先月、中国のミステリー小説家・紫金陳氏の長編ミステリー小説『知能犯之罠』(原作タイトル:設局)が行舟文化から刊行されました。

『知能犯之罠』は、復讐に燃える知能犯が悪徳官僚を次々に殺害する「官僚謀殺」というシリーズの第1作目であり、中国では2012年にネット小説として発表され、2014年に書籍として出版された作品です。

■本格派×社会派の傑作■

 あらすじは、中国の架空の県を舞台に、行政による強制撤去で母親を亡くし、その敵討ちのために仕事先のアメリカから戻ってきた知能犯が、街中あちこちに設置されている防犯カメラの網をかいくぐり、強制撤去に関わった官僚たちを始末していくという内容。そして、官僚連続殺人事件という極めて重要性が高い事件を担当することになった捜査官は、絶対に事件を解決しなければならないというプレッシャーを上層部からかけられていて、どんな手段を使っても事件を終わらせなければいけない事情があります。
 組織内での官僚同士の関係も事件の捜査に関わってくるという、中国独特のお国柄を反映した作品ですが、注目すべきポイントの一つに、犯人と捜査官が大学の旧友という間柄ということが挙げられます。そして、原作小説には収録されていないので邦訳版にも反映されていないのですが、ネット小説版のあとがきパートで作者の紫金陳氏は、この本が「東野圭吾に捧げる作品」だとはっきり書いており、この2人の関係が『容疑者Xの献身』をリスペクトしたものであることが伺えます。

 今回、私はこれまで紫金陳氏の本をほとんど読んできた縁もあって(参考:第47回 推理作家が書く監視カメラ大国・中国)、行舟文化から本書の翻訳者に選ばれ、中国ミステリーに10年以上関わってようやくミステリー小説を翻訳することになりました(デビューは青春小説の『あの頃、君を追いかけた』(著:九把刀)を泉京鹿さんと共訳)。
 そして、『知能犯之罠』の刊行を記念し、出版元である行舟文化とミステリーを中心に活動を行う創作・評論サークルの風狂奇談倶楽部が6月15日に共同でトークショーを開催。私がゲストとして招かれ、日本を代表する倒叙ミステリー作家の大倉崇裕先生を対談相手として、「ミステリを取り巻く現代中国社会」をテーマに中国ミステリー界隈の最新情報や中国社会の情勢を語ることに。

 正直な話、中国のミステリーには多少詳しいとは言え、日本や欧米のミステリーにはとんと疎い人間がミステリー好き読者や本物の作家を相手に何をトークすれば良いのかと参加をためらいました。しかしこのトークショーのおかげで、日本人読者が中国のミステリーに求めているものや、知りたいことの他、自分と日本人読者との乖離やギャップも理解することができて、私にとってはとても実りのあるイベントになりました。


【写真上:東京神保町の東方書店で平積みになっていた】

■ハードだった訪日スケジュール■

 実は今回、せっかく北京から東京まで行くのだからといろいろ予定を入れ、4泊5日という東京滞在で、知人のツテで大学の授業を使わせてもらって学生相手に中国ミステリーについて喋ったり、出版社相手に最新の中国ミステリー事情を説明したりしました。

 大学では、中国が専門ではなくミステリーも特にそれほど好きではない学生にとっては中国とミステリーという組み合わせが新鮮だったらしく、そもそも中国にミステリー小説があることすら想像できなかったようでした。私は彼らが小学生の頃から中国ミステリーに注目しているし、これまでにも様々な作品が邦訳されているというのに、世間での知名度はまだこれぐらいなのかと、トークショー前に冷静になれることができました。
 また、そういう学生には日本ミステリーの中国での受容度を紹介し、日本と中国のアンバランスさ、特に東野圭吾作品の大人気ぶりを教え、中国がどのぐらい日本ミステリーが好きなのか具体例を挙げることで、遠回りの形で中国に興味を持ってもらうことができました。

 出版社はもっと積極的で、現在中国で売れている作品を深く知りたがっておりました。この辺りは私が現地からの発信をもっと頑張らなければいけないところであると思いました。長年中国で生活している私は、日本で一体何が売れるのかという基準が分からなくなり、自分が面白いと思った作品だけを取り上げて、日本に紹介すれば良いと思っていましたが、何が売れるか分からないのは出版社の編集者も同じことです。しかし、経験やノウハウを持っている編集者は一日の長を持っているので、その作品が売れるかどうかの判断はプロに任せ、自分はもっと多くのジャンルに幅広く手を出し、より多くの作品を読み込むべきだと考えました。

■興味は検閲問題?■

 15日本番のトークショーではミステリー愛読者相手に、著者の紫金陳氏のことを含め、中国のネット小説や人気の作品についても喋りましたが、やっぱりみんな規制に興味津々という感じで、規制が中国の創作にどのような影響を与えているのかを話すことに。
 しかし、中国の文学界に規制や検閲が存在し、明文化されていない決まりの中で作家たちがそれぞれどこまで書くべきかを悩んでいる現状があるとは言え、それがミステリー小説界隈にどれほど制約を与えているのかは不明です。
 例えば『知能犯之罠』も、ターゲットが官僚であるということで現在の中国でなら絶対に出版できない、という声が上がります。しかし、別に原作がネットで削除されたわけでもなく、書籍版も購入可能で、この「ゆるさ」がまた判断を難しくしています。
 事前に中国のミステリー小説家から匿名で、中国では絶対に発表できないから創作を諦めたストーリーやトリックはあるのかなどのアンケートでも取れば良かったです。

 対談相手の大倉崇裕先生は『知能犯之罠』について、「倒叙ミステリーなのに刑事コロンボの匂いが全くしない」と、その特徴を評価していました。実際に紫金陳氏がコロンボをどの程度知っているのか不明で、この点も事前に聞いておけば良かったなと後悔。
 本書では、読者には犯人の正体が最初から分かっており、捜査官は事件の犯人とは知らずに旧友と接触し、さらに彼の頭脳を頼って事件の相談までするという有様で、刑事と犯人の心理的な駆け引きのようなものがほとんど描かれません。犯人有利の状況のまま進む倒叙ミステリーは日本や欧米では珍しいのかもと、大倉崇裕先生の指摘によって自分が翻訳した作品の魅力に改めて気付きました。

 トークショーで行舟文化の責任者が私の代わりに次のような説明をしてくれました。中国では本格派や社会派に数えられるミステリー小説家も少なくないが、本格派・社会派要素両方を作品に十分盛り込んでいる小説家は限られている。となれば、紫金陳氏は今後も中国で稀有な存在として活躍を続けることになるでしょう。
 今後の氏の小説の邦訳展開は不明ですが、氏には他にも「官僚謀殺」シリーズの第2作目で自らの悪行のせいで復讐された悪徳官僚の遺族が容疑者の遺族に報復するのを阻止するために、その容疑者の知人が官僚の遺族を次々に殺害する『化学女王の逆襲』、中国でドラマ化されてネットフリックスでは『バーニング・アイス』というタイトルで日本語字幕版もある『無証之罪』など、傑作はまだまだたくさんあります。

 また、風狂奇談倶楽部が用意してくれた上海の復旦大学のミス研メンバーが選んだ中国ミステリー小説ランキングを公開し、その作品の簡単なあらすじを紹介しましたが、どれもみな参加者の方々が興味を示したのがとても印象的でした。

 今回の訪日で、日本では中国ミステリーの人気はまだまだ低いのではと自信がなくなりましたが、例え知名度がまだ低いとしても、中国には面白い作品がまだたくさんあるんだと客観的に評価することができました。そして、中国現地にいる優位性を生かして、今後も中国の個性的なミステリー小説を広く紹介していこうという気持ちを新たにしました。その作品が面白いかどうか、何と似ているかどうか、どのようなメッセージ性があるかなどの判断は、日本の識者に委ねることにします。
 
 行舟文化では今後も、唐代の長安を舞台にし、王朝に渦巻く血なまぐさい陰謀を暴く女性探偵・裴玄静の活躍を描いた『大唐ミステリー』(著:唐隠)(参考:第42回:大スケールの中国王朝ミステリ)や、三蔵法師が名探偵となって天竺までの旅路で遭遇する事件を解決する『西遊八十一事件』(著:陳漸)など、中国のミステリー小説の邦訳版を刊行する予定です。
 どちらも日本人には馴染みのある中国の歴史の奥深さを味わえる作品で、歴史に対する原作者の深い造詣をうかがい知ることができます。だから翻訳するのはとりわけ骨が折れそうですが、私が翻訳するわけじゃないので気が楽です。

阿井幸作(あい こうさく)
 中国ミステリ愛好家。北京在住。現地のミステリーを購読・研究し、日本へ紹介していく。

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