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 いままで怪盗ニック作品を読んだことがない読者に、ぜひとも読んでいただきたい短編はどれかと尋ねられれば、もちろん、「全部」と答えたいところですが、まず、第1巻第1話の「斑の虎を盗め」はぜひとも読んでいただきたいですね。怪盗ニックの非合法活動を初めて記録した貴重な物語です。ニックの私生活や裏の仕事、生い立ちなどを簡潔に説明しています。これを気に入っていただければ、あとの作品もきっと楽しく読んでいただけるでしょう。残念ながら、お気に召さなければ、あとの作品は無理にお薦めしません。第1巻で訳者のお気に入りは第15話「七羽の大鴉を盗め」でしょうか。作品の序盤と終盤にニックの口調を極端に変えるところが醍醐味なのですが、これはとくにスカッとするほど変えました(これは英語の文章ではできません)。

 第2巻では、第23話「将軍のゴミを盗め」を読んでいただきたいです。ニックの本業は政府の諜報員だとグロリアが思い込む状況が描かれているからです。訳者のお気に入りは第18話「くもったフィルムを盗め」です。HMM訳載時の訳者名はなぜか「四条美樹」だったのですが、わかりやすくするために、早川版とは大きく変えた箇所がいくつかあります。1970年代の感覚と2010年代の感覚が大きく変わったためです。

 第3巻では、第34話「きのうの新聞を盗め」を読んでいただければ、グロリアがニックの裏の職業をついに知る経緯がわかるでしょう。訳者のお気に入りは第33話「駐日アメリカ大使の電話機を盗め」です。ホックの文章からでは、大使館勤務の女性の言動がなかなか理解しづらかったのですが、いろいろな仮説を立てていくうちに、もっとも理屈に合いそうな仮説にたどり着いて、なんとか自分では納得できる訳文が書けました。

 第4巻では、ぜひとも第45話「白の女王のメニューを盗め」を読んでいただきたいです。のちにニックのライヴァルから仕事仲間になるサンドラが初めて登場して、このシリーズを活性化させたからです。訳者のお気に入りである第48話「図書館の本を盗め」は、この訳者を含むミステリー書籍愛好家好みの作品です。ダシール・ハメットの『影なき男』のハードカヴァー廉価版を盗む話なのですが、収集家好みの蘊蓄が含まれているからです。

 第5巻の第63話「レオポルド警部のバッジを盗め」には、ホックのほかのシリーズ・キャラクターであるレオポルド警部がゲスト出演をするうえに、サンドラも共演するという豪華な作品なのですから、ぜひとも読んでください。そして、訳者が気に入っている第72話「錆びた金属栞を盗め」では、訳者もよく行ったことがある昔の〈ミステリアス・ブックショップ〉が舞台で、故スー・グラフトンの稀覯書『アリバイのA』初版本を最近見つけたので、とくに感無量なのです。

 第6巻では、07年に発表された最終話でもある第87話「仲間外れのダチョウを盗め」をぜひとも読んでいただきたいですね。第1話と最終話を読んでいれば、怪盗ニックものをすべて読んだ気になると安易に思っただけですが、無理ですよね、ご免なさい。ニックが最後に言う台詞は、皮肉にも読者に向かって言っているようです。でも、2008年に亡くなったホック自身、これが最終話になるとは思ってもいなかったはずです。そして、訳者のお気に入りは、もちろん、第75話「グロリアの赤いコートを盗め」です。本当は初めての読者にもぜひ読んでいただきたいんです。1965年11月のニューヨーク大停電の夜にグロリアとニックが初めて出会った経緯が描かれています。当時、グロリアが住んでいたスタイヴェサント・タウンや、彼女が地下鉄をユニオン・スクウェア駅で降りて、家まで歩いた様子を頭に描きながら訳していました。停電の4年後の1969年から72年まで、訳者はその近くに住んでいたものですから。

 初めて読む方は、まず「ぜひとも読んでいただきたい作品」を読んでくださるだけでいいです。訳者のお気に入り作品は、再読してくださる方々のために書いた取り留めのない独り言ですから、無視してくださっても結構です。
 初めて読む方も、再読する方も、怪盗ニック作品を理屈なしに楽しんでくだされば、訳者としても嬉しい限りです。

 

木村二郎(きむら じろう)
『ミステリマガジン』9月号に〈ジョー・ヴェニス・シリーズ〉の最新中編「厄介な古傷」が掲載されています。ニューヨークの私立探偵ヴェニスが24年ぶりに『ミステリマガジン』に戻ってきました。目下のところ、猛暑なのに次作を執筆中。それと同時に、名作とされる私立探偵小説の新訳をこつこつと試みているところです。
 2013年刊のヴェニスもの短編集『残酷なチョコレート』の古本にアマゾンで10万円以上の値段(なんと定価の50倍以上! 嘘じゃないんだ!)がついているのを見て、喜んでいいのか、驚いていいのか複雑な気持ちです。