写真術や眼鏡の処方箋、作者自身が考案したという軌跡図も登場。「出来事や捜査方法の完全なリアリズムこそが、探偵小説を面白くする必須要素であろう」と作者は序文で書いているが、その信念どおりの叙述が進められているのだ。
 「ソーンダイク、爆弾を仕掛ける」の章以降では、周囲を驚かせる博士の推理が開陳される。事件を解きほぐしていくかなり長い博士の解説は、ごく初期の段階から事件の構図を見通していたことを物語る。二つの事件がクロスすることが明かされるのが遅すぎ、読者にも真相を見破るのは困難ではないとはいえ、博士の推理は確かな証拠に基づく緻密なもので、書かれた年代を考えれば、またしてもフリーマンの先駆性を証する一冊といえるだろう。付言すれば、犯人像に『キャッツ・アイ』などと同様の趣向があるのは興味深い。
 なお、本作にはkindle版に『オリエンタリストの遺言書』(美藤志州訳)として先行訳があり、同じ訳者のkindle版『私の探偵 ソーンダイク』は、本書理解のために参考になるエッセイが収録されていることを付記しておく。

■レックス・スタウト『ネロ・ウルフの災難 女難編』


 蘭と美食をこよなく愛する巨漢探偵ネロ・ウルフ再臨。
『黒い蘭』『ようこそ、死のパーティーへ』『アーチー・グッドウィン少佐編』の3冊からなる《ネロ・ウルフの事件簿》シリーズに続いて第二シリーズ《ネロ・ウルフの災難》シリーズが始まった。本書は、三つの中編と「女性を巡る名言集」を収録した「女難編」。
「女性を巡る名言集」で引用されているように「女はばかじゃなければ、危険なんだ」(『語らぬ講演者』) というのが、女嫌いのウルフの信条。一方で、助手アーチーは女性心理に通じたラブアフェアの専門家。女性に関しては好一対の二人だが、女難はどちらも避けられない。
「悪魔の死」は、夫を殺す完全犯罪の手口を思いついたという夫人が現れる。話が終わったところで、夫が殺害されたというニュースが流れ夫人は逮捕されるという風変りな発端。容疑者は四人に絞られるが、もう一段奥の謎があり、ウルフの心理作戦が功を奏す。
「殺人規則その三」は、ウルフと言い争い、辞めると啖呵をきったアーチーがウルフ宅の玄関口で依頼人の若い女性と鉢合わせ。彼女が巻き込まれたタクシーの中の殺害死体事件を引き受ける。依頼を受けたのはアーチーでウルフが助手になるという変則的なコンビにより、ウルフでさえ恐れ入るという悪辣な真相が暴かれるのがミソ。
「トウモロコシとコロシ」は、ウルフ宅に旬のトウモロコシを届けている男が殴殺。人気モデルの嘘の証言により、アーチーに殺人容疑がかかり逮捕されてしまう。アーチーを救うべく、ウルフは勝負手を放つ。殺人の濡れ衣を着せられ、アーチーの女難度は本編が最も高いが、若いモデルの胸に刻まれる一言もあり。
 いずれも奇矯な発端、殺人容疑者の逮捕、数人の別の容疑者の存在、容疑者のウルフ邸への参集、ウルフの謎解きというフォーマットの中で、ウルフとアーチーのそれぞれの個性がはじけ、互いに文句は言い合っても強いきずなもさりげなく描かれる。連戦連敗のクレイマー警視とのののしり合いもお約束。キャラクター重視のいつも味のようでいて、一編ごとにひと色、ふた色工夫を凝らしているのは見逃せない。
 女難編に続くのは、もう一つのウルフの嫌いなもの、「外出編」だそうだ。

 甲賀三郎『強盗殺人実話』にはじまる河出書房新書『レトロ図書館』は、戦前戦後の探偵小説とその周辺の作家の小説を採り上げていて、次に何が出てくるか楽しみなシリーズだが、今回は、保篠龍緒訳の怪盗ルパンシリーズの一編。

■モーリス・ルブラン 保篠龍緒『怪盗ルパン 二つえくぼの女』


 昨年、論創海外ミステリで、ルパンシリーズの代表的訳者、保篠龍緒が非ルパン物をルパン物に改作した作品を集めた、なんともマニアックな『名探偵ルパン』が出た。「全体に台詞が古めかしく、地の語りも講談調だが、慣れてみれば、訳者の名調子はちょっと癖になるかもしれない」と書いたところで、「癖になってね」とばかりのタイミングでの刊行。楽しめました。
 原作は、1933年の刊行でルパン物としては、かなり後期の部類に属するもの。
 幕開けは、美文調で15年前の事件が語られる。古城の高台で美貌の歌姫が美声を披露していたそのとき、突如、鮮血にまみれて、そのまま即死するという悲劇。しかも、衆人が見守る中、身に着けていた首飾りが消失している。 
 一転、舞台は、パリ市内の駅で、兇賊グラン・ポールの情婦・金髪のクララを捕らえようとするパリ警視庁の捕物が進行。謎の女は、エルルモン侯爵の住むホテルに向かうが、その地階に住むラウールという紳士にアントワーヌと名乗り、このラウールの機転で難を逃れる。このラウールの正体はいうまでもないだろう。
 この後、クララと、侯爵の失われた財宝をめぐって、ルパンと兇賊、さらにジョルジュレ警部との虚々実々の争闘が展開する――
 「また来やがったのか? 畜生ッ!」「ソラ、ちょいと踊れば、この通り!」「これが燕返しの一手なのじゃよ」「ウァハッハ」などとのたまう、ルパンの伝法すぎる口調にいささか調子が狂うが、ツボを押さえた、弾むような語りには思わず、思わず引き込まれてしまう。円タク代を二十フランという珍妙な表現が出てきたり、当時の日本の流行歌「二人は若い」の歌詞が出てきたり、と訳者もノリノリの様子。
 超満員のカフェで見事な舞踏を披露した仮面の美女クララに迫る危機を、ルパンが機略縦横、彼女を肩にかつぎあげ、堂々と脱出するシーンは映画で観たいような名シーン。ラストは、ルパンの愛の成就と一抹のせつなさを描いて余韻嫋々だ。
 ストーリーには、「豊麗無比」「絶世の麗人」と表現されるクララにまつわる謎と、冒頭の歌姫の怪死の二つの大きな謎がある。ルパンの全生涯を通じて、「最も意外な、驚くべき、悲喜劇的な筆舌に尽くし得ない衝撃」とされる謎については、おおかたの読者には想像がつくだろう。
 が、ロバート・エイディの不可能犯罪物のリスト「Locked Room Murders」にも収録されている怪死の謎については、どうだろうか。これがオリジナルなのかどうかは分からないが、こんな話があってね、と人に語ってみたくなる真相ではある。

ストラングル・成田(すとらんぐる・なりた)
 ミステリ読者。北海道在住。
 ツイッターアカウントは @stranglenarita


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