フランス映画界の新鋭ミカエル・アース監督による最新作アマンダと僕(Amanda)』(2018年)は、とても愛おしい映画だ。主人公はアパートの管理人としてアルバイト生活を送る青年ダヴィッドで、ある日近くの公園で起きたテロによる銃乱射事件で最愛の姉を失ってしまう。シングル・マザーだった彼女には7歳の姪アマンダがいて取り残されてしまうことになるのだが、自分の未来も見据えられないなか、ダヴィッドは大きな喪失感を抱えた多感な年頃の少女と向き合う自信を持てずにいる。ようやく出会えた優しい恋人もまた乱射事件に居合わせたために負傷しトラウマを拭いきれずに故郷に帰ってしまう。
 ネタバレになるけど、物語後半、アマンダを引き取り一緒に生活していこうと決意したダヴィッドは、生前の姉が3人で行こうと言って用意してあったウィンブルドン杯のテニス試合観戦のため、姪と2人で英国へ渡る。そこで応援している側の選手が一方的に押されている試合を目の当たりにしたアマンダが突然泣きだしてしまうのだ。訳がわからないいダヴィッドが問うと、「エルヴィスはもういない」と。
 この「エルヴィスはもういない」というのが、じつはとても大切なキーワード。亡姉が読んでいた本『エルヴィスはもうこの建物にはいないElvis Has Left The Building)』の意味をアマンダが訊ねるシーンが前半にある。
 英語では成句となっている有名な言い回しで、1950年代にエルヴィス・プレスリーが音楽界に現れるや一世を風靡した頃のライヴ終演後、会場から立ち去らないファンたちに向けられた、もうこの建物に彼はいないのだから諦めてお帰りください、という館内放送がもとになっている。つまり、終わっちまったことだから諦めな、ということ。
 ダヴィッドが何かを察した直後、負けていた選手が奇跡的な追い上げを見せることになり、「まだ終わっていないよ」と言った彼に、アマンダはにっこりと笑顔を見せる。激しく泣くシーンは劇中でほぼ見られないので、際立って印象づけられる名シーンだ。
 じつはこのミカエル・アース監督、前作『サマーフィーリング(Ce sentiment del’ete)』(2015年)もまた、突然の病死で恋人を失った青年とその恋人の妹との、その後三度訪れる夏を描いていく喪失の物語だった。


 愛する人の死、それ以上に辛い想いをすることはないだろう。でも、日常から大切なものを奪われるというのは、そればかりではない。突如としてすべての女性から声を奪われてしまう未来。そんな恐ろしい世界を描いたのが、クリスティーナ・ダルチャーのデビュー作『声の物語Vox)』(2018年)だ。
 本国アメリカでは21世紀版の『侍女の物語The Handmaid’s Tale)』(1985年)だと激賞されたという。アイラ・レヴィンの『ステップフォードの妻たちThe Stepford Wives)』(1972年)の恐怖、再来とも。

 物語の舞台は、新大統領マイヤーズの政策のもと、国内に住む全女性に対して、手首にワードカウンターなるものが強制的につけられることになった近未来のアメリカ。1日に100語以上の言葉を口にすると自動的に電流が流れ全身激痛に見舞われることになる。それは、大統領のおぼえめでたいコービン牧師らが唱える「ピュア・ムーブメント」なる教義によるもので、女性に職場を去らせ貞淑さや家庭を守ることだけを求めた、体のいい性差別による弾圧を法によって正当化したものだった。
 かつては認知言語学者として一線で研究を推進していたジーンもまた例外ではなく、夫と息子たちだけが雄弁で、幼い娘と二人沈黙を続けるという異様な毎日を今では送っていた。親友だったジャッキーにいたっては過激な反体制運動のために収容所に入れられてしまっていた。一方で、息子のスティーヴンはピュア・ムーブメントに感化されていき、ジーンとの距離がどんどん広がっていく。
 そんなある日、大統領の側近が突然自宅を訪ねてきて、事故で脳に損傷を受けた大統領の実兄を救ってほしいという依頼をされる。その研究の間はワードカウンターを外してもらえるというのだ。娘のカウンターを外し就学義務を免除してもらうことを条件に依頼を引き受けるのを承諾したジーン。研究室には、信頼する同僚の科学者リンと恋人のロレンツォがいて、厳重な監視の中、ジーンは彼らとともに政府転覆の楔となるある計画を立てるのことになる。
 トランプ政権下となってからのアメリカでは、この大統領みずからの白人至上主義的言動やら人種差別発言から、さまざまな危惧がささやかれている。まさに『声の物語』のマイヤーズ大統領みたいな存在になりうる可能性を孕んでいると。また、キャサリン・ロス主演の1978年版とニコール・キッドマン主演の2000年版とで2度映画化もされている『ステップフォードの妻たち』の舞台となる町を想起させもするし、絶望的な未来を描出する手腕はおみごと。


 だけれども、正直なところ、この『声の物語』はマーガレット・アトウッドの『侍女の物語』なくしては生まれなかった作品だろう。
侍女の物語』は、キリスト教原理主義者たちによるクーデターの結果、政権が奪取された21世紀初頭のアメリカ、ギレアデ共和国が舞台。出生率低下に危機感を覚えていた彼らは、すべての女性から職業と財産と地位を奪い、出産の能力のある女性を「侍女」として上流階級の家に仕えさせる。快楽や恋愛感情は認められず、主人の精子をただ受け止めるだけの、あくまでも妊娠道具として。
 そんな侍女の1人の独白が淡々と綴られていくのだが、諦観にも似た心境にある彼女の毎日にとある変化が訪れることになる。仕えている主人が、個人的に彼女を私室へ呼び出すようになったのだ。そこに未来への光明をわずかでも見出そうとするのだが。
 あまりにショッキングな設定は話題を呼んでベストセラーを記録し、カナダ総督文学賞、アーサー・C・クラーク賞を受賞。間違いなくアトウッドの代表作となる作品だ。
声の物語』は、物語の大枠の設定のみならず、作品全体を覆う“諦念”ともいった空気感まで、アトウッドが構築したディストピアの概念を踏襲している。音楽の世界で言うところのリスペクト曲というやつに近いかもしれないですね。ただし、そこに神経言語学といった科学的な肉付けやワードカウンターといった、より現代的な要素を散りばめ、さらにはエンターテインメント作品としてのスピーディーな展開とクライマックスを用意しているあたり、ダルチャーもかなり達者な書き手だと言えるのだけれど。
 巻末の丸屋九兵衛氏による解説でも触れられているけれど、テッド・チャンの短篇集『あなたの人生の物語Story of Your Life and Others)』(2002年)の表題作は、異星の文明と繋がろうとする言語学の可能性が描かれた名作。言語の存在意義を考えるうえでぜひとも本作と併せて読んでいただきたい。

 本歌取りとまでは言わないけれど重要な役割を果たしている『侍女の物語』。こちらも『闇の聖母 侍女の物語』のタイトルで1990年に映画化作品が公開されている。さらには、連続ドラマ版『ハンドメイズ・テイル 侍女の物語』がHuluにて配信されたのも記憶に新しいだろう。
 そんなわけで、もう少しアトウッドの話題をば。ミステリー好きにはハメット賞を受賞している『昏き目の暗殺者The Blind Assassin)』(2000年)がおなじみの彼女。『闇の殺人ゲームMurder in the Dark)』(1997年)なんてタイトルの作品集もあるのでドキリとするけど、こちら、暗闇での犯人当てゲームになぞらえて、作家である自分と読者の方々と作品との関係を犯人・探偵・被害者だというふうに表現してみせた表題作からきている。なんにしろカナダで最も著名な作家の一人だろう。最近では、北米の近未来を舞台とした『オリクスとクレイクOryx and Crake)』(2003年)、『洪水の年The Year of the Flood)』(2009年)を発表。執筆予定中の『Mad Adam』と併せて〈マッドアダムの物語〉三部作とする、大河小説に取り組んでいるところだ。いずれも“水なし洪水”によって廃墟と化した土地でのサバイバルを描いた、やはりディストピア小説である。

 そんなアトウッドの代表作ともいえる『侍女の物語』には、まったくと言っていいほど音楽が流れていない。
声の物語』でも、音楽はヒロインにとっていい形では現れない。たとえば、心の離れつつある息子の言動にショックを受けるたび、ヒロインの頭に響く警鐘が音楽の形をとる。下品な音に歌詞を置き換えて替え歌をうたうようになったというと、ポリスの「ドゥ・ドゥ・ドゥ・デ・ダ・ダ・ダ(De Do Do Do, De Da Da Da)」やルー・リードの「ワイルド・サイドを歩け(Walk on the Wild Side)」の歌詞が去来し、ガールフレンドと過ちを犯してしまったと知るや、アーサ・キットの「レッツ・ドゥ・イット(Let’s Do It)」の歌詞が頭を殴りつける。研究室での同僚との密談に用いるのは、エディ・ヴァン・ヘイレンのギターのように“やかましい”音がするMRI室だ。
侍女の物語』の舞台となるギレアデ共和国では音楽を楽しむことなど禁じられていたわけだから、音楽が聴こえてくるとしても、ヒロインの心の中でのみ、ということになる。
“大いなる慈悲、その甘い調べは/わたしのような哀れな者も救いたもう”という賛美歌「アメージング・グレース(Amazing Grace )」と、“寂しくてたまらない/寂しくて死にそうなんだ”というエルヴィス・プレスリーの「ハートブレイク・ホテル( Heartbreak Hotel )」、それぞれの一節のみ(そう、ここにもエルヴィスが!)。それすらヒロインには正確には思い出せない。
 が、これまたネタバレになるとはいえ文芸作品ということでご勘弁いただきたいのだけれど、ラストのラストに具体的に音楽に関する記述がしっかりと登場する記述がある。この侍女がかたる物語自体が、【以下反転】じつはカセット・テープに吹き込まれた形で発見された【反転おわり】ということが判明するシーンだ。
 その音楽というのも、【以下反転】どのテープにも最初に数曲だけ歌が録音されていて、その後に独白が始まるという、明らかにカムフラージュのためのもの【反転おわり】。ラベルにも音楽のタイトルがつけられている。『マントヴァーニのメロー・ストリングス』、『ボーイ・ジョージ、テイク・イット・オフ』、『カーネギー・ホールのツイステッド・シスター』――。実際には、作中で、女性から完全に自由が奪われる制度が生まれる契機となる、テロによる政府転覆は21世紀初頭の出来事と見られるので、その後ですら記録装置としてカセット・テープは時代錯誤で少々奇妙にも思えるんだけど、アーティスト名については、まさに1960~90年代あたりに合致するものばかり。ところが、具体的な名前を登場させているというのに、不思議なことにここに挙がっているタイトルのアルバムやシングルは(おそらく)見事にありそうでいて実在しない。ここに記された音楽については、英語圏ではいくつかの論文も書かれているようで、ここにはアトウッドの多分に恣意的な選択が投影されているとの説もあるようなのだ。
 それらに混じって、『エルヴィス・プレスリーのゴールデン・エイジ』と書かれたテープが4本もある。セクシャルなものを禁じたギレアデ政権下で、1950年代から死ぬまでセックス・シンボルでもあり続けたアーティストの名を記したというのが象徴的である。それは、ヒロインが心の中でつぶやいた「ハートブレイク・ホテル」とも呼応して、その符牒がまた彼女たちの想いを浮き上がらせる。
 そして、何よりも心に刺さったのは、侍女が、彼女たちが自らの悲劇をせめて後世に伝えようとわずかに点し続けた希望の灯が、ちゃんと消えずに伝わったということ。まだ終わっていない。そう、やはりエルヴィスはまだいた、ということ。
 ちなみに、トランプ大統領が人種差別発言を向けたことに対して謝罪要求をした4名の民主党女性下院議員の中には、アヤナ・プレスリー議員という方がいる。大統領の写真をアップして「これが人種差別の姿」とツイッターに書き込んだという。これまた、ちょっとした不思議な符牒でしょうか。

◆YouTube音源

■”Elvis has left the building”

*1956年末に初めてこのフレーズが使われた時の場内放送。以降、エルヴィス・プレスリーのライヴがあるたびに、このフレーズが何度も繰り返されていく。

■”Walk on the Wild Side” by Lou Reed


*ルー・リード1972年発表のヒット曲。ネルソン・オルグレンが1956年に書いた小説『荒野を歩め』(1962年に映画化)をもとにしたと言われる歌詞は、当時アンディ・ウォーホルの取り巻きだったゲイやニューハーフ、トランスジェンダーの人々のことを語っている。

◆関連DVD・映画情報
■『闇の聖母~侍女の物語~(The Handmaid’s Tale)』

*1990年、フォルカー・シュレンドルフ監督、ハロルド・ピンター脚本、坂本龍一音楽、ナターシャ・リチャードソン主演による映画化作品。

■『ステップフォード・ワイフ』

*1975年、『ステップフォードの妻たち』の映画化作品を改題。キャサリン・ロス主演

■『ステップフォード・ワイフ』

*2004年、『ステップフォードの妻たち』のリメイク版。フランク・オズ監督、ニコール・キッドマン主演。

佐竹 裕(さたけ ゆう)
 1962年生まれ。海外文芸編集を経て、コラムニスト、書評子に。過去に、幻冬舎「ポンツーン」、集英社インターナショナル「PLAYBOY日本版」、集英社「小説すばる」等で、書評コラム連載。「エスクァイア日本版」にて翻訳・海外文化関係コラム執筆等。別名で音楽コラムなども。
 好きな色は断然、黒(ノワール)。洗濯物も、ほぼ黒色。










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