1950年代半ばに登場し、2013年に没するまで、哲学・心理学・文芸評論・犯罪やオカルト研究など広範な著作を遺し、そのほとんどが邦訳されているコリン・ウィルソンだが、最近では、急速に忘れられつつある感がないでもない。
 3年前に復刊されたウィルソン『宇宙ヴァンバイアー』の【解説セッション】で村上春樹が、「このあいだ書店に行ってびっくりしました。あんなにたくさん出ていたコリン・ウィルソンはどこへ行っちゃったんだろう」と発言しているくらい。
 『ガラスの檻』(1966)、『スクールガール殺人事件』(1975) などミステリの範疇に含まれる作品も残しているが、ミステリサイドからの評価はあまりないというのが実情だろう。

■コリン・ウィルソン『必須の疑念』

 そんな中、数少ない未訳の小説『必須の疑念』(1964) が、論創海外ミステリの一冊として刊行された。幅広い分野に精通し独自の思想を展開した作家だけに、通常のフォーマットに則ったミステリ作品でないのは必定。果たしてどんな作品なのか、読む前から近時にないスリルと期待を味わわせてくれる。
 主人公は、英国在住のオースラリア人で哲学者のカール・ツヴァイク教授。彼は、クリスマスイブのロンドンでかつてのドイツ時代の教え子が老人と一緒にいる姿をみかける。教え子グスタフ・ノイマンは、教授が天才と見込んだ知的能力の高い若者だった。教授がナチスの台頭により、ドイツを去る直前、グスタフの近しい老人が死亡する事件が起きる。老人は、グスタフに全財産を遺すが、老人の死因は不明だった。さらに、別の老人の死にグスタフが関与していた疑惑がある。元ロンドン警視庁の大幹部だったグレイに、教授は過去の経緯を打ち明けて、今夜見かけた老人にも死がふりかかるのではないかという懸念を語る。教授は自らの哲学が教え子に影響したのではないかという恐れも抱えている。
 かつての優秀な教え子が数十年の時をおいて、現前し、殺人者かと疑われるという魅惑的な滑り出しである。
 教授とグレイは英国で起きた別の事件とグスタフとの関わりを調べる一方、老人の身を案じ、老人と同行するグスタフの行方を追跡する。
 追跡の過程で登場するガードナーとその妻ナターシャのキャラクターが面白い。ガードナーは学問の世界からは相手にされない古代史の異説やオカルトを振りかざす、歩く「月刊ムー」のような裕福な男。その年若い妻ナターシャは霊媒で、教授の著作の熱烈な信奉者でもある。教授とナターシャの交情の深まり(幾分、作者の願望充足的な) が物語のアクセントを超えて、ストーリー展開の一方のエンジンにもなっているようにみえる。
 教授とグレイ、ガードナー夫妻は、四人の探偵チームのようになって、別荘に逗留しているグスタフと老人の監視を続けるが、教授はかつての教え子と図らずも再会することになり……。
 普通のサスペンス小説なら、監視の体制に入ってからは、ドラマティックな盛り上げのためのアクセルをふかすところだが、これは、教授と教え子グスタフの思想の対立を主軸にした小説ではないので、そうはならない。ユダヤ人の友人の死を契機に「人類はすべて昆虫です」「神々の側に立って人類に相対(する)」「犯罪者の巨頭になる」と宣言していたグスタフはそのまま殺人者になったのかという疑問が謎の核心。しかし、第一の死にも、第二の死にもグスタフはアリバイがあるようだ。催眠術による殺人というレトロな犯行手段も取り沙汰されるが……。
 作者が作者だけに、ミステリ読者が納得するような真相が待ち受けているとは想像しなかったが、最後に明かされる真相は、やはりトンデモなものだ。登場人物が「ひどい竜頭蛇尾の結末」とつぶやくくらい。ただし、コリン・ウィルソンの思想の中核にある、「(人間の意識は)圧力が弱いため中身が沸かない」(同書)、「要するに、人間は意志の力でもっと高い次元に上がれる」(前記【解説セッション】柴田元幸の発言)という見解を敷衍するものとはいえそうで、ロマン主義の時代に書かれたある小説を想起させもする。
 コリン・ウィルソンの小説には、『ガラスの檻』では主人公リードが作者の分身だったように、作者自身を思わせる人物が登場するようだ。本書でいえば、やけに疲労しやすいツヴァイク教授がウィルソンその人で、その教え子であるグスタフの思想にもウィルソンの投影がみられる。哲学的対立にもあまり深みはみられず、結局のところ「人間の世界経験は基本的に制約経験だ」というところでは、両者は合一する。本書は、ウィルソンの思想や興味・関心がストレートに出た小説で、読み終わってみれば、プロット、人物いずれも生煮えの感を拭えないが、この先に何が待ち受けているのか判らない不穏さ、もてなしのいいミステリにはない緊張感の伴う読書体験が味わえる。

■ジム・トンプスン『脱落者』

 ジム・トンプスン未訳シリーズも、はや第6弾『脱落者』(1961)。これまでの未訳作でも、様々な作家の貌を見せてくれていたが、本書はどうか。
 舞台はテキサス。主人公は保安官補トム・ロード、33歳。地元ビック・サンドに、曽祖父から三代続けて医師という名家に生まれた。父の遺した家に独りで住んでいる。かつては医学生だったが、父の介護で学業を諦めなければならず、心ならずも保安官補の職業に就いている。切れる頭脳の持ち主だが、軽薄者を装う。上司や同僚の信頼も篤い。だが、心は空虚だ。娼婦ジョイス・レイクウッドと抜き差しならない仲になっている。
 ここまで読んで、あれっと思う方も多いだろう。主人公の設定は、トンプスンの代表作『おれの中の殺し屋』(別題『内なる殺人者』)(1952 ) の主人公ルー・フォードの設定とぴたりと重なる。恋人の娼婦の名前で同じだ。(ちなみに、登場人物の一人のセリフ「この世界、そして花火」はトンプスンの中編のタイトルでもあるが、主人公の二卵性双生児の姓は、本作の娼婦と同じレイクウッドだ) 主人公周りの設定だけみれば、本書は同書のセルフリメイクとでもいうべき作品なのだ。
 多少とも違いを挙げるとすれば、主人公が一人称でしゃべりまくるのに内面の動きがほとんど描かれない(それが恐さの源泉でもある)『おれの中の殺し屋』と異なり、幾分なりとも主人公の内面が描かれ、解説すらされていることだろう。
「愚かで軽薄なトム・ロードの裏側あるいは内側には、もう一人のトム・ロードがいた。それが本物のトム・ロードだ」本物のトム・ロードは年々小さくなっていくが、「その一部はしばしば表面に突出し、わざとらしい西部人きどりや、辛辣なからかいの言葉として発言し、変えることができない世界に闇雲に猛反撃を加えている」。
 ロードは「自分は“丸い穴に四角い杭”の典型例」と自覚しており、各所でロードとロードのせめぎ合いが活写される。
 ここまで丁寧で共感すら呼びそうな主人公の内面の説明は、トンプスンの小説においては稀なことだといってもいい。
 トム・ロードはガールフレンドの娼婦ジョイスとドライブに出かけた先で車が故障し、近隣の油井の掘削施設で石油会社の責任者であるマクブライトに遭遇する。ロードには、マクブライトに騙され、石油の採掘権を巻き上げられたという因縁があった。ジョイスへの侮蔑の言葉からロードとマクブライトは取っ組み合いになり、そのさなかにマクブライトの銃が発砲され、マクブライト本人が死に至る。関係者は、事件を秘密にすることを誓う。
 マクブライトの妻ドナは13歳でマクブライトの家に引き取られ、先妻が亡くなってすぐに25歳離れたこの男の後妻になった。彼女は夫の死に続いて、死産し、夫の復讐を誓う。マクブライドの死を知ったギャングどもも動き出して、ロードに狙いを定める。
 ロードとドナの絡みを軸として、物語は進行する。容赦のないトンプスンらしさは随所に感じさせつつ、何かいつもとは感じが違う。苦味、辛み、渋味に加えてどこか甘く陽性の感覚があるのだ。ギャングがギャングらしく登場するのも珍しい。終盤には、(実はトンプスン小説では珍しいことに) 荒野の一軒家を舞台にした活劇まで展開される。心に鬱屈を抱える登場人物を据えてはいても、物語は、西部劇のセオリーに身を委ねているかのようだ。
 そして、ラスト。スクリューボール・コメディの嚆矢『或る夜の出来事』(1934) の「ジェリコの壁」を彷彿させるような「長枕」のエピソードには、これがトンプスンなのかとつぶやかざるを得ない。
 いやいや、これもトンプスンなのだ。前作『ゲッタウェイ』(1959) で逃避行を続ける男女に「エルレイの王国」という絶望の王国を与えた作家の筆になるとはにわかには信じ難くても。
 本書のありようは、商業的な理由によるギアチェンジにすぎないのかもしれないが、それでも、トンプスンは、『おれの中の殺し屋』の主人公に別な可能性を与え、別な物語として提示するという、判る人にだけ判るセルフリメイクを密かに敢行していた。
 スティーヴン・キングによれば、『おれの中の殺し屋』は、発表当時、一般読者と評論家の双方からほとんど無視されたという。してみれば、トンプスンの本書における孤独な試みは当時の読者にはほとんど伝わることはなかっただろう。そう思うにつけ、現在形で、作家の全貌が徐々に開示されていく醍醐味をもたらす本シリーズには感謝するしかない。

■J・S・フレッチャー/森下雨村訳/湯浅篤志編『楽園事件パラダイス・ミステリ:森下雨村翻訳セレクション』

 J・S・フレッチャーは、20世紀前半に活躍し英国の作家。多方面にわたり執筆したが、ミステリの範疇に入る作品だけでも約120作を超えたという。戦前には、我が国のファンにもよく知られる作家だったが、長い間刊行がなく、近年、『亡者の金』(1920)、代表作『ミドル・テンプルの殺人』(1919)の新訳が出て、その作風の一端を窺うことができた。
 『新青年』の初代編集主幹で日本探偵小説隆盛の大恩人ともいえる森下雨村は、フレッチャーの紹介にも熱心だった。
 雨村が『ミドル・テンプルの殺人』を気に入ったのは、そのリーダビリティにあったらしい。「今まで読みつけた推理や分析づくめで少々肩のこる部類の作品とはちがって、いかにも楽々と読めて、しかも何処までも本格的な探偵小説であるのが嬉しくて」その作品をロンドンの古本屋に注文して蒐集するほどのフレッチャー贔屓になったという(森下雨村「フレッチヤ氏とその代表作」/編者解題から引用) 
 本書収録の二編も、筋の起伏に富んでいること、語りのテンポがいいのには、瞠目させられる。
 「ダイヤモンド」は、曰くつきのダイヤの首飾りがその奪取を狙う悪人を転々として、一度手に入れた者には必ず不慮の死が襲うというストーリー。コーネル・ウールリッチ『運命の宝石』のように、次々と持主を変えていく物を中心に据えて手に入れた人の運命の変転を描く物語の形式があるが、その原型のような作品。宝石を手に入れるためには殺人も辞さない、ならず者群像は、描き方によっては強烈な悪の雰囲気も発散させるだろうが、書かれた時代もあって、あくまで筋の面白さの一環にとどまる。ヅリスコール嬢という未婚の女性が偶然に首飾りを手に入れるエピソードは物語の展開上の救いにもなっている。
楽園事件パラダイス・ミステリ」(1920) は、ライチェスタの大伽藍から一人の男が墜落死した事件の謎を扱ったミステリ。主要な登場人物として、過去が不明の医師と彼が親代わりになっている娘、彼女を何としてでも我がものにしたいと考えている代診医がいるが、この悪人のような代診医が主たる探偵役を務めるのが面白いし、誰もが何かを見聞きし、噂が噂を呼ぶ田舎町の雰囲気がよく出ている。
 本作は、1928年から翌年まで4か月にわたり「新青年」に連載された際、犯人当て「500円懸賞」が付されたという。3500通余りという多数の応募があり(本当だろうか)、一等がなかったというが、手がかりらしいものがほとんど提示されていないため、真相を見破るのは極めて困難だろう。実際、結末では推理の開陳はなく真相を明らかにするのは、犯人による告白でしかない。偶然の多用、フェアプレイや推理の要素が希薄であることは、フレッチャーのミステリを歴史の裡に埋もれさせていくことにもなったと思われる。
 いずれも抄訳だが、雨村の訳は、平明かつテンポが良く、人を逸らさない。例えば、「楽園事件パラダイス・ミステリ」の最後の方で、言い寄られた娘が切る啖呵は大変小気味いいものだった。

ストラングル・成田(すとらんぐる・なりた)
 ミステリ読者。北海道在住。
 ツイッターアカウントは @stranglenarita




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