少年野球チームに所属していた当時、ある試合で、ヒットで出塁したものの隠し球でアウトになったことがある。すごすごとベンチに戻ってきた私を監督は怒鳴りつけ、形ばかりうなだれてその罵声を聞いていた時、私は隠し球をやられたということを恥じるよりも、卑怯なことをしやがってという怒りにふるえていた。40年近く経った今でも、隠し球と聞いて思い出すのは、やはりこのときの光景なのである。

 以来私の中で、隠し球は「こすい」行為だとインプットされているため、「私の隠し玉」とか「弊社の隠し玉」みたいに、奥の手とかとっておきとか、なにか切り札的な意味でポジティブに使われているのがまったくわからない。隠し球は本来ネガティブな行為じゃないの?(個人の見解です) なぜみんないい意味で使うのかな?(個人の見解です)

 とごねてみても仕方がない。野球以外では、ほぼポジティブな使い方しかされないこの言葉、今では私も「カクシダマ」という同音異義語だと思うよう努力している(※辞書的にはどちらも正しい用法です)。

 というわけで今回は、4月のコンベンション「イチ推し本バトル」で紹介された、各社の隠し玉、ならぬ各社のイチ推し本から2作品を紹介したい(隠し球関係ないじゃん……)。

 まずは、ニコラス・ナット・オ・ターグ『1793』(ヘレンハルメ美穂訳 小学館)から。

 グスタフ三世暗殺に端を発するスウェーデン王政の堕落。民衆は貧困と不衛生にあえぐなか、王政への不信を募らせていた。そんな1793年の秋、引っ立て屋(聖書時代における徴税人、あるいは江戸時代の岡っ引きのような存在。民衆から恐れ忌み嫌われている)のミッケル・カルデルは、市民がゴミや汚物を捨てに来るドブのような湖で、両目がくり抜かれ、舌と四肢を切断された死体を発見する。スウェーデンにまだできて間もない警視庁では、この事件の捜査を法律家のセーシル・ヴィンゲに依頼。カルデルはその助手として捜査を手伝うことになる。カルデルは戦争で左腕を失っており(木製の義手を装着している)、ヴィンゲは結核で余命幾ばくもない状態。このコンビで猟奇殺人事件の捜査に臨むというのが第一部である。

 四部構成の第二部は第一部から時間が巻き戻って同年夏、田舎からストックホルムに出てきた若者の放蕩ぶりが描かれる。そして第三部(同年春)では、売春婦の濡れ衣を着せられ強制収容所で働かされる少女の話となる。そしてこれらの物語が、第一部の殺人事件とどのようにつながるのかが、第四部(同年冬)で描かれる。第二部も第三部も、第一部で描写された民衆の貧困と不衛生、そしてそれらが人の心を蝕んでいる様をしつこいくらいに描く。地位も名誉も金もない弱者たちが、それらすべてを持った強者によってどのように虐げられていたのかということ。今を生きる私たちから見れば、ここに描かれる弱者も強者も明らかに理不尽である。しかしこの時代を生きた人たちにとっては、この理不尽さこそが「正しさ」だったのだということを、文章の端々から思い知らされるのである。

 フランス革命前後のヨーロッパの雰囲気といえば「ベルばら」のイメージしか持ち合わせていない私にとっては、同じ時代のスウェーデンはこうだったのか、と最初から最後まで驚きを隠せなかった。本作は三部作の第一作目とのこと。続刊が楽しみである。

 続いてはユーディト・W・タシュラー『国語教師』(浅井晶子訳)、集英社のイチ推し本である。

 国語教師のマティルダが申し込んだ、生徒向けワークショップの企画で派遣された作家講師は、16年前まで恋人であったクサヴァーだった。冒頭のメールのやり取りから、二人が付き合っていた期間が16年、別れてから16年が経過していること、しかもクサヴァーは、なんの説明もしないまま一方的にマティルダの前から去っていったということが明らかになる。そんな過去がありながらも再会を楽しみにしているクサヴァーと、彼の気持ちを知りながらどこか冷たい態度のマティルダ。現在の二人の心境がまったく違うことが伺えて、これは一筋縄ではいかない展開になるのでは、と期待とも不安ともつかない気持ちを抱きながらページを繰っていく。

 本作は、

1)「再会前にマティルダとクサヴァーが交わすメール」=現在
2)「マティルダとクサヴァー」=二人が付き合っていた頃の物語(過去)
3)「クサヴァーがマティルダに語る物語」=事実に基づいた創作
4)「マティルダがクサヴァーに語る物語」=事実なのか創作なのかわからない体験談

が、ランダム繰り返される構成になっている。その合間に、シナリオ風に描かれる「マティルダとクサヴァーの十六年ぶりの再会」と「クサヴァー・ザントに対する事情聴取記録」が突発的に差し込まれ、また後半には、ところどころに「マティルダ」と「クサヴァー」と題されたそれぞれの生い立ちも挟まれる。

 二人が別れた後の人生には、ある大きな事件が影を落としており、そのせいでいくら読み進んでも、二人の物語がどのような結末を迎えるのかがなかなか明らかになってこない。しかし結末がどうか、真相がどうかということよりも、二人が本当に欲しているものが明らかになっていくにつれ、私は彼らの思いに心を動かされていることに気づいてしまう。特に、4)から立ち上る不穏さと、それを聞いたうえでクサヴァーが“語り直す”物語を目の当たりにしたとき、私はまさに二人の思い(=二人の語る物語)に絡め取られてしまうような気がしたのである。

 蛇足ながら、本作にはダメ男小説としての側面もある。思うに、ダメ男にはふたつのタイプがあって、ひとつは幼少時からずっと成績優秀、仕事でも能力を発揮し、高い収入と高い社会的地位、周囲の信頼も厚い男が、たったひとつの過ちからずるずると転落していくタイプ。もうひとつは、生まれたときからずっとダメ男というタイプである。さて、クサヴァーはどちらのタイプだろうか。ダメ男小説がお好みの方にはそんな楽しみ方もできる作品である。

 

大木雄一郎(おおき ゆういちろう)
福岡市在住。福岡読書会の世話人と読者賞運営を兼任する医療従事者。読者賞のサイトもぼちぼち更新していくのでよろしくお願いします。