「今の翻訳ミステリー大賞シンジケートは、過去の名作についての言及が少ない!」ーーそんなことをお思いの方はいらっしゃいませんか?

そういう方向けの連載が今回から月イチで始まります。犯罪小説が大好きでしかたがないという小野家由佳氏が、偏愛する作家・作品について思いの丈をぶつけるコラムです。どうぞご期待ください。(事務局・杉江) 

 

 

 デビッド・グーディス『深夜特捜隊』(1961)を読み終えた時、何よりも印象に残ったのは警官バッジのことでした。
 主人公コーリー・ブラドフォードが一度失い、また手に入れるこのちっぽけなバッジは作品の〈シンボル〉とでもいうべき輝きを作中で放っていて、一読した後、忘れがたいものをこちらの心に残します。
 本作での警官バッジは単純に正義の紋章である、というものではありません。
 かといって権力を使って私腹を肥やすための〈殺人のためのバッジ〉というわけでもありません。
 そして、それを持つコーリーもまた正義の番人とも悪徳警官とも言い切れぬ性格をしていて、だからこそ、このバッジの存在に大きな意味がある。
 僕にとって本作は、バッジの作品です。

   *

 コーリー・ブラドフォードは警官くずれだった。
 ひと月前、賄賂を受け取ったのがバレて警官バッジを取り上げられたのだ。
 職を失い、妻にも逃げられた彼は暗黒街に繰り出して、みみっちい悪事をしている小悪党から小銭を取り上げては酒を飲むというようなどうしようもない日々を過ごしていた。
 彼の生活はある晩、一変する。
 暗黒街のボス格、ウォルター・グローガンに腕を買われ、彼の用心棒兼探偵として働くことになったのだ。
 これで暮らしていけると喜んだのも束の間、直後に彼は古巣の警察からもスカウトされる。それもギャングと対決する警察愚連隊、深夜特捜隊の一員として。
 片手にはグローガンから渡された拳銃、もう片方の手には深夜特捜隊の主任ヘンリー・マクダーモットから渡された警官バッジを持つことになったブラドフォード。勿論、そのまま都合の良いコウモリのままでいられるわけもなく……というのが本書の粗筋です。
 目を惹くのは、なんといっても警察とギャングとの板挟みという、主人公コーリーの立場でしょう。
 どちらかを立てるわけにもいかず、どちらの立場からも狙われる。作品によっては正義と悪の両面を併せ持つダークヒーローとして描かれてもおかしくない立ち位置ですが、本作ではそういう趣向はありません。
 それはコーリーの性格のせいです。
 先に書いたように振りきれていないのです。正義にも悪にも。
 上のような立場になったのも、流されるままというか、はっきりとどちらにも寄らずに相手の言うことに頷いていたら、そういうことになってしまったという感じなのです。
 そのくせ、自分では世の中を上手くわたっていると賢いつもりでいる。
 彼が警官をクビになる切っ掛けとなった賄賂の件についてからがそうです。自分は悪いことはしていない。ただ、ちょっと世界を上手く回すため、皆が幸せになるように金を受け取って、融通をきかせてやっているんだ。そうやって言い訳をして、ずるずるとはまり込んでいく。
 そんな彼を、チクリと刺すものがあります。警官バッジです。
 本作においてコーリーは警官バッジと何度も心の中で対話をします。「何を言い訳しているんだ。それが正しいとはお前も思っていないだろ」と説教をしてくるバッジ、それに対して「世の中こういうもんさ」と反論をするコーリー。
 これだけだと、ちょっとユーモラスな擬人化表現にしか見えないやり取りですが、読み進めてすぐに、コーリーの父親が清く正しい警官で、それ故に彼が生まれる少し前に命を落としてしまったという来歴が明かされ、このやり取りの印象がガラリと変わります。
 この警官バッジは、コーリーにとって、父親の象徴なのです。
 だから複雑な感情を抱くし、あまつさえ、それと対話をしてしまう。
 鬱陶しいと思いながらも捨てきれない。取り上げられて清々したと思っていたけれど、マクダーモットから再び渡された時、喜んでしまう。
 読者はそんなコーリーの態度を見て、もう一つ、気づきます。これは、父親の象徴でもあり、コーリーという中途半端な立場にいる男の中にまだ残っている、揺るがないものの象徴でもあるのだ、と。

   *

 『深夜特捜隊』には、中途半端な場所に甘んじているコーリーと対照させるように、どちらかの極に寄った存在が出てきます。グローガンとマクダーモットです。
 前者は自分自身のために暗黒街を仕切り組織を構築し、後者は自身の復讐のためギャングを滅すべく特捜隊を統率している。
 コーリーはそのどちらにもなりきれない。
 だけど、どちらかになることができるかもしれない、とも感じさせるのが上手いところで、両極とその真ん中という立ち位置にも関わらず、この三人はどこか似た雰囲気を持っています。全員が、何かを持っているようで失っている、孤独な人間なのです。
 グーディス作品では必ずといっていい程、主人公に対応する、主人公がならなかった/なれなかった存在が出てきます。『ピアニストを撃て』(1956)の用心棒、『狼は天使の匂い』(1954)の強盗団のボスなどがそれで、彼らはそれぞれの作品でもう一人の主人公ともいうべき存在感を示しています。
 果たして、コーリーはどちらの極によるのか。それとも、よらないままなのか。
 物語が進むにつれて彼が立たされるジレンマはどんどん酷くなり、銃撃戦が起き、血が散り、絵面も激しくなっていきます。
 コーリーの立ち位置も崩れていくのですが、それでも彼は煮え切らない。
 残りページ数が少なくなって、物語が佳境に差し掛かってもなお、コーリーはどちらにも、よれないのです。

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 『深夜特捜隊』のクライマックスというべき部分は、案外とあっさり終わります。
 十二分にド派手な展開ですし、こちらの予想も裏切ってくる。けれど、最も肝心なところで「え?」となるのです。この、ある種肩透かし感のある部分が本書のキモです。
 その後、ラストシーンで、どうしてこんな拍子抜けするような展開になったのか、理由が語られます。その瞬間、物語の〈シンボル〉であるバッジが主張をしてくるのです。
 ここがただただ、素晴らしい。
 持っていたものを失ってしまっていた。もしくは最初から持っていなかった。社会に蹴飛ばされるままにされていた。
 そんな男であるコーリーが、そこで何かを得て、変わる。本作のラストシーンは、ただただ力強いのです。

   *

 邦訳された作品数が少なくて、いまいち全容が掴めてないところもあるのですが、グーディスはどうやら、人生の敗北者を主人公にした作品を書いた作家のようです。少なくとも僕がこれまで読んだ三作はそうでした。
 どれも居場所のない、どこにいれば良いのか分からない男が主人公で、彼らは居場所を見つけたと思っても、すぐにそれを失ってしまう。自分自身の決意も揺らぎっぱなしです。
 そんな、頼れるところが何もない人間たちの物語の中だからでしょう。
 本作の警官バッジは、やたらとキラキラ輝いているように見えます。それはもう、眩しすぎるくらいに。

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小野家由佳(おのいえ ゆか)
ミステリーを読む社会人三年生。本格ミステリとハードボイルドとクライムコメディが特に好きです。Twitterアカウントは@timebombbaby