みなさま、カリメーラ(こんにちは)!
 ここ数年でギリシャの国産ミステリの出版数は飛躍的に増えて来ました。2016年に出た新作は70冊を超えています。近年の興隆は喜ばしいことですが、実は《ギリシャ・ミステリの父》ヤニス・マリスが亡くなった1970年代終わりからフィリポス・フィリプ六歌仙No.3)がデビューした1980年代にかけてはギリシャ・ミステリの停滞期でした。1981年に新刊5冊、82年には何と1冊が出たに過ぎません。しかし、1990年代に入って、他の六歌仙マルカリス、マルティニディス、アポストリディスらが作品を発表し始める頃から、1995年8冊、2000年14冊と少しづつ盛り返し始めます。今も記憶に新しいギリシャ経済危機の時期にあっても、かつてのマリス・ミステリのような暗い世相を忘れさせてくれる娯楽作ではなく、現実の社会問題を正面から取り上げた作品が2009年30冊、2010年28冊、2011年40冊と出版され続けています。
 今回と次回のエッセイでは、経済危機のさなか2011年に長篇デビューした四人組についてご紹介していきます。第三世代の中でも新しいグループに属しますが、その背景も作品スタイルも見事なほどまちまちです。すでに普通小説を多数発表し作家として名声を確立している人もいれば、経歴が謎に包まれた異色の作家もいます。

◆ビートルズをこよなく愛する警察官

 ギリシャ・ミステリの主役と言えば、野暮で頑固なおやじ警官のイメージ。ベカス警部、ゲラキス警部、ハリトス警部……みんな口髭にタバコ、ギリシャコーヒーにスブラキ(ケバブ)がお好み。家族との絆は強く、地面を這いずり回って犯罪に立ち向かう馬力が持ち味で、容貌などほとんど描写されません(さして重要だとは作者も思っていない)。

 ところが、四人組の一人目、ヒルダ・パパディミトリウ女史の主役の造型にはちょっとビックリしました。ハリス・ニコロプロス警部に私が初めて出会ったのは短編アンソロジー『グリーク・ノワール』所収の「《ボス》の警護」(2019年)です。
 ハリス警部はアテネの中心リカヴィトスの丘を望む瀟洒なマンションに愛犬と暮らし、ビートルズを愛する犯罪捜査課主任。四十代で独身。オベリスクを思わせる堂々とした体躯。カールした金髪はこめかみが白くなり始めていますが、青い目がキラキラと輝いています。ミステリ・マニアで、名前が似ていることもあって、本人もジョー・ネスボハリー・ホーレを意識しているらしい。これまでの主役たちと何だか違う。ハリス警部だけでなく、同僚の女性警部や部下たちにも若い感性がみなぎっています。
 2014年アメリカの大物歌手ブルース・スプリングスティーン(愛称《ボス》)がアテネへコンサートにやって来ます。ところがマネージャーに謎の脅迫メールが届き、ハリス警部たちが警護することになるのですが、大スターに近づけるぜ、と若い部下たちは大喜び。「ダンシング・イン・ザ・ダーク!」を口ずさんで盛り上がります。

“部下たちはハリスからお薦めの映画や本について聞きたがり、ハリスの方は新曲の情報をねだっていた。そう、もちろん疑問に思われることだろう。こんな警察官のグループはちょっとあり得ない。しかし、かつてボブ・ディランが言ったように《時代は変わる》。時は流れをやめず、失業と長引く経済危機により、二十世紀の警官かたぎとは無縁の多くの若者が警察に入ってきていた。”
              ――「《ボス》の警護」の一節

 仲間の団結力の強さには往年の「太陽にほえろ!」を思い出してしまいました(「青春刑事ドラマ」ね)。リアルなタッチで社会や組織の暗い局面を描くことが多いギリシャ・ミステリにこんな作家がいるとは新鮮です。後味の良さもなかなかで、ジュブナイル版を読むような明るさです。

 ハリス警部ものの長編はこれまで三作出ています。初登場は『一握りのレコードのために』(2011年)。明らかにマカロニ・ウエスタン「一握りのドルのために」(「荒野の用心棒」の原題)のもじりでしょう。エンニオ・モリコーネのメロディーこそ流れませんが、全編に音楽が溢れています。と言うのも作者パパディミトリウはCDショップを経営し、ビートルズやクラッシュの音楽評論も書いている音楽畑の人なのです。

 ヒルダ・パパディミトリウ『一握りのレコードのために』

 メテフミオ社、2011。

 珍しく雪の積もったアテネ。中心部にある古い小さなレコードCD店《Rip It Up》が舞台です。近年店に足を運ぶ音楽ファンが激減し経営が傾く一方で、熱狂的な蒐集マニアが集まって60-70年代のポップス、ロック談義に明け暮れています。ちょいと天邪鬼の店長フォンダスや内向的な店員タチアナは四十代、古き良き時代を想い出してはせち辛くなった時代にため息をついています。フォンダスの元妻ソーニャ(タチアナの妹)は都会生活を嫌がり、ピレオ山中の別荘に引き籠もってしまいました(この山は「心理の検死解剖」ダネリ『判事ゲーム』の舞台[エッセイ4回])。
 そんな中、偏屈で嫌われ者の常連客が殺されます。部屋は膨大なレコード、カセット、CDに溢れています。タチアナの幼馴染みのハリス・ニコロプロス警部が捜査担当として颯爽と登場……のはずなのですが、ここでのハリス警部は「《ボス》の警護」で受ける印象とずいぶん違います。大柄で青い目は同じですが、優雅な独身貴族どころではありません。警察長官のコネで警部になったものの、初めての大事件を前に緊張気味、証言を書き付けようとあわてて文房具屋で手帳を買い、昼食には特大サンドをコカコーラ・ライトでかき込んでいます。しかも病院の匂いは苦手。アクの強いフォンダスや奔放なソーニャ、それに手強い尋問相手には小突き回されるし、コートを羽織って現われると「クルーゾー警部か」と笑われる始末。部下といえば、宝クジの予想に余念のない退職前のオヤジとコロンをプンプンさせた出世ひとすじの若造だけ。昔も今もイジメられっ子のようです。
 何より、高圧的な母親から親離れできていません。何かにつけ自分の趣味を押しつけられ、「お前はベカス警部じゃないんだよ。はやくいい娘を見つけて家庭をお持ち」などと叱責されています。ハリスの方は部屋に籠もって「レット・イット・ビー」を聴くか、エラリー・クイーンを読んで抵抗するという中学生レベルの情けなさ(ちなみに、クイーン最愛というギリシャ人ミステリ・マニア――つまり古典パズラー派――は珍しい)。
 調査が進むうち、過去にもレコード蒐集家が何人か襲われたことが分かってきます。しかし、今どき「一握りのレコードのために」人を殺す者などいるのか?
 登場人物たちはみな過去への悔いや現在の不満を抱え込んでいます。斜陽ビジネスへの執着。途中断念した留学への未練。対照的な姉妹の確執。それぞれが何とか未来へ踏み出そうとするのですが、その行為のひとつが犯罪につながってしまいます。そこで友人・恋人を救おうと何通りもの偽りの自白が飛び交い、事件はどんどん錯綜していきます。「スパルタカスか!」とハリスはため息。
 終盤に、周囲から押さえつけられひたすら低姿勢だったハリスもまた、ようやくある決意をします。シリーズ化を考えていなかったのではと思わせる幕切れですが、携帯の「イエロー・サブマリン」で目を覚まし、落ち込んでは「アンド・アイ・ラヴ・ハー」で心を和ませるビートルズ命のハリス警部が、道化役のように見えながらも、一番印象に残るのは確か。ユーモアと後味の良さはこの作家の持ち味のようです。

◆幕間――『グリーク・ノワール』と『ギリシャの犯罪5』

 上で触れた『グリーク・ノワール』についてちょっとお話しします。編者は『バルカン・ノワール』も手がけたヤニス・ランゴスヴァシリス・ダネリスの作家コンビ(エッセイ5回7回)。出版された経緯が変わっていて、ギリシャ本国での出版以前にまずトルコ語訳が出ました。イスタンブール在住のダネリスがギリシャ・ミステリの現状を紹介するため、書き下ろし短編集を準備してトルコ語訳しようという企画から話が進んだようです。

 ヤニス・ランゴス&ヴァシリス・ダネリス編『グリーク・ノワール』トルコ語訳

 イストス社、2018。

 
 第二世代の《愛欲ひとすじ》フィリプ六歌仙No.3)や《リアリズムの極北》アポストリディス六歌仙No.5)から2000年以降デビューの若手たちまで代表作家11人が作品を寄せています。
 ところがその後、『ギリシャの犯罪5』とタイトルを変え、2019年にギリシャ本国でオリジナル・ギリシャ語版が出版されることになりました。カスタニオティス社のこのシリーズは本エッセイでも何度か触れましたが、四巻すべてに《六歌仙》が作品を提供し、ダネリスのようにここでデビューした作家たちもいるという、現代ギリシャ・ミステリシーンを俯瞰するのに打ってつけの叢書なのです。しかも『5』が出るにあたって、《ギリシャのクリスティ》カクリ女史六歌仙No.1)、《国境を越える》マルカリス六歌仙No.2)、《心理の検死解剖》ダネリ六歌仙No.6)ら大御所の作品が付け加えられるという大サービスで所収作品は15編となり、より贅沢な内容になっています。

 アシナ・カクリ他『ギリシャの犯罪5』

 カスタニオティス社、2019。

 実は以前、編者のダネリス氏から『グリーク・ノワール』の草稿を送られ、一読して気に入ってしまい、試訳しつつ日本で出版できないものかと手立てを探していたのですが、いろいろな事情で頓挫した状態になっています。できれば、このパワーアップした『ギリシャの犯罪5』で、最新のギリシャ・ミステリをご紹介できないものかと考えています。

◆第二次大戦占領下の警察官

 2011年デビューの四人組に戻りましょう。二人目は『サロニカの虐殺』でデビューしたサノス・ドラグミス。パパディミトリウ女史とはガラリと作風が変わり、重苦しい極限の日常を生き抜く人々を描きます。

 サノス・ドラグミス『サロニカの虐殺』

 プシホヨス社、2011。

 第二次大戦中ドイツ軍に占領されたサロニカ(テサロニキ)が舞台。占領軍の弾圧や飢餓により道には日々死体が転がっています。ギリシャ人同士でも、レジスタンス側の《共産党実行部隊》と占領軍にすり寄る《防衛大隊》が大っぴらに殺し合い、おまけに闇市・麻薬・娼館を仕切るギリシャ人マフィアがこれに絡むという複雑な状況です。
 《私》ステファノス巡査長はドイツ軍とのコネでナイトクラブを闇経営していますが、客同士の暴力沙汰が殺人となり、密かに五体の死体(ナチス親衛隊の将校を含む)を始末します。翌朝、港でブルガリア人(?)とみられる男二人の異様な死体が見つかります。なぜか巷の一事件にゲシュタポが関心を寄せ、隻眼隻手(いかにも悪役)のドイツ人中尉が現場の指揮を執っています。これらの事件がどうつながっていくのか? 一方、《私》の妻エンマはユダヤ人で、父親は戦前に強制労働所に送られています。やがてベルリンから《最終解決》を図るためアイヒマンの冷酷な部下がやって来ます。 
 大戦前まで経済を支配していたテサロニキのユダヤ人、占領軍に協力し同国人に非道な暴力を振るう《防衛大隊》、体制側の行政・警察機構、親独だった大学教授や宗教界など、歴史の暗黒面が描かれます。《私》との取引に応じる《共産党実行部隊》も義侠心などからではなく、血生臭い抗争の一計略としか見ていません。
 何より主役の立ち位置の設定がいい。抵抗のヒーローからはほど遠く、体制側の一警察官として(小狡く闇クラブで小遣いを稼ぎながら)何とか日々を生き延びています。むろん占領軍には反感を抱いていますが、そこは公務員の身上、表面的には上層部に従うしかありません。しかし冒頭のドイツ人将校殺しの捜査の手が伸び、さらにドイツ軍情報局幹部の爆殺事件で町中が厳戒態勢に置かれる中、いよいよ収容所に向けてユダヤ人の搬送が始まります。この極限状態の中で決断を迫られた《私》は妻エンマを守ってどこまで抵抗できるのか? 全編が緊迫したスリルに満ちています。 
 作者ドラグミスはミステリ長編は三作だけですが、実は本名ソドリス・パパセオドル名義で、子供向け作品も含めすでに15冊以上の著作があります。中には『カヴァフィスの殺人』(2012年)など面白そうなタイトルもあり、これは読んでみたいです。(カヴァフィスは19世紀後半エジプトのアレクサンドリアに住みながら、現代ギリシャ文学史に重要な位置を占める詩人で、複数の日本語訳も出ています。)

 ソドリス・パパセオドル(サノス・ドラグミス)『カヴァフィスの殺人』

 プシホヨス社、2013。
 【表紙写真の人物はカヴァフィス】

 ドラグミスは上の『ギリシャの犯罪5』にも短編「死せる歳月」を提供しています。
 かつてオランダの宝石会社に勤めていた《私》は五年前にギリシャに帰国、私立探偵をしています。折から経済危機に抗議する民衆デモが激化し、警官隊との衝突で死傷者が出る中、路上での外国人娼婦惨殺がSNSで拡散し警察への批判が高まっていきます。リアルな社会派ミステリかと思っていたら、いつの間にか陰惨なホラー物になっていくという、児童文学も書いている作家のものとは思えない異色作です。

 残り二人については次回また。

 その代わりというわけでもありませんが、以下はおまけです。

◆欧米ミステリ中のギリシャ人(1)ニューヨークのギリシャ人

 エッセイ「第五回」でアメリカのギリシャ移民についてちょっと触れましたが、欧米ミステリにときおり登場するギリシャ人たちについて少しお話しさせてください。
 ギリシャ移民三世ニック・ステファノスを主役探偵に据えたジョージ・P・ペレケーノス(自身ギリシャ系)の第一作『硝煙に消える』が出るのはようやく1992年のこと。それまで、ハメット『マルタの鷹』(1930年)の殺された骨董屋ハリラオス・コンスタンティニデスとかチャンドラー『さよなら、愛しい人』(1940年)冒頭の消えた理髪師ディミトリオス・アレイディスなどは端役ですらなく、話のついでに名が語られるだけでした。

 ギリシャ人名が登場人物一覧表に並ぶミステリとして真っ先に思い浮かぶのは、エラリー・クイーン『ギリシャ棺の謎』(『ギリシャ棺の秘密』/1932年)でしょう。国名シリーズとしては四作目ですが、事件はエラリーが大学出たての頃に設定されており、犯人に何度もウラをかかれ、読者の方は二転三転するストーリーのうねりを楽しむことが出来ます(うねり・ひねりが激しすぎて犯人の動機ははて何だったのか?と忘れてしまいそうになるほど)。
ニューヨークで画廊を経営する富豪ハルキス一家に起きた連続殺人事件。当主ゲオルグ・ハルキス、妹デルフィーナ、従兄弟デミー(デメトリオス)、通訳トリッカラの四人のギリシャ系アメリカ人が登場します。しかし、他にはギリシャ人が出てくることもなく、故ゲオルグのごく内輪の密葬にも参列した同郷の知人はいなさそう。デルフィーナの息子アラン・チェイニーはハーフのはずですが、ギリシャとは全く無縁の存在。そもそもハルキス家は「ほぼ二百年にわたって教会の教区民」で、故人も(ギリシャ正教の「神父」ではなく)「牧師」によって葬られているので、渡米してすぐ新教に改宗したのでしょうか。「少なくとも六世代前からアメリカ人」として暮らしており、奇妙に故国とは断絶した一家です。
 唯一、デミーだけは十年前にアテネから呼び寄せられたのですが、知的障害を抱えて英語が覚えられず、従姉妹デルフィーナとはギリシャ語で会話しています。この時のデルフィーナの話し方がちょっと異様です。「喉につっかえるような外国語でしゃべりはじめた」(トリッカラやデミーの話しっぷりも「耳障りなギリシャ語」だの「たどたどしいギリシャ語」だのと散々ですが、これは個人的特徴かもしれない)。「喉につっかえる」というのは、たぶんギリシャ語の「ガンマ (γ)」や「ヒー (χ)」のことを指しているのでしょう。どちらも [g]、 [k] のように舌の奥で発音しますが、摩擦音なので喉の方から息が吹いてくるような印象を与えます。「エゴー(=私)」「エフリスト(=ありがとう)」などで使われる音です。ギリシャ人作家たちも他のヨーロッパの言語にあまりない変わった発音であることを意識しており、外国人の訛りを強調したいときによく利用しています。パトリシア・ハイスミス『殺意の迷宮』のアメリカ人ヒロイン、コレット(仏独伊語ができる)に言わせるとギリシャ語は「発音がとびきり難しい……こんなわけのわからない発音はありゃしないわ」となります。ただし、私見では日本語の音にけっこう近く(母音は五つ)、カタカナへの転写も英語や中国語ほど難しくはありません。
 さて、デミーはデルフィーナやトリッカラを介して警察の質問に答えますが、ある障害とそれを自身で説明できない点が、探偵エラリーを誤謬へと導くことになります。しかし正直なところ、外国人、ましてギリシャ人家族を登場させる必然性はなく、イタリア系でもドイツ系でもよさそうに思います。《棺》は今作のアイテムだけど《ローマ》は使ってしまったから、今回は《ギリシャ》で行こうぜ、最近はギリシャ系移民のピークだし……と考えたのか。通常のコミュニケーションが困難な証人を登場させ、そのもどかしさによりサスペンスを盛りあげたかったのかもしれませんが、この点では、同年発表の『Yの悲劇』で描かれる三重の障害を持つ人物の証言の方が、緊迫した不気味な雰囲気を醸し出しています。

 信教を捨てながらも母語を二百年間保持し、しかもギリシャ系の友人がいないというハルキス家。独身を通し、そのために消えた遺言書をめぐって事件を混乱させた最後の当主ゲオルグ。一体この不思議な家門のルーツは?

『ギリシャ棺』事件発生が1920年代後半だとして、ギリシャ本国では百年前に独立戦争が始まったばかり。二百年前の18世紀初めとなるといまだオスマン・トルコ支配期で、アメリカも独立戦争以前です。当時の移住といえば、圧政を逃れて地続きのロシアか、近隣のイタリア、フランス、エジプトへの流れでした。
 ギリシャ人のアメリカ渡航の最初の記録は16世紀初めまで遡れるようです。まとまった数の移住としては18世紀の後半にイギリス船にリクルートされた500人のギリシャ人がフロリダ東岸に到達し、ニュー・スマーナ(つまり「新しいスミルナ」)の町を造ったことが知られています。
 19世紀前半ギリシャ独立戦争が起きた頃に移住の動きが広がりますが、これも主にヨーロッパに向かうものでした。ロンドンやリヴァプールには大きなコミュニティが形成されていきます。少し後になりますが、クリスティー『ねじれた家』レオニデススミルナからロンドンに渡りビジネスで成功して、タイトルの不思議な屋敷を建てることになります(クリスティ作品にはけっこうギリシャ人が登場しますが、これについてはいつか書くつもりです)。ただし、この時期のアメリカへの流れは年間500人ほどに過ぎませんでした。

 アメリカ移住の波が本格化したのは19世紀末から20世紀初めにかけて、いわゆる《新移民》としてです。特にペロポネソス半島の出身者が多かったようです。ジョージ・ペレケーノスの描く探偵ニック・ステファノスの祖父(大ニック)も第一次大戦後、「アメリカに行けば、金儲けのチャンスが道ばたにごろごろ転がっている」という話につられ、スパルタに家族を残してワシントンDCへやって来ましたが、永住ではなく稼いでから帰国するつもりでした。渡米した多くのギリシャ人がこのパターンだったようです。ただし、大ニックは力仕事や酒の密売(禁酒法時代のこと)の後、孫のニックをギリシャから引き取り、食堂を経営しながら当地に住み着くことになります(ペレケーノス『俺たちの日』)。
 1892年にニューヨークにギリシャ正教会が建ち、1894年には初めての本格的なギリシャ語新聞が刊行を開始します。この頃ならハルキス家も同郷人のコミュニティという後ろ盾を得て、信教を捨てることもなかったでしょう。
 さらに20世紀に入ると、ニューヨークのギリシャ人は爆発的に増加、1910年からの十年間で20万人が流入しています。ハルキス家の殺人事件が起きたのはまさにこの頃でした。
 
 ハルキスChalkisという名はどこから来たのでしょう? 「ハルコス(=銅)」を語源とするこの姓は実在しますが、ドイル「ギリシャ語通訳」メラス氏とは違い(十九世紀後半ロンドン在住の教育家ヴァシリオス・メラスがモデルだとか)、ハルキス姓で著名な人物は見当たらず、ギリシャの大型百科事典にも載っていません。だいたい、六世代二百年続く家系というのがちょっとネックです。ヴァン・ダイングリーン家三世代が現実的なところか。『Yの悲劇』ハッター家は開拓時代まで遡りますが、オランダ系のようです。
 上に書いたように、ギリシャ人はフロリダ東岸に18世紀に上陸しています。そのフロリダの西岸なら、ギリシャ人の人口密度が全米一というターポン・スプリングがあります。この町には特にギリシャのドデカニサ諸島からスポンジ(海綿)採りの技術を持つ人たちが移住してきました(ついでながら、「スポンジ」の語源はギリシャ語「スポンゴス」)。その中にはロドス島の西の小島ハルキChalkiの出身者たちもいます(村上春樹氏は自身と似た名のこの島を訪れ、可愛い家並みが大いに気に入った、と欧州紀行『遠い太鼓』に書いています)。後に大手美術商として名をなす一家の祖が故郷の島の名を忘れないよう、ハルキスの姓を名乗ったのか?(銅が採れるわけではないのですが)


ハルキ島
By Barfbagger, CC BY-SA 3.0,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2451197

 しかし、ターポン・スプリングへの移住が始まったのは、ニューヨークなどと同様19世紀後半だそうで、やはり年代が合いません。だいいち最後の親族である従兄弟デミーはアテネから呼び寄せられているし。

なぜかドイツ語風に響く名のゲオルグ(「デメトリオス」>「デミー」同様、「ゲオルギオス」の語尾を落としたのでしょうか? それならなぜ「ジョージ」ではない?)。古い時期に新大陸へ移住してから二百年も続く「旧移民」と19世紀末から20世紀にかけて渡って来た「新移民」の合成人間のようなハルキス一族。
 真犯人よりも謎の多い人物です(クイーン警視もそう述懐しています)。

橘 孝司(たちばな たかし)
台湾在住のギリシャ・ミステリ愛好家。この分野をもっと日本に紹介するのが念願。現代ギリシャの幻想文学・普通小説も好きです。
 台湾では中国・香港映画がテレビでよく流れています。何度か再放映された法廷サスペンスの秀作「全民目擊」(2013年)。一体誰がウソをついているのか?……フィルム逆回しの真相解明がスタイリッシュ。

 法廷サスペンスの秀作「全民目擊」。元アイドルとは信じられないほどシブい俳優になった郭富城と凡庸な外見のどこにあの凄まじい演技力が? と思ってしまう孫紅雷の法廷対決が火花を散らします。後半は衝撃のどんでん返しのつるべ打ち。
 2019年の大傑作ミステリ映画「プロジェクト・グーテンベルク」周潤發郭富城の共演!)は間違いなくDVD化されるでしょうから、「全民目擊」もぜひ日本語字幕つきで商品化お願いします。
https://item.rakuten.co.jp/asia-music/10017794/

【↑ギリシャ危機当時財務相として奔走した経済学者が、内幕を綴った大部の作品。私は未見ですが、レビューではノンフィクションながら小説のように面白いらしい】


【↑リーダーを救おうと、囚われの奴隷戦士たちが「オレこそがスパルタカス! と次々に名乗りを上げます】



【↑カヴァフィス以外にも、二人のノーベル賞詩人セフェリスとエリティスはじめ現代ギリシャの代表的詩人20人の詩93編を所収。巻末には現代ギリシャ文学研究者・茂木政敏氏による詳細な「現代ギリシャ詩小史」も付されています】


【↑売れない私立探偵ニックが主役のデビュー作『硝煙に消える』は1990年代初頭が舞台ですが、第五作『俺たちの日』は六十年前に遡り、ニックの祖父大ニックや移民二世ピート・カラスが活躍します】


【↑クレタ島西部の寂れた町ハニアの描写が巧み】



【↑詳しい注釈つき。「ギリシャ語通訳」メラス氏のモデルについて説明があります】


【↑ハルキ島以外にもスペツェス島、クレタ島、カルパソス島などが登場。心暖まるような、ズレてるような現地の人々との交流は短編小説並の面白さ】

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