La caravane du crime, « Détective », n° 257, 1933/9/28号*[犯罪隊商]
・Pierre Deligny提供, La caravane du crime, Les Amis de Georges Simenon, 1995 *研究同人誌、400部
Une « première » à l’île de Ré, « Voilà », n° 133, 1933/10/7号*[レ島の《最初の人》]
・Georges Caraman名義, Police judiciare, « Police et Reportage », n° 9, 1933/6/22号*[司法警察局]
Les coulisses de la police: du quai des Orfèvres à la rue des Saussaires, « Paris-Soir », 1934/1/26, 27, 28, 30, 31, 2/1, 2, 4, 5, 6, 10, 11号1934(全12回)*初出タイトル:En marge de l’affaire Stavisky, les coulisses de la police, du quai des Orfèvres à la rue des Saussaies [警察の舞台裏:オルフェーヴル河岸からソセエ通りへ(スタヴィスキー事件の外側で、警察の舞台裏、オルフェーヴル河岸からソセエ通りへ)]
Des crimes vont être commis…, « Je sais tout », n° 341, 1934/5*[犯罪はなされるだろう……]
Stavisky ou La machine à suicider, インタビュー:« Marianne », 1934/1/24号*, 原稿記事:« Excelsior », 1934/3/1, 10, 15号(全3回)*[スタヴィスキーまたは自殺屋]
À la recherche des assassins du conseiller Prince, « Paris-Soir », 1934/3/20, 21, 22, 23, 25, 26, 27, 28, 29, 30, 4/6号(全11回)*[プランス判事の殺害者を捜すなかで]『わが訓練』記載の書誌は誤り。
Inventaire de la France ou Quand la crise sera finie, « Le Jour », 1934/10/31, 11/1, 2, 4, 5, 6, 7, 8, 9, 10, 13, 14, 15, 16, 17, 18, 20, 21, 24, 26, 27号(全20回)*[フランスの詳細調査または危機が終わるとき]
Mes apprentissages: Reportage 1931-1946, Omnibus, 2001

 今回は“おまけ”の第2弾、『わが訓練』に収載された第一期シムノンの犯罪ルポルタージュ・社会派エッセイ編である。
 もともとシムノンは故郷リエージュで地元紙《ガゼット・ド・リエージュ》の青年記者をやっていた、という話はこれまで何度か書いた。フランス大衆文学研究者のフランシス・ラカサン氏は、『わが訓練』の序文でシムノンの後年のインタビュー内容(1975年5月5, 6日収録)を引用している。それによるとシムノンの家庭では父親しか新聞を読む習慣がなく、そのためシムノン自身も子供のころはまったく新聞を読まなかったのだという。だがあるとき道を歩いていて《ガゼット・ド・リエージュ》の前を通りかかったとき、ふと決意して「雇ってほしい」と申し出たのだそうだ。
 シムノンはガストン・ルルーの『黄色い部屋の秘密』を読んでおり、そこに登場する青年記者ルールタビーユから強い感銘を受けていた。彼はルールタビーユを気取って警察回りの事件記事からオペラの劇評まで何でも書き、ジャーナリストとして訓練を積んだのである。
 シムノンの回想には事実と異なる部分があるらしく、後に研究者の努力によって「シムノンの記憶違いである」と指摘された例も少なくない。たとえば「ペンネーム時代に新聞発行主からの要請で3日3晩《ガラスの檻》に入って衆人環視のもとタイプライターを叩いて長編を仕上げた」とか「デルフゼイルで《オストロゴート号》の修理が必要になったので、近くにあった船にタイプライターを持ち込んでメグレものの第一作『怪盗レトン』を書いた」といった逸話は、後年シムノン自身がよく語ったり書いたりしたので日本でも多くの翻訳家や評論家に引用されてきたが、フランス語圏の研究者によるとこれらは「シムノンの記憶違いで広まってしまった伝説」に過ぎないのだそうだ。
 よって、シムノンの自伝に書いてあるからとかインタビューが残っているからという理由ですべての話を鵜呑みにすることはできない。シムノンはたぶん嘘をついたり話を盛ったりするつもりではなかっただろうが、間違った記憶を事実だと思い込んで、何度も語ってしまうクセがあったのだろう。作家に限らず人は同じことを繰り返しインタビューされると、やがて真実であったか本心であるかどうかを抜きにして、いちばん語りやすいストーリーを次第に自分でつくってしまうものだ。
 であるから、子供のころ新聞をまったく読まなかったという話も本当かどうかわからないが、結果的にシムノンはジャーナリストとしてまずキャリアを積み、その経験は本名名義で小説を書くようになってからもしばらくは活かされ、ジャーナリストとしての視点を持ち続けた。とくに第一期において、ジャーナリストとしての仕事と小説の仕事は表裏一体の関係にあった。
 これまでシムノンの旅行ルポルタージュは折に触れて繙いてきたが、実はこの時期のシムノンは犯罪に関するルポも書いている。メグレ警視ものが当たって、推理小説作家として実際の事件を報告してほしい、事件の真相を推理してほしい、という依頼が舞い込むようになったわけだ。日本でも探偵小説の勃興期には多くのミステリー作家が事件ルポを書いたり現実の難事件を誌上推理したりしていたのだから、同じことがシムノンにも起こったわけである。
 そのなかには当時のフランスを揺るがした大疑獄事件──スタヴィスキー事件も含まれていた。

■「犯罪隊商」(1933)■

■「レ島の《最初の人》」(1933)■

 掲載紙は異なるが前後編として読める。旅行ルポルタージュの趣きもあり、シムノンらしい印象深いエッセイで、今回紹介するもののなかではいちばん好きだ。
 これはラ・ロシェル沖にある囚人収容島のレ島(省略名ではなく、本当にRé島という)へ、フランス中から集められた犯罪者たちが運ばれてゆく様子を綴ったルポルタージュである。シムノンが一時期暮らしていた場所の近くだ。
「昼の12時半、ユソー橋に注意してみろ」
 そういわれて私(シムノン)は出向いた。自分の住まいからわずか3キロのところの橋だが、いままで知らなかったのだ。
 正午に私は橋に着く。昨夜は雨だったがいまは晴天だ。車を道路脇に停めて待っていると、やがて新聞社の報道記者やカメラマン、警官が集まってくる。記録映画の撮影係はふたり。まるでピクニックか何かが始まるかのようだ。
 そしてついに次々とバスがやってくる。30台、いや、38台か。多すぎて数えられない。ここに乗っているのはすべて有罪者・殺人者たちなのである。彼らはフランス中から集められ、ラ・ロシェルまで特別列車でやってくる。そしてこの橋の袂までバスで運ばれるのだ。
「出ろ!」という警備員の命令で、男たちが次々と降りてくる。彼らは足首と手首が鎖でつながれている。いまは私服を着ているが、それを着るのは今日が最後になるだろう。彼らの歩くさまはまるでキャラバンだ。わずかに空が曇ってきて、撮影係のふたりはよい場所を陣取ろうと競い合っている。
 彼らは橋を渡り、引き船のデッキに降りる。別の警備員が彼らを座らせてゆく。狭い船の上で、隙間を詰めるため彼らが互いに抱き合うのが印象的だ。
 私は5回、写真を撮った。囚人のひとりが微笑んで私に手を振った。
 船はレ島へと出てゆく。速度は11ノット。警官はこちらの地に残る。報道記者も、数名の役人たちも……。
 ──後編の「レ島の《最初の人》」では、犯罪者たちが姿を見せる時間まで、近くのカフェでシムノンが報道記者やカメラマンたちの雑談に耳を傾ける場面が書かれる。罪人がレ島の刑務所へと進んでゆく行列光景は名物になっており、その日は記者も集まるのでホテルは満室になるのだ。港の周りには3、4の小さなホテルがあるに過ぎないのである。カフェで記者たちは取材の段取りを話し合う。そして暇を潰すために皆で踊ったりする。ときにはきわどいジョークも飛び出す。ダンスの際にはマグネシウムの閃光が焚かれる……。
 ホテルで記者たちはジプシーの家族を見かけた。女はダヴァンという殺人者の母親なのだ。そして午後1時半になり、周囲の家からも見物のために人が出てくる。すでに罪人たちは順々にレ島へと渡り、いくつかの小集団に分けられ、制服と黒い帽子とブランケットが手渡されている。役人が先頭に立って、レ島サン゠マルタンの刑務所へと彼らを連れてゆく。そうした一連の様子が港から見えるのだ。ダヴァンの姿もそのなかにある。
 男たちは見物人や報道陣の前を通り過ぎてゆく。映画撮影クルーがフィルムを回している。誰も何もしゃべらない。男たちはこちらも見ずにゆっくりと順番に沿って進む。ダヴァンの母親は小橋の上にひとり立って見つめている。
 そのときだった。群衆のなかから叫び声が上がったのだ。
「行かないで! 行かないで!」
 カーキの服を着た黒人たちの後ろで、ジプシーの3人の女と6人の子供が暴れていた。
 誰もがその声を聞き、誰もが凍りついた。いまや群衆全体が叫んでいた。役人たちは振り返り、報道記者らもノートを取る手を止めて見た。
 青く、平らな海。罪人を乗せた小船が出てゆく。鷗が飛ぶ。太陽は照り、釣り船が見える。
 私もジプシーたちを見た。ジプシーの家族たちは船に群がろうとしていた。だが船はレ島へと出て行った。
 3度の警笛が鳴る。船はもうすぐ錨を降ろすだろう。
 ──読みながら『下宿人』第42回)の映画版『L’Étoile du nord』[《北極星号》]のラストシーンをずっと思い出していた。この映画のラストでは、罪人役のフィリップ・ノワレがレ島の刑務所へと連れて行かれる。下宿の女将だったシモーヌ・シニョレが対岸で彼を見送るのだが、彼女は思わず駆け出して叫んでしまいそうなほど痛切な思いを抱くのである。空は青く、港はどこまでも美しい。とても印象的なラストシーンだが、これは実際にシムノンがラ・ロシェルで見た犯罪隊商とジプシー女の叫びだったのだと今回初めて気づいた。このルポルタージュもまさに映画の一場面のように鮮烈で、強く心に残る。
 エッセイ後編の「レ島の《最初の人》」というタイトルの意味はよくわからないが、おそらくは囚人を見守っていた群衆のなかで最初に声を上げたジプシー女のことを指しているのだと思う。
 シムノンはこのルポのなかで、自分自身の心境をひと言も書いていない。ただ自分が実際に見たこと、それだけを語っている。その筆致が素晴らしい。

■「司法警察局」(1933)■

 シムノンがメグレものを発表し始める前、フランスではモーリス・ルブランがアルセーヌ・ルパンのシリーズを書いていた。ルパンはベル・エポックの時代から戦後にかけての物語であり、メグレはベル・エポックよりも後、ジャズが大流行した狂乱の時代さえもアメリカから端を発した金融恐慌によって掻き消された、そんな時代に始まった。
 メグレはパリの司法警察局 Police judiciaire(略称P.J.)というところに勤めている。この司法警察局は、パリ警視庁の裏手に建つパリ司法宮に間借りするかたちで運営されている。間借り場所はセーヌ川が見える側なので「オルフェーヴル河岸」と呼ばれるわけだ。
 司法警察局はシムノンがメグレものを書き始めた直後──これはいまも私にはちゃんと調べがつかないのだが、たぶん1930年か1931年ころ、オルフェーヴル河岸へと引っ越したようだ[註1]。だからごく初期のメグレもの数冊では、彼が別の場所で働いているように読める部分がある。そして翻訳家・高野優氏の紹介によると(http://honyakumystery.jp/11660)、司法警察局やパリ司法宮は2017年にさらに引っ越しをしたそうだ。
 ルパンの物語に登場するガニマール警部は、メグレよりも前の時代を生きた人物だ。たぶん古きよき時代の彼は、ノートルダム寺院の向かいに建つパリ警視庁の庁舎内に居場所があっただろう。
 この他、パリにはナポレオンの時代から保安部 Sûreté général というのがあって、シテ島内ではないがパリ8区ソセエ通りの内務省のなかに設けられていた。だからここにもいわゆる刑事が出入りしていたことになる。保安部は後述する1934年のスタヴィスキー事件をきっかけに組織改変された。
 たぶんシムノンは初期のころ、実際の司法警察局を取材したことはなかったと思われる。だがメグレシリーズが広く読まれるようになって、どうやら当の司法警察局から「うちをちゃんと取材しないか」と誘いがあったらしい。グザヴィエ・ギシャール Xavier Guichard 局長の時代(1930-1934)である。まだ私は読んでいないのだがちょっとフライングして確かめると、彼はメグレ第三期の『メグレの回想録』(1951)第1章に実名で出てくる。
 研究者によると、メグレ第一期の最終作『メグレ再出馬』第19回)は1934年1月に書かれたと推定されている。後述するスタヴィスキー事件の直後、そして2月6日のコンコルド広場暴動の直前という激動の時期に当たる。この『メグレ再出馬』で初めてメグレが勤務する司法警察局の内部が詳細に書かれたのだが(ただしメグレ前史第4作『不安の家』第27回)でも出てきた)、それは取材の成果だったわけである。
 1933年に書かれたこのルポルタージュは、その取材成果の一部だ。
 読者はシムノンの目線とともに、司法警察局の内部へと導かれる。まず左へ曲がって最初の扉を開ける。大きな灰色のオフィスがあり、廊下にはたくさんのロッカーが並んでいる。刑事たちは机に座り、書類を整理していて、よい被雇用者のように見える。オルフェーヴル河岸にはたくさんの匿名の手紙が届く。今朝は何と100通も来た! オルフェーヴル河岸の朝は9時に始まる。刑事たちはオフィスで外套も帽子も脱がない。やがて局長が出勤する。マホガニー家具で整えられた彼の部屋で窓を開ければ、明るいセーヌ川の光景が見えてくる……。
 シムノンは取り調べの現場にも何度か立ち会ったらしい。ある男は、妻が2000フランを持ってジゴロと駆け落ちしてしまったと訴える。「金を取り戻したいのか?」「ジゴロを止めてほしいのか」と刑事が訊くと、「いえ! 違います! 妻を取り戻したいだけなんです!」と男は答える。そうして警視の出番となる。ありふれた日常光景だ。
 刑事たちはホームズやルールタビーユやルコックのようには見えない。中流階級の、日曜には釣りに行きそうなごくふつうの男たちに見える、とシムノンは丁寧にミステリー小説のヒーローを引き合いに出しながら綴る。そして、だがそれでも彼らは戦時中、参謀本部第二局2e Bureau(戦時中まで存在した、フランスの対外軍事諜報機関)で働いていたのだ、とも書く。
 司法警察局では科学的捜査もおこなわれるようになってきている。人体測定学に則って被疑者は細かく身体的特徴が測定されるし、実験室もある。被害者の爪やボタンに犯人の髪が引っかかっていることが多いのだ。そして2階にいる警視たちは、予審判事の要請のもとで調査の責任を負い、彼らが局長に報告を上げる。
 シムノンの観察眼は鋭い。取調室の机の隅に大きなハムサンドイッチがあること、待合室のベンチが赤いこともちゃんと書き記している。
 司法警察局は決して豪華ではない、とシムノンは書く。刑事たちはボクシングチャンピオンのようではなくて、ごくふつうのフランス人だ。銀行員よりほんの少しだけ多く給料をもらっているに過ぎない。中庭は灰色がかっているし、階段もきれいではない。刑事は自分たちを小説のヒーローのように見せようとはしない。
 それでも彼らは「守護天使」と呼ばれている、とシムノンは結ぶ。彼らにとってはなかなかいい呼び名ではないだろうか、と。
 これが書かれたのは1933年。まだフランスを揺るがすスタヴィスキー事件は起こっていない。大疑獄事件勃発直前のルポルタージュである。

[註1]この時期に司法警察局が引っ越したという明確な記述をどうしてもウェブ上から見つけられないので、この認識で本当に正しいのかどうか、いまだに私にはわからない。フランス警察の歴史に詳しい方がいらっしゃればぜひご教示いただきたい、と連載当初から思い続けている。どうかよろしくお願いします。

■「警察の舞台裏:オルフェーヴル河岸からソセエ通りへ」(1934)■

 連載時の表題には「スタヴィスキー事件の外側で」とまず書かれていた。このルポが連載されたのは1934年1月下旬から2月上旬だが、この直前、すなわち1933年の年末から1934年の年明けにかけて、とんでもない大事件がフランスで起こった。「スタヴィスキー事件」である。おそらくシムノンはこの大事件が起こる前から原稿を書き始めていたに違いない。そして執筆の途中でスタヴィスキー事件が勃発した。だから掲載時には読者の関心を惹くために編集部が「スタヴィスキー事件の外側で」というタイトルを掲げたのではないか。しかし本文中でスタヴィスキーの名が出てくるのは途中からだ。それまでは警察の日常を紹介するルポとして話が進む。
 後にシムノンも作家・ジャーナリストとして深く関わる運命となった「スタヴィスキー事件」とはいったい何か。
 私はフランスの歴史に疎いので、この事件のことはシムノンを読み始めるまでまったく知らなかった。本連載第46回でわずかに言及したが、深く調べるまでには至らなかった。今回、改めて学んでみたくなり、「何か日本語で読める文献はないかなあ」と思ってウェブを検索した。そして「あっ」と心のなかで声を上げた。
 そうか、久生ひさお十蘭じゅうらんがあるじゃないか!

 このルポルタージュは「探偵作家」であるシムノンが司法警察局長と対面して質問されるところから始まる。
「いったい毎年何件、パリや郊外で、機動隊の関心を惹く犯罪が起こると思うかね?」
 答は平均7件だそうだ。100万人が住んでいるのに、関心を惹く犯罪は7件!
 シムノンは現実に起こった近年の事件を紹介してゆく。彼は作家として、オルフェーヴル河岸の書類を取材する権限を与えられたのだろう。シムノンが報告書を調べたところ、ここ数年で未解決事件は6件だった。6人の犠牲者があり、そのうち3人は娼婦だった。
 冬の捜査の様子をシムノンはスケッチしている。たとえば1933年3月の事件。警視はストーブに当たり、パイプを吹かす。容疑者を見張るため、冬のさなかに10日間ビストロに貼りつく。これが捜査だ! 
 実際の犯罪は名探偵ルールタビーユが遭遇するようなものではなく、たいていは頭がよいわけでもない者がばかげた殺人を起こすのだ。シムノンは巷に溢れる犯罪小説と現実の事件の違いを強調する。そして自分が創造したメグレの名前さえ引き合いに出す。たとえば3人の強盗が銀行に押し入り、13
5千フランを持ち逃げした。メグレ警視ならパイプを吹かし、ビールを飲んでサンドイッチを食べ、外套のポケットに手を突っ込んで現場に現れるだろう。シャーロック・ホームズやワトソン博士ならわずかな手順で犯人を挙げるだろう。だが実際はそのようにはいかない。盗人はユーゴのアクセントがあったとの証言が得られたが、別の目撃者はハンガリー語をしゃべっていたという。となればパリとその郊外に住む6千人のハンガリー人が容疑者となる。だが結局、盗人はユーゴ人でもハンガリー人でもなく、すべては振り出しに戻った。強盗はやがて捕まって牢へ入れられた。盗られた小切手の番号から割り出されたのである。なんとも地味な解決だ。
 容疑者への尋問の様子もシムノンは見学したらしい。一例を細かく紹介している。殺人容疑で取り調べを受けているのは宝石ブローカー。尋問するのは警視だ。夕方5時になって司法警察局は空になる。警視もいったんポン゠ヌフのビール飲み屋に行ってザウアークラフト(薄塩漬けキャベツ)を食べてくる。
 尋問はさらに続く。警視の質問はシンプルだが、相手はなかなか白状しない。質問は第一ラウンドが終わってオフィスボーイがビールを運んでくる。第二ラウンド、そして第三ラウンド。ようやく18時間後にすべては終わり、相手は書類に署名する。オルフェーヴル河岸では「尋問は歌うようにおこなう」といわれているのだ、とシムノンは書く。
 20代の若者やプチブルジョワの犯罪。実際の事件とはそのようなものがほとんどなのだとシムノンは感じたのだろう、連載数回分をかけて、あえてそうした事件の顛末が紹介される。複数の刑事にインタビューしたのだろう、まだ「特別機動隊 brigade spéciale」だったころにその刑事が遭遇した掏摸の話も紹介される。数年前に逮捕された有名なポーランドの盗賊集団の話。巨大銀行で10万フランが盗まれたものの、その場に居合わせた誰が本当の実行犯なのかわからず、金が忽然と消えてしまった事件の話。後者は数人の共犯容疑者を取り調べた後、アントワープでダイヤモンド売買があり、そこで主犯が見つかったという。ここで初めてスタヴィスキーの名が本文に登場する。「彼らはスタヴィスキーでさえない」──現在進行中のスタヴィスキー事件が宝石売買にも関係していたことからの連想だろう。
 連載9回目にしてついにスタヴィスキーの名が出た。次の連載第10回でもスタヴィスキーの名が出る。「私たちはここ数週間、スタヴィスキーについて語っている。何度もあなたは記事を見ただろう」。そしてコカイン犯罪の話に絡めて、スタヴィスキーも芥子中毒だったという話を引き合いに出す。
 連載の最後の2回は異色だ。第11回で、不意にシムノンは第一次大戦から1年後、自分がベルギーにいたときのことを回想し始める。北の町はドイツに一部占領されていた。ある日の出来事を鮮明に憶えているとシムノンは書く。突然カフェで爆発が起こった。シムノンは近くにある栗の木の下ですべてを見ていた。ドイツのスパイの仕業らしい。リボルバーの発砲があり、人々はパニックに陥り、警官や警備員、消防隊員がやって来た。シムノンは急いで新聞社に戻り、号外をつくった。まだ犯人は捕まらない。天窓へ逃げたまま行き場を失っているのだ。彼は怯えていた。このままでは彼は4階の高さから落ちるだろう。下から仰ぎ見る警視は言葉も出ない。
 スパイは紙を取り出すと何かを書きつけ、下に落とした。それはカフェの店主に宛てた内容で、「おまえを助けにきた」とあった。
 ようやく2名が天窓に上って犯人を捕らえたときには真夜中になっていた。
 ――『仕立て屋の恋』第35回)のクライマックス場面を思い出させる描写だ。なぜシムノンは突然古い話を持ち出したのだろう? スタヴィスキー事件で世間が大騒ぎになって、警察の日常の裏側を紹介するという当初の構想では続行が困難になったと感じたためかもしれない。最終回の第12回ではまた話が大きく変わる。「古き警察の終焉」とサブタイトルのついたその回では、「有名な33年法」というものへの言及がなされる。その33年法によって古い警察は死につつある。今日では捜査に当たっては科学が重要であり(血痕を調べるにしても紫外線検査が適用される)、まず容疑者は予審判事によって取り調べを受ける。ようやく2、3日後に弁護士や警視が部屋を訪れる。
 警察の役目は終わった。予審判事と専門家の役目が始まったのだ──とシムノンは書く。
 この33年法とは何だろう? この記事ではシムノンは何も説明していない。これについては後述する。だがシムノンはこの法律改正が古い警察を死へと追いやったのだと考えている。
 いや、古い警察は死んでいない! なぜなら事件は50年前と同じように進行しているからだ──といったんシムノンは叫び声を上げる。自分は大きな足で歩いてスラングを使う昔の警官に郷愁を感じる、警察はいつであっても警察だ、科学的であろうとなかろうと! 
 スタヴィスキーが逮捕されなかったその瞬間にも、フランスではこの1年で2917件の逮捕があったことは間違いないと信じている──このように書いてシムノンは筆を措く。シムノン自身が述べた通り、ここにはまだ郷愁がある。古い警察への共感で記事は締めくくられている。
 だがそうはいっていられない状況が、この後シムノンを急き立ててゆく。

■「犯罪はなされるだろう……」(1934)■

 この短いエッセイは、1933年に施行された法律によって、警察の捜査が大きく(しかも悪い方向に)変わってしまった、というシムノンの見解を述べたものだ。
 残念ながら私にはフランス刑法の専門家の知り合いがいない。刑法の論文を調査する方法も知らない。そのためシムノンがここで訴えている、いわゆる「33年法」が実際にどのようなものなのか、うまく確認できない。ご存じの方がいらっしゃればぜひご教示をいただければと願っている。
 それでも何とかウェブ検索すると、1933年にフランス法が改正されて、予審制度がより重視されるようになったらしい、ということが察せられる。
 はっきりとはわからないのだが、つまりこういうことらしい。以前は容疑者がつかまったら、警察がまず取り調べをしていた。だが33年法の施行後は、まず予審判事が調べをおこなうようになった。警察のお偉方もその過程には手出しできない。何かをおこなうならまず予審判事が必要であり、そして弁護士の同席が求められる。
 このシステムが犯罪者に有利に働くようになってしまった、33年法によって判事の権限が大きくなりすぎてしまった、とシムノンは訴えているのだ。
 6ヵ月前、私はロンドンで、スコットランドヤードの重要人物と会った──とシムノンは書く。フランスでは組織犯罪は稀だとその人物はいったが、33年法の後はどうだろう? 世界のいたるところで犯罪は増加中だが、今後はフランスでも組織化したギャング団の犯罪を止めることができなくなるだろう、とシムノンは書く。一連のスタヴィスキー事件もその例だとシムノンはいいたいようだ。「だから私はこの記事のタイトルを『犯罪はなされるだろう……』とつけたのだ」と。
 この記事には、昨日の判事と今日の判事の違いを示す図が載っている。昨日までの判事は、山積みの書類の机にかじりついて仕事をしている。家宅捜索や証拠品押収は警察がおこなう。尋問は警視から判事へ委託されることもある。拘留者は牢屋に入っているが、室内では自由である。
 だが33年法後の今日では、判事は机にいない。家宅捜索、押収、尋問などはすべて判事が自分でおこなう。拘留者は相談室や控訴院を引き回されて、牢屋に留まることがない。書類もあちこちを巡るので、判事の机はとてもきれいだ。
 ──私にはこの33年のフランス法改正が悪法だったのか判断がつかないが、そういわれてみれば第一期のメグレものにはほとんど予審判事が登場しないことに気づいた。メグレシリーズではコメリオという予審判事がレギュラーキャラクターとして登場するのだが、少なくとも第一期ではほとんど彼の活躍の場がなかった。後の作品でコメリオ判事がたくさん登場するようになるのは、33年を境にフランス法が変更されたためなのだろうか。
 そう考えるとメグレシリーズは近現代フランスの歴史をちゃんと鏡のように映し出しているのだなと改めて感じた。

■「スタヴィスキーまたは自殺屋」(1934)■

『わが訓練』では、1934年1月24日掲載のインタビュー記事と、同年3-4月掲載のシムノン自身のエッセイを、このタイトルでひとつにまとめて掲載している。
 まず「ジョルジュ・シムノンがスタヴィスキーの死に関してメグレ警視の意見を伝える」と題されたインタビュー記事。取材者の名は不明だが、この記者はちょうど講演を終えた直後のシムノンをつかまえてインタビューしたらしい。他の資料を見ると1934年1月20日にシムノンはパリの大使館劇場で推理小説に関する講演をおこなっているので、このとき取材を受けたのだ。
 取材者は「シムノンの精神的息子であり、現代において真に著名な唯一の警察官であるメグレ警視の意見を聞くのによい機会だ」と書き綴っており、どうやら取材者は「あのメグレ警視がいま世間を騒がせているスタヴィスキー事件を推理したとなれば、読者もきっと喜ぶだろう」と考えたようだ。つまりシムノンは自分の意見を求められたのではなく、メグレの影武者としてインタビューされたのである。たぶんシムノンはこういう状況を心中では歓迎していなかっただろう。
「きみも知っての通り、メグレは多弁家じゃないのでね。彼はパイプを吸って、ビールを飲んで、顔をしかめるか微笑むか、いずれにせよ彼は大変に大喜びしているだろうね」
 とシムノンは語る。ちょっとわかりにくいが、たぶん難事件を前にして奮い立っているはずだといいたかったのだと思う。いま警察が懸命に科学的捜査を続けているが、そうした手法ではまだ解決に至っていない(つまりメグレのような捜査法がまだ有効だ)ということも指摘したかったのだろう。
「スタヴィスキーは頭に銃弾を受けて死んだ。きみはスタヴィスキーが自殺したといったね。同感だ。誰もがそう思っている──しかし、だからこそ警察の天才が入り込む余地があるんだ。自殺だとは立証できない。殺人の可能性を否定できない」
 そしてシムノンはいう。「われわれは何も証明していないんだ。これからも証明できないだろう。これから50年、1世紀にわたって、私たちは今回の事件を歴史的な謎だと語り続けると私は思うよ」
 短いインタビュー記事はこれで終わりだが、「スタヴィスキー事件」とはどのようなものだったのだろうか。
 次の記事「自殺屋」で、シムノンは事件のあらましを日付に即して長々と記述している。その一覧は1933年12月23日から翌1934年2月27日にまでわたる。
 日本語で「スタヴィスキー事件」の概要が簡潔にまとめられた記事としては、私の見つけた限りだと《週刊20世紀の歴史》74号(6巻9号、1975)掲載のG.ルフラン「スタビスキー事件」(翻案=島村力)がある(ただし記事内に記された日付はいくつか誤りがあるので注意)。「1934年1月におこったスタビスキー事件は、第三共和国を根底から揺り動かした政治的スキャンダルであった。ために2つの政権がたおれ、パリでは暴動がおこり、ひいてはゼネストをよびおこした」と記事は始まっている。
 それまで何度か捕まっては保釈されていた詐欺師セルジュ・アレクサンドル・スタヴィスキーが、1933年に模造品の宝石を本物と偽って多額の証券を発行して売りさばき、信用詐欺を働いて逃走した、というのが表向きの概要である。12月30日に逮捕状が出されたが、すでにスタヴィスキーは行方を眩ましていた。
 ところがこの詐欺師スタヴィスキーが政界の大物など多くの権力者とつながっていたことがわかってきて、黒幕の誰かがスタヴィスキーを匿っているのではないかと、世間から轟々たる非難が沸き起こった。
 そして年が明けた1934年1月8日、スイス国境近く、山岳地帯シャモニーの別荘で、スタヴィスキーが頭に銃弾を受けているのが発見された。彼はほどなくして死んだ。
 彼の死は自殺だったと発表されたが、世間は容易には納得しなかった。いや、実際は口封じのために暗殺されたのではないか、などと大騒ぎになり、収拾がつかなくなった。とくに右翼団体が批判キャンペーンを張ってデモを繰り返した。
 その後、スタヴィスキー事件に関連する1200もの書類が紛失していることが判明。1月22日、司法警察局長グザヴィエ・ギシャールが辞職。1月28日、カミーユ・ショータン(左派)首相が辞表を提出。内閣総辞職。1月30日に新内閣が発足すると、新しい首相エドゥアール・ダラディエ(左派)は事態収拾のため、2月3日に当時の警視総監 préfet de police だったジャン・シアップ(実際の発音はキアップか)Jean Chiappeを更迭し、モロッコへと飛ばした。この警視総監は右派で、スタヴィスキーとつながっていると噂された人物のひとりだった。
 しかしこれが右派の激昂を買う。右翼団体《火の十字団》の先導によって、2月5日から大規模なデモがパリ市内に起こった。2月6日夜、複数のデモ隊は国会議事堂とセーヌ川を挟んで向かい合うコンコルド広場で合流し、警察と衝突して、複数の死者も出る大暴動となった。
 これによってダラディエ内閣も総辞職へと追い込まれる。次の首相ガストン・ドゥメルグが右派を複数含む内閣を組閣したおかげで右翼団体の扇動もようやく収まった(ただし左派の反発を招いて2月12日にゼネラル・ストライキが起こった。こうした波はやがてフランス人民戦線へと発展する)。
 いったん世間は鎮まったかに見えた。ところが、それからまもなくの2月21日、以前にスタヴィスキーの保釈を担当したこともある治安判事アルベール・プランスが、ディジョン郊外の線路でずたずたの轢死体となって発見された。これがスタヴィスキー事件に続く「プランス事件」である。プランスは前日、ひとりでディジョンへと赴き、誰かと会っている。その後行方がわからなくなっていた。自殺説と他殺説で世論は割れた。スタヴィスキー事件の裏側にあった何か重要な案件を闇へと葬るために、誰かがプランスを殺したのではないか──? 
 この一連の大疑獄事件を題材にした長編小説が久生十蘭『十字街』(1952)である。タイトルの十字街とは2月6日に大暴動が起こったコンコルド広場のことだ。
 作家・久生十蘭は若いころ、1929年末から1933年春までフランスで暮らしていた。滞在中の詳細な足取りはわかっていないようだが、もともとは演劇を学ぶためだったらしい。すでに彼は戯曲を発表したり、演劇助手を務めたりしていたのである。帰国後の1933年、彼はフランスのコントの翻訳で《新青年》誌上に初登場する。翌年にはフランス滞在の体験を活かした「ノンシャラン道中記」という連載も書いた(瀬名は未読。ちなみに私はつい最近まで「ノンシャラン」を「飄々たる」などといった意味の日本語の俗語だとばかり思っていたが、本当はフランス語で nonchalant(e)、「無頓着な」「無精な」の意味なのであった。久生は「飄逸」にノンシャランとルビを振っている)。1952年に直木賞を受賞、1957年に55歳で亡くなった。
 久生の滞仏時期は、まさにシムノンがメグレ前史やメグレ第一期を書いていた時期と重なる。久生は1902年生まれ、シムノンは1903年生まれ。ふたりは同世代の作家である。メグレ第一期最終作『メグレ再出馬』の執筆時期は『十字街』の物語の時期とぴったり同じなのだと憶えておくことにしよう。[註2]
 今回初めて『十字街』を読んだが、大変に面白い小説だった。パリに暮らす3人の若い日本人男女(小田、佐竹、高松)がスタヴィスキー事件に巻き込まれ、ついに2月6日の暴動の現場を目の当たりにする。物語の半ばでは、彼らのうちふたりがシャモニーの別荘でスタヴィスキー本人から世話を受けるという展開になっており、憲兵隊や新聞記者らが別荘へ乗り込んでくる瞬間にも立ち会う。スタヴィスキーは憲兵隊が部屋へ押し入るそのときまで生きていた。彼は「入りたまえ」と憲兵隊に声をかけたが、次の瞬間には頭に被弾して死んでいた。主人公たちは押し入った警部が実際は発砲してスタヴィスキーを殺したのではないかと疑いを持つ。
 ひょっとして現場の警官が射殺したのではないかという疑念は当時のフランスでもあったわけだが、こうして実際に小説にしてしまうとは大胆である。それも重要な現場にことごとく日本人が絡んでいたとするところが面白い。冒頭の地下鉄シーンなどフィクションならではのはったりだろうが実に素晴らしい。物語には鹿島というかつては日本の政界にいた謎の老人も登場する。朝日文芸文庫版の巻末解説で江口雄輔氏も指摘しているが、以上日本人4名のうち3名は何らかのかたちで大逆事件(1910)の影を引きずっている。日本の政治事件とフランスの政治事件が読み手のなかでつながるのだ。これはスタヴィスキー事件そのものへの関心から本を手に取った私には、かえって新鮮で驚かされた。日本人にしか書けないスタヴィスキー事件である。
 スタヴィスキー事件を他殺だと主張した当時の新聞は《パリ夕刊》と《ジュールナル》だ、と書かれているが(188ページ)、《パリ夕刊 Paris-Soir》はまさにシムノンがこの後「プランス事件」の真相究明のためにルポを連載する新聞だ。久生はもしかすると当時のシムノンの記事に接する機会もあったかもしれない。
 この長編は1951年、《朝日新聞》夕刊に1月から6月まで半年間連載された。終了直後の同年9月、久生は《サンデー毎日》に「プランス事件」(現在は河出文庫版『十蘭錬金術』に収載)というノンフィクション読み物を発表する。これが『十字街』単行本化の際に物語の末尾へ流用され、つけ加えられた。プランス事件の経緯を追う最後の2章がドキュメンタリー風になるのはそのためである(初出と単行本の異同については『定本 久生十蘭全集』第1巻および第8巻を参照のこと)。確かにこの2章は若者たちの物語から離れてしまうのだが、最後は彼らも読者のもとへ戻って「美しいパリの夜景」で締めくくられるので読後感は決して悪くない。この後、続けて久生の長編代表作とされる『魔都』(1948)も読んだが、なかなかどうして、『十字街』も決して負けないほどの傑作だと感じた。
 さて、シムノンの記事に戻ろう。この「自殺屋」では、まず日付を追って事件の概要を振り返った後、「スタヴィスキーの死後、友人から『どうすれば真実が見つかるか』と訊かれたので答えた」と書き起こし、いくつかの提案を述べている。
 曰く、「ソセエ通り(内務省のこと)の書類運搬人のリストを手に入れろ。この人物のなかに、シャモニーを歩いていた者がいるはずだ」。事件周りの書類が紛失したことをいっているのである。また曰く、「コンデ condé の受益者を調べろ。ナイトキャバレーでもカジノでも、スタヴィスキーの行動範囲の影にはいつも condé がいたはずだ」。この condé は辞書に載っていないが、フランス語の先生に訊くと「警視 commissaire de police」を指すスラングなのだそうだ。つまり警察周りには詐欺師と密かに組んで悪事を見逃すことで利益を得ていた者がいるはずだとシムノンは述べているのだ。シムノンは書類運搬人とコンデのふたつを強調し、そしてここからつながってゆくのはマフィアだろうと語っている。見つけるべきは書類運搬人とその利益共有者であり、そしておそらく行き着く先の「ボス」はフランス人ではないだろう、と書いている。
 また曰く、「強盗が宝石店に押し入ったとしよう。警察はどうする? これに答えることがスタヴィスキー事件の核心だと思っている。強盗は壁を壊して押し入るが、そのとき道具を使うはずだ。警察にはこれまでの強盗事件の記録がある。人間はいつも同じことをするものだ。容疑者リストは記録から絞り出せるだろう。スタヴィスキーは毎日レストランで食事をしていた。だからその際の同席者リストを調べてみろ。同じ役人が見つかるはずだ!」。
 このような思いつきを並べてとりあえずエッセイは終わる。まだプランス事件は起きていなかった時期だと思われる。
 たとえミステリー作家でも実際の捜査に関しては素人であって、東日本大震災のときにも感じたが私たち素人が考えることはたいていすでにプロが黙って実行しているので、このエッセイも思いつきの範囲を出ないものだったろう。それでも初めてシムノンがスタヴィスキー事件について自らの意見を表明した文章だ。
 そしてこの後、シムノンはプランス事件の捜査に現在進行形のかたちで関わってゆくのである。
[註2]やはりフライングして確かめると、『メグレの回想録』第6章に、「ときおり政変のときには、ほとんどいつも、もはやたんに人民の不満の表明だけではない暴動が街で起る。(中略)二月六日のデモ騒ぎのあとで、こういう暴動が起ったとき、最もわたしをおどろかせたことは、その翌日大部分の新聞が書き立てた驚愕ぶりである」(北村良三訳)とあった。これこそまさに1934年2月6日の暴動のことだ。

【後編へつづく】

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瀬名 秀明(せな ひであき)
 1968年静岡県生まれ。1995年に『パラサイト・イヴ』で日本ホラー小説大賞受賞。著書に『月と太陽』『新生』等多数。
『石の花』などで知られる漫画家・坂口尚氏の未完コミック作品をリブート、小説化した長篇『紀元ギルシア』が、《WEBコミックトム》にて連載中(http://www.usio.co.jp/read/kigen_greecia/index.html)。
 
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