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 さて、今回は1月~2月の新刊から、私立探偵を主人公とする小説を2つ、ご紹介したいと思います。

 まずひとつめは、ミック・フィンレー『探偵アローウッド 路地裏の依頼人』(矢沢聖子訳 ハーパーBOOKS)です。舞台は1895年のロンドン。主人公は新聞記者を辞めて私立探偵事務所を開いているさえない中年アローウッド。助手のバーネットともどもなかなか来ない依頼者を待つ日々を送っています。閑古鳥が鳴いているのは、探偵としての腕の問題なのかもしれないのですが、アローウッドはそう思っていません。なぜなら、1895年のロンドンには、かの有名なシャーロック・ホームズがいたからです。ワトスンによってまとめられストランド誌に掲載される冒険譚は市民を魅了し、人々はこぞってホームズを名探偵と持ち上げます。アローウッドにはそれが気にくわない。5週間ぶりの依頼者がきた時も、ちょうどストランド誌を読んだ後でした。そのときの依頼人とのやりとりはこんな具合です。

「ホームズは天才だとみんな言ってるわ。世界一の名探偵だと」
「それなら、ホームズに頼めばいいでしょう」ボスがそっけなく言う。
「だって依頼料がお高くて」
「それで、しかたなく私に?」
(11ページ)

 こんなやりとりを読むと、コミカルな作風を想像される方もいらっしゃるかもしれません。ですが、この依頼人が持ち込んだ「兄を探しだしてほしい」という依頼は、その後に訪れる最悪な事件の発端となるのです。

 ワトスン的存在の助手バーネットは、ちょっと頼りないところもあるアローウッドを支え、要所要所で助ける役割を果たしていますし、マフィン売りの少年ネディ(ベイカー街遊撃隊的な!)も期待に応えようと必死にがんばり、時にそれ以上の働きを見せます。アローウッド含め、軽妙な会話でコミカルな雰囲気を作り出していますが、事件の解決に向けて真摯に取り組んだ結果、あわや殺されるかというところまで追い込まれる場面もいくつかありますし、ストーリーそのものもかなり深刻です。これは舞台がアイルランド独立戦争前夜のイギリスということで、当時の社会情勢を色濃く反映させているからだろうと思います。

 ホームズと同時代の探偵ということもあり、『緋色の研究』「ボール箱」「ボヘミアの醜聞」など、ホームズ譚のいくつかにも触れられており、ご存じの方ならニヤリとしてしまう場面もちゃんと用意されています。特に後半、汽車の中でたまたま向かいの席になった婦人が読んでいたのが「ボヘミアの醜聞」事件の記事だと知ったアローウッドは、たった1日か2日家を見張って写真を取り戻しただけで千ポンドとは! などとホームズの活躍を妬みながらも、この事件の矛盾点を指摘して、最後には別の真相を提示してみせます。驚く婦人に、すべて自分の「作り話」だと断ったうえで、アローウッドはこのように続けます。

「ホームズはこの事件で誰が悪者か一度も問題にしていない」
(378ページ)

 詳しくは本作をお読みいただきたいのですが、凡庸だと思われた中年探偵が思わぬ鋭さを示すシーンとして強く印象に残りますし、《後期クイーン的問題》を想起させるやりとりだと感じました。

 ということで、ホームズと同時代の探偵物語として、とても興味深く読める作品ではないかと思います。続きはあるのかしら?

 続いては、ラヴィ・ティドハー『黒き微睡みの囚人』(押野慎吾訳 竹書房文庫)です。《ブックマン秘史》三部作『完璧な夏の日』など、SF畑の作家として知られる著者の最新邦訳は私立探偵もの……なんですが、探偵が事件を追い、やがて解決に導くというふつうの探偵小説の構造とは一線を画するものとなっています。

 主人公はウルフという私立探偵。物語の舞台は1939年のロンドン。《大転落》と呼ばれる出来事の結果、地位を剥奪され国を追われ、逃げるようにしてイギリスに入り、正体を隠しつつ私立探偵に身をやつしているウルフの元にひとりのユダヤ人女性が現れます。妹を探してほしいというその女性の依頼に対して「ユダヤ人からの仕事は受けない」と最初は突っ張るウルフですが、金の魅力に抗うことができず結局引き受けることに。その妹が行方不明になった裏に、人身売買の気配を感じ取ったウルフは、同じようにイギリスに逃げてきたはずの、過去の人脈を頼りに捜査を進めていきます。

 一方《時と空間を隔てた別の世界》においては、アウシュビッツで囚われの身となっているショーマーというユダヤ人作家が、過酷な日々を過ごしている様子が描かれます。この、《時と空間を隔てた別の世界》とは一体何なのか。ウルフを主人公とする私立探偵譚との関わりは? 読み進めるとその謎が少しずつ明らかになってきます。

 また、ウルフが国を追われるきっかけとなった《大転落》ですが、1933年、首相となったヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党が選挙で大敗し、ヒトラーはトップの座から転落。のちに共産党国家が構築されたことをこのように称していることが、これも次第にわかってきます。史実では、この選挙でナチが大勝、ヒトラーの独裁政権が揺るぎないものとなり、世界大戦への道を着実に歩み始めるわけです。

 つまりこの作品は、私立探偵小説でありながら、「“ヒトラーが失脚し、第二次大戦が少なくとも1939年11月時点では起こっていない世界”を描いた歴史改変幻想小説」なのです。

 人探しを中心に展開されるウルフの探偵譚は、探偵譚というよりはウルフ自身の露悪的部分に焦点を当てたSM小説としての側面が強く、これは作家というショーマーの経歴(名の知られたパルプフィクション作家だった)との関連がありそうですが、読み進めるうちにウルフとショーマーの境遇が重なりあって見えてくることに気づきます。アウシュビッツに収容されているショーマーと、国を追われて迫害される立場に立たされたウルフ。この二人の境遇がシンクロするとき、イスラエル出身である著者の目論見が見えてきます。本作が書かれた2014年頃、ドイツではネオナチ運動が拡大しつつあり、イスラム圏からヨーロッパに向かう移民・難民の数も増大している状況でした。このような中で、アウシュビッツで苦しむ男の姿と、地位も名誉も奪われて迫害されゆく男の姿を並列で描き出す。これを、現代ヨーロッパを席巻する移民排斥運動に対する風刺、あるいは批判と考えるのはそう難しくないのではないでしょうか。

 さて、ヒトラーで歴史改変といえば、もうひとつ有名な作品があることにお気づきでしょう。スティーヴ・エリクソン『黒い時計の旅』です。こちらは、ヒトラー率いるドイツ軍がソビエト侵攻を回避したことにより、第二次大戦で敗北しなかった世界を描きます。語り手の「時間と空間があらゆる基準点からみずからを解放した世紀にあって……」(柴田元幸訳)という言葉は、本作において、ショーマーの場面で挿入される「時間と空間を隔てた別の世界で」という言葉と呼応しているように思えますし、ポルノ小説が重要なモチーフになっているところも似ています。また、邦題の《黒き》は明らかに『黒い時計の旅』を意識しています(と思うんですがどうでしょう。原題が異なるので断言はできませんが……)。これらを考えるとティドハーは、『黒い時計の旅』を念頭に置きながら本作を書いたのではないかと思います。この2作を併せて読むと、また味わい深いのではないでしょうか。

 かたや、ホームズと同時代を生きたうだつの上がらない私立探偵。かたや、栄光の座から振り落とされて人目を忍びながら生きている私立探偵。同じ私立探偵を軸に据えた物語でありながら、これほどまでに毛色が違うというのも、このジャンルの豊かさゆえのことではないかと感じています。ぜひ手にとってみてください。

 最後に……繰り返しになりますが、第7回翻訳ミステリー読者賞への投票をよろしくお願いいたします!

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大木雄一郎(おおき ゆういちろう)
福岡市在住。福岡読書会の世話人と読者賞運営を兼任する医療従事者。読者賞のサイトもぼちぼち更新していくのでよろしくお願いします。