La caravane du crime, « Détective », n° 257, 1933/9/28号*[犯罪隊商]
・Pierre Deligny提供, La caravane du crime, Les Amis de Georges Simenon, 1995 *研究同人誌、400部
Une « première » à l’île de Ré, « Voilà », n° 133, 1933/10/7号*[レ島の《最初の人》]
・Georges Caraman名義, Police judiciare, « Police et Reportage », n° 9, 1933/6/22号*[司法警察局]
Les coulisses de la police: du quai des Orfèvres à la rue des Saussaires, « Paris-Soir », 1934/1/26, 27, 28, 30, 31, 2/1, 2, 4, 5, 6, 10, 11号1934(全12回)*初出タイトル:En marge de l’affaire Stavisky, les coulisses de la police, du quai des Orfèvres à la rue des Saussaies [警察の舞台裏:オルフェーヴル河岸からソセエ通りへ(スタヴィスキー事件の外側で、警察の舞台裏、オルフェーヴル河岸からソセエ通りへ)]
Des crimes vont être commis…, « Je sais tout », n° 341, 1934/5*[犯罪はなされるだろう……]
Stavisky ou La machine à suicider, インタビュー:« Marianne », 1934/1/24号*, 原稿記事:« Excelsior », 1934/3/1, 10, 15号(全3回)*[スタヴィスキーまたは自殺屋]
À la recherche des assassins du conseiller Prince, « Paris-Soir », 1934/3/20, 21, 22, 23, 25, 26, 27, 28, 29, 30, 4/6号(全11回)*[プランス判事の殺害者を捜すなかで]『わが訓練』記載の書誌は誤り。
Inventaire de la France ou Quand la crise sera finie, « Le Jour », 1934/10/31, 11/1, 2, 4, 5, 6, 7, 8, 9, 10, 13, 14, 15, 16, 17, 18, 20, 21, 24, 26, 27号(全20回)*[フランスの詳細調査または危機が終わるとき]
Mes apprentissages: Reportage 1931-1946, Omnibus, 2001

第60回【前編】はこちら

■「プランス判事の殺害者を捜すなかで」1934■

 読み始めて、これまでの犯罪ルポと筆致が違うのでびっくりした。記事はドキュメンタリー小説風に始まる。嵐のポルクロール島でシムノンは連絡を受け取り、翌朝パリへの列車に飛び乗った。そしてロワイヤル通りの《パリの夜》紙のオフィスで社主(ジャン・プルーヴォ Jean Prouvost であろう)と対面すると、驚愕の提案を持ちかけられる。

「プランス判事が殺されたことは知っているな? 《パリの夜》はこの調査に関わることになった。ロンドンから3名のもっとも著名な探偵がやって来た。それだけでなく、ルールタビーユの小説を書いたルルーの息子、ガストン・A・ルルーも来て、すでにディジョンに入っている。きみも調査に加わって、24時間以内に容疑者を見つけろ。外で車がきみを待っている。ル・ブルジェ空港で飛行機が待機している。さあ、いますぐ行け!」

 このスピード感はすごい。そしてもっとびっくりしたのは、『黄色い部屋の秘密』を書いたガストン・ルルーの息子が、なんとプランス事件の調査に関わっていたという事実である! そしてシムノンと会っていたのだ! 
 ロンドンから来た3人の英国探偵とは、ひとりは元スコットランドヤードの警察本部長、ひとりは戦時中諜報部にいた人物、もうひとりは元スコットランドヤード主任警部。それに加えてルルーの息子である。
 この記事によると、ルルーは当初からプランス事件の経過をフォローし、現地でかなりの調査をしていたらしい。シムノンのこの連載が載った《パリの夜》の紙面をフランス国会図書館電子サイト「ガリカ」で見てみると、連載初回1934年3月20日付の第一面に、シムノンとルルーが同じフレームに収まった現場検証写真まで掲載されている!( https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k76377327 )(左端がルルー、左から3人目がシムノン)
 ええっ、ルルーの息子とシムノンが協同してプランス事件の真相解明に乗り出したのか。その顛末をシムノンはルポルタージュに書いたのか! これはすごいことではないか。ミステリー史上の一大事だ! どんなに面白いルポに仕上がっているのだろう? 
 ──と、期待で胸が膨らんだのも冒頭部分まで。
 連載第1回の半ばでシムノンはこう書く。
「[使命を受けてから1日後の]日曜午後6時、私は再びパリに戻り、そしていまこれを書いている。ベッドには入っていない。(中略)昨晩から私は何をしていたか? 誰と会ったか? いま話すわけにはいかない。イギリスの仲間がディジョンで調査を続けている間、私はメグレ警視の手法を使ってみよう。すなわちドラマの人間的解釈である」
 ──このようにシムノンはわざわざメグレの名前を引き合いに出す。第1回のラストには「これはメグレ警視の仮説、人間的解釈に過ぎない」と再びメグレの名を出している。この連載第1回でシムノンは多くの投げかけをする。もしもスタヴィスキーがスイス国境へ行かなかったら……? スタヴィスキーは自殺したが、では誰が宝石を持っている? 小切手は? プランスが死んだことで宝石や小切手がどこかの人に渡ったのだとしたら……? もしも、もしも……。私はいま答がほしい。それもたくさんの答が。アメリカ人ならギャングの仕業だというだろう。だが……。
 疑問を列挙して第1回は終わる。では、連載第2回から話はどう展開したか。シムノンはディジョンでの捜査については結局何も書かないのである。

 ただし「《星》の悪漢たち gangsters de l’Étoile 」がどうやら怪しい、というところまではシムノンも推測を進めていた。なかでも重要なのが、スタヴィスキーの右腕で小切手控えの担当者ジルベール・ロマニーノ Gilber Romagnino と親交のあった男だとシムノンは考えた。その男はパリのドーム通り8番地の《シャルトル・ホテル》53号室にここ1年間滞在しており、ソセエ通り(内務省)でもよく知られていて、ときどき1、2時間外出する。スタヴィスキーとプランスの死はプロの手による殺人に違いない。この男こそがプランス事件の鍵だとシムノンは見当をつけて、イギリスの探偵たちをディジョンに残し、一足先にパリへ戻って、この男の調査を進めたのである。
 男の名はジョルジュ・エノー Georges Hainaut、40歳。「恐怖のジョー」「白髪のジョー」とも呼ばれている。彼が住む《シャルトル・ホテル》の前の道はヴィクトル・ユゴー通りとつながっており、これをまっすぐに行けばエトワール凱旋門に着く。この周囲には《星 l’Étoile》の名がつくバーがたくさんある。「《星》の悪漢たち」とはシムノンが連載にあたってつけた名前だそうだ。
 シムノンはパリ在住のジャーナリスト、モーリス・ルロワMaurice Leroyと協同し、この「白髪のジョー」に何とか独占インタビューできないかとアプローチする。ふたりで近隣のビストロを回って、ジョーに会えないかと探ってゆく。そしてルロワ単独でという条件ではあったが、ホテルでジョーに面会取材することができた。彼は机上にリボルバーを置いていた。
 ジョーは「ロマニーノとは20年来の友人だが、それ以上の関係ではない。スタヴィスキーとは会ったこともない」といった。ルロワが「自分は《パリの夜》の嘱託記者だ」と告げるとジョーの態度が変わった。
「《パリの夜》? だったらシムノンに会ったら奴にいってくれ。おまえの頭をぶち割ってやるとな」
 シムノンはすでにこの連載を進めて、ジョーが怪しいと書き続けており、ジョーはそれを読んでいたのである。
 ──実際にシムノンが自分で調査したのはここまでである。連載の中盤は、スタヴィスキー事件とプランス事件で共通して怪しいのはこれこれの人々だ、と名前を挙げ、さらに宝石の流通経路にどのような人物がいたのかを掲げ、これらの者たちにインタビューできたらいいのに、と書いている。
 だが何人かはすでに獄中にいるので取材は不可能だ、とシムノンは嘆く。なぜなら33年法があるので、彼らと対面して質問することができないのだ! 「もし真相を知りたかったら、もしスタヴィスキーの殺害者やプランスの殺害者を、宝石泥棒や小切手の売買人を止めたかったら、いまこそ方法を変えるべきときだ」とさえシムノンは書く。前年施行された33年法によって容疑者が守られすぎて、真相究明が阻まれていると主張しているのだ。
 さらに連載は現実と同時進行で進む。連載第6回でシムノンは「本日12:30、ジョーに逮捕状が出た」と高らかに報告する。「3月14日、これを書いている現在から10日ほど前、本紙《パリの夜》は、ボニー警視によってジョーの身辺から小切手が“発見”された、と報じた」。それが逮捕の決め手になったのだろう。
 さらにシムノンはここまでの経緯を告発する。「金曜の午前11時、ジョーが私にメッセージを送ってきた。『白髪のジョーとはまさにジョルジュ・エノーである』とかつて私が書いた部分に下線が引かれ、そして『違う(ノン)』と書かれていた」。ジョーはシムノンの記事に強い怒りを抱いていたのである。
「ジョーと私は翌土曜の1時にふたりで昼食を摂ることに決めた」。しかしこれは果たされただろうか? ジョーは《星》の仲間たちとここ1週間で何度か会って、木曜にも仲間から金を得ていたという。捜査班は彼を狙っていた。だが金曜の午後5時、ジョーがホテルを抜け出した。予審判事は彼を見失った。捜査失敗である。そして私(シムノン)は昨夜午後4時から4度もおかしな電話を受け取った。「やあ! シムノンか?」「そうですが……」と答えると電話はすぐに切れてしまうのだ。このところ私が泊まっているホテルに連絡すると、「あなた宛に何度も電話があって、でもすぐに切れてしまうんですよ」という。実際、今朝の3時にもかかってきた! 
「これを書いているいま現在、ジョーはまだパリにいるだろう。「他の新聞が書いているが、もしシムノンの《パリの夜》の記事が小説でないのなら、ジョーが本日逮捕されるのは逃れられない」。
 連載7回目。「いくらか変化があった。昨日、ついに、白髪のジョーは捕まって牢に入ったのだ」「彼は自白するだろうか?」「[プランス判事が死んだ]2月20日と21日、ジョーはホテルにいなかった」「われわれの調査は続く」。
 何だかすごいことが起こっていたように思える。まるで、いまでいう炎上案件のようである。いや、それともジャーナリズムの勝利? シムノンは自らの筆の力によってスタヴィスキー事件とプランス事件の真犯人を暴いたのだろうか? 
 連載8回目以降、シムノンはスタヴィスキー事件における宝石ルートに目を向ける。宝石ルートは少なくとも5つあった、とシムノンは書き、また少なくとも2ルートの宝石はパリから出ていない、などと宝石の行方を推測している。スタヴィスキー事件関連の書類が紛失したことについてもあれこれ書いている。だが残念なことに、シムノンの筆は失速してしまうのである。いちばんの容疑者だとシムノンが信じていた白髪のジョーが捕まったのだ。ジョーが自白しない限り、それ以降の展開は望めないだろう。シムノン自身もあとはこれまでの経緯を振り返って書くほかない。クライマックスは過ぎてしまったのだ。
 ただし最後にわずかな展開があった。連載第10回でシムノンは当初のことを振り返る。曰く、自分は連載第1回で「《星》の悪漢たち」という名前をつけ、彼らを探った。「私はメグレ警視の手法を試したい」と書いた。それは演繹法でもなければどんでん返しの手法でもない。もっとシンプルで、より人間的な手法である。
 ある夜、シムノンは《星》の悪漢たちのなかでも最重要人物のひとりで容疑者として挙がっていたバロン Baron Lussats(別名 Gaëtan L’Herbon )という男を見かけたのだという。驚くべきことに彼はシムノンと同じホテルに泊まっていたのだ。バロンはジョーの仲間である。両者には共通の知人アンジェロAngeloがいた。彼らには共通の溜まり場があった。アンジェロはスタヴィスキー事件の宝石ルートと関係があったようだ。ジョーはロンドンでスタヴィスキーの小切手控えの搬送に関わっていたと考えられる。
 その夜、バロンは逮捕された。アンジェロもじきに逮捕されるだろう──。
 つまりシムノンが《星》の悪漢たちと呼んだ者が次々と逮捕されつつある、ということである。連載第10回の終盤で、シムノンはさらにイニシャルで何名かの重要人物を仄めかし、しかし33年法が捜査を難しくしていると再び嘆いたあと、「《パリの夜》は事件解決を待っている」と結んだ。
 最終回である連載第11回は1週間後に掲載された。「調査を始めて10日後の先週金曜、私は小説家の仕事に戻るためパリを発った。パリの狂騒から離れて5日が経った」。すでにシムノンの筆致は回顧的だ。自分が怪しいと睨んだジョーやバロンは逮捕された、アンジェロもいま指名手配されている、それで自分は大任を果たしたのだ、とシムノンは考えていたようだ。
「私はこのように書いた。『ここには4つの事件がある。スタヴィスキーの死、宝石、小切手控え、プランス殺害』。われわれは小切手控えは発見した。宝石の一部はロンドンで見つかった」「私はバロンや白髪のジョーらが自らの手でプランスを殺したとは一度もいっていない。『事件を誘発したと思われる者を含めてすべての容疑者をもう一度ちゃんと調べろ』と書いたのだ。それ以上に何をつけ加えることがあろう?」。
「捜査は続く……」「捜査は長くなるだろう。これは今後長年にわたって、私たちが知るフランス最大の事件となるのだから」。
 こうしてシムノンの長いルポは終わる。
 シムノンは何かを発見できたのだろうか? 結局シムノンの調査や記事は事件解明に何か貢献できたのだろうか? 
 白髪のジョーは、シムノンが記事で書き立てなくても遅かれ早かれ容疑者として捕まったように思える。シムノンはプランス事件の現場であるディジョンからたった1日で取って返してきたので、シムノンが現場でどのような推理を働かせたのか、イギリスの探偵たちやルルーの息子とどのような議論を交わしたのかは、少なくともこのシムノンの記事には何も書かれていない。
 一介の作家の関与としてはこれが精いっぱいだったのだろう、とは思う。シムノンにとっては狂騒の10日間だったのだ。
 ──スタヴィスキー事件を書いた作家はもちろん他にもいた。その代表格がジョゼフ・ケッセルだ。ケッセルはまさに当時シムノンが小説を出していたガリマール社から、1934年3月13日付で『Stavisky, L’homme que j’ai connu[私の知っていた男スタヴィスキー]という回想ルポルタージュを出版している。コンコルド広場で暴動が起こったのが1934年2月6日であるから超特急の出版だ。
 ケッセルはこれまでも紹介してきた通り、弟のジョルジュ・ケッセルとともに《探偵》《ヴォワラ》というヴィジュアル週刊誌を発行していた(第22回など参照)。ペンネーム時代のシムノンを積極的に誌面に登用し、シムノンが作家として飛躍するきっかけをつくった先輩作家である。ジャーナリスト作家としての先輩格でもあったといえる。上記の本によると、彼は一連の騒ぎが起こる前、1932年4月にスタヴィスキーと初めて出会っている。当時スタヴィスキーは日刊新聞の社主になりたいと願っており、それで彼に打診したのだ。彼はその後、弟も連れてスタヴィスキーと会った。また作家のコレットも同席して会食したこともあった。コレットも若き日のシムノンをかわいがって《ル・マタン》紙にコントを書かせ、アドバイスをした先輩作家だ。シムノンがもう少し早く作家的に成功していたら、ケッセル兄弟やコレットらを交えて社交界でスタヴィスキーと実際に顔を合わせていたかもしれない。
 そしてずっと時代が下ってからだが、アラン・レネ監督がジャン゠ポール・ベルモンドをスタヴィスキー役に据えて映画『薔薇のスタビスキー』(1974)【写真】を撮っている。この脚本家 ジョルジュ・センプルン Jorge Semprunは同年にガリマール社からシナリオ本『Le «Stavisky» d’Alain Resnais[アラン・レネの『薔薇のスタビスキー』](未読)を出版しており、ジャン゠ポール・サルトルが序文を寄せている。ただし日本で出版されたノベライズ本『薔薇のスタビスキー』(講談社、1975)は、おそらく(フランス本国でノベライズが出版された形跡がないので)訳者としてクレジットされている山根貞男氏自身によるシナリオからのノベライズではないだろうか。
 映画は1933年の夏、レフ・トロツキーがフランスに亡命してくるところから始まるのが特徴的だ。それまでトロツキーはトルコのプリンキポ諸島に住んでいたが、政治活動をおこなわないことを条件に夫婦揃ってフランスに亡命し(第39回参照)、同年11月にはバルビゾンという風光明媚なパリ郊外の田舎に移り住んだ。スタヴィスキーはその村でトロツキーとニアミスをする。直接会うことはないが、すぐそばまで来てすれ違う。この11月こそがスタヴィスキーにとってもっとも幸福な時期だった、というのが物語の肝なのだ。しかしその後のスタヴィスキー事件によってフランスは政治亡命者の受け入れに厳しくなり、1934年4月、トロツキーはバルビゾンからの立ち退きを命じられた。映画では描かれていないがノベライズ版にはその後の経緯も記されている。トロツキーはフランス国内を転々としたが、1935年6月にフランスを出てノルウェーへ亡命した、と。そして映画は、スタヴィスキーこそがひとつの時代を終わらせたのだ、とある登場人物に語らせて終わっている。
 ノベライズ版の序章部分にはスタヴィスキー事件以降の政情が簡潔にまとめられている。

 (前略)「二・六」暴動(中略)以後、内閣の交替劇があいつぎ、フランスは、はげしい右傾化の様相を帯びてゆく。やがて、ヨーロッパをおおうファシズムに自由の危機を感じた人々が、三五年、人民戦線を結成するにいたる。
 スタビスキー事件、二・六暴動、そしてフランス人民戦線。この激動のなか、フランス現代史の大転回がはじまる。

 映画のスタヴィスキーはいつも胸に薔薇を挿している。彼はダンディで、人を惹きつける魅力がある。すばらしく美人の妻を娶っている。ノベライズ版の訳者・山根貞夫氏による「あとがき」でも「ともかくスタビスキーなる人物が、じつにロマンにみちた男であり、ドラマチックな人生を生きたのです」と書かれているが、ただの詐欺師として片づけられないものを持つ人物だったのかもしれない。
 この日本版ノベライズにはジョゼフ・ケッセルの「私の知っていた男スタビスキー」(佐々木武訳)が併載された。上述の『Stavisky, L’homme que j’ai connu』の全訳だ(原著はさほど長くない)。2月6日の暴動についてはケッセル自身が間近で目撃しており、とりわけその部分の描写には迫力がある。久生十蘭は『十字街』でケッセルの名を出しているのでこの本を参照したかもしれない。
 映画『薔薇のスタビスキー』では1933年7月に《ル・マタン》紙でジョゼフ・ケッセルが注目すべき論説記事を書いたと実名で紹介され、そのことについてスタヴィスキーが知人と語り合う場面がある。ある著名人が自分はユダヤ人だと最近あえて公表したことについて、ケッセルが「万人の胸を打つ気高い行為だ」と記事で称賛したのである。すでに1933年1月にヒトラー内閣が誕生し、ナチスは強い勢力を持っていた。
 映画版を観ただけではよくわからないが、ノベライズ版ではスタヴィスキーとトロツキーは「ともに、ユダヤ系ロシア人であった」(129ページ)と明示されており、このことが映画のテーマと直結していることが示唆されている。
 ──このようにフランスとヨーロッパはまさに激動の時代だった。しかしシムノンはこれを機にジャーナリストとしての自分と決別したように思える。結果的にシムノンは、ジョゼフ・ケッセルのようには生きなかった。これ以上ジャーナリスト作家の道を進むことはなかった。
 狂騒の10日間の後、シムノンはポルクロール島に戻り、そして4月に『逃亡者』第44回)を、5月に『アヴルノスの顧客たち』第45回)を仕上げると、《アラルド号》で地中海旅行に出た(第46回)。
 おそらく彼には気分転換が必要だったのだ。

■「フランスの詳細調査または危機が終わるとき」(1934)■

 今回紹介するなかでいちばん長い原稿である。犯罪ルポルタージュではなく、あえて呼ぶなら社会派エッセイだろうか。主題は何かというと、「いまフランス全土で多くの人が、とくに工業生産者が破産の危機に瀕している。この危機的状況がいつか終わるときはくるのだろうか」だ。
 シムノンはそれまでの欧州の旅先で、さまざまな人と出会ってきた。飲みながら近年の生活について話を聞く機会も多かっただろう。その相手は漁夫や農夫だけでなく、昔気質の職人から近代的な工場主まで含まれていたと思われる。またシムノンはラ・ロシェル近郊の城を借りて暮らしたので、それでブルジョワや近隣の農夫たちと話す機会もあっただろう。そうした会話を通してシムノンのなかには、いまフランスの多くの人が破産して職を失っている、あるいは破産すれすれにまで追い込まれているという実感が溜まっていったのだろう。このエッセイは自分が見聞した事例をいくつも紹介しながら、自分たちフランス人はこの危機を乗り越えられるのだろうか、これはフランスそのものの破産ではないか、と訴えかけるシリーズだ。
 たとえば城の管理者はもはや金がやりくりできないので売りに出すほかない。農場の土地代も高くなったので大規模農業が営めない。第一次大戦前とは土地の値段がまるで違うのだ。漁夫も船の賃貸が払えない。漁獲高が減っているからだ。もちろん巧みな漁で売上を伸ばしている者もいるが、それは少数派だ。漁夫の息子たちはいまや漁師の仕事を棄てて町へ出て機械工になっている。
 ところが町では失業者が溢れている。アメリカ製の工業機械がフランスに入ってきて、昔ながらの職人は不要となり、むしろそうした機械の運転者の方が高給をもらっているほどだ。フランスの靴はいまやアメリカ製の機械で製造されている。その特許料が高いのだ。
 国際流通が活発になったことも危機を煽っている。リモーニュの伝統的磁器は安い中国製に押されている。ある紡績工場主は自分たちの技術を売って暮らしてきたが、それももう飽和状態で、今後の売上高は見込めない……。
 読みながら「あっ」と思ったことがある。連載の途中でシムノンは、ある一般市民から声をかけられた話を披露しているのだ。
「シムノンさんですか? 私はあなたの講演を以前に拝聴した者です。思い切って申し上げます。あなたは工場主さんたちとお忙しいようですね。ブルジョワの人たちがどのくらい儲けているか、彼らの心理はどうなのか、勉強なさっておられる。でも私たちは? 私たちのことは調べないのですか?」
 あっ、と思った理由は、日本で何となく広まっている作家シムノン像が、この一般市民の指摘によってぐるりと回転したように思えたからだ。日本では「シムノンは一般庶民の心理に寄り添って書く共感の作家だ」というイメージが漠然とあるのではないだろうか。だがここでは当の一般市民から、「ブルジョワの人たちだけでなく私たちも取材してくださいよ」と忠告されている。確かに振り返って見るとシムノンは庶民だけでなくブルジョワやプチブルジョワの人たちもしばしば書いてきた。シムノンの心のなかでは、そこに分け隔てはなかったのだ。ただ彼は目の前にいる人間を観察していたに過ぎない。この連載の場合は、その観察対象が経営者に向いていたというだけのことだ。
 この批判を受けて、シムノンは30歳程度の若手エンジニアへと目を向け、彼らの現状を報告する。だが、もはや3世代、4世代にわたって家業を続けるのは困難な時代だ。若者は別の道を探さなければならない。家業の工場は閉鎖されてゆく。若者も疲れた目をしている。
 最近、私(シムノン)がタイピストを募集すると、若い医師が応募してきた。秘書業務の募集でさえないのに! 彼は「何でもやります」という。最近の若者は早婚で、すでに家族がいる。家族を養う必要がある。
 いまや人々は50歳で人生の失敗をするのではなく、25歳や30歳で失敗するのだ! 
 私(シムノン)はときおり、家が焼ける悪夢を見る。そこは大きな城だが、自分が家主なのか客なのかはわからない。同じようにフランスが崩れ落ちてゆくのを想像する。1年前、私は中央ヨーロッパから戻ってきて「飢える人々」(第39回)というルポを書いた。そのときの結論は憶えている。より合理的な取引が進んでいるとはいえ、それは本当に成功しているのだろうか。いまやフランスも破産から破産へと連鎖しているのではないか。
 持ち堪えろ! 総崩れにならないように。そして用心するに越したことはない! 
 ──やはりこの時代のシムノンに特有の諦観を示してエッセイは終わる。
 なぜシムノンがこの連載を書いたのか実際のところはわからないが、参考資料として海原峻『フランス人民戦線』(中公新書、1967)を読んでいたとき、少し腑に落ちるものがあった。この本は近著・渡辺和行『フランス人民戦線』(人文書院、2013)でも本邦におけるフランス人民戦線研究史の先駆けと位置づけられており、私のような初心者がまず手に取るには最適の1冊だと思ったのだ。
 海原氏の本は人民戦線の発端をスタヴィスキー事件と2月6日の暴動に求め、そこから歴史を書き起こしている。その途中で、当時のフランスの経済事情がたびたび参照される。当時フランスの左派と右派はそれぞれどのような人々に支持されていたのか。もともと急進社会党(左派)はプチブルジョワと農民の支持政党だった。しかし欧州でファシズムが広まってくると、フランス共和党(右派)は急進社会党の基盤であった中産階級の取り込みに力を入れ始める。
 1930年代、フランスでは農民が急速に都市へと移り住み、農業就業人口は激減しつつあった。また当時の企業というと、従業員数10人以下の中小企業がまだ98%以上だったが、近代産業の発展で大規模経営企業も急速に増えつつあった。つまり農民や職人などの自立的中間層が減り、サラリーマンや雇われ技術者といった新しいタイプの中間層が増加していた。
 そして全体として、フランスは経済危機にあった。海原氏の本に表が載っているが(83ページ)、工業生産指数は1929年を100とすると1934年は75。失業者実数も、ドイツに比べればましな方ではあったが、1930年には1700人だったのに1934年には33
5700人へと膨れ上がっている。このような経済事情が左派と右派の攻防、またそれだけでなく左派内部(急進社会党と社会党)における勢力関係の変化に大きく影響していた。
 シムノンのエッセイはこうした背景のもとで書かれていたのだ。
 今回読んだなかでは、ふしぎといちばんいま現在につながっている。
 私は読みながらシムノン作品中の典型的な成り上がりである『第1号水門』第18回)のエミール・デュクローを思い出していた。シムノン作品のなかでもとりわけ印象深いキャラクターだ。彼の抱えていた悲哀が心に蘇った。

   

 これで第一期シムノンの作品は、小説・ノンフィクションを併せて本当に「すべて」(!)読んだことになる。
 とくに第一期ラストとなる今回に限っていえば、これまででいちばん書くのに時間がかかり、充実感を覚えると同時に、少し疲れたなという気持ちだ。
 ただ、いまは思う。「自分はシムノンのことがよくわかっている」と思い込んで読んでしまうこと──これが読書するときにいちばんまずいことだ。「自分はよくわかっている」と思い込んでしまったその瞬間から、自分の見たいものしか見えなくなってしまうからだ。読書とは科学と同じように驚きと発見の喜びなのであり、先入観を持ってしまった時点で、それは本当の読書ではなくなってしまうと私は思っている。
 一方、ときに「自分は“一般読者”の代表である」と錯覚している人を見かけることがある。「自分が理解できないのは作者が一般読者の方を向いていないからだ」「共感も理解もできなかった。一般読者にはこんな異国の話や、こんな専門用語や、こんな書き方はわからない」という感想を聞くことがある。だが“一般読者”などというものは幻想であって、この世には実在しない。個々の「私」や「あなた」がいるだけだ。
 ときに編集者は「自分が“一般読者”の代表である」という立場にあえて立つことで、「このような書き方は読者に通じない」と作家にアドバイスする。だがそれは実際のところ、「私にはこの部分はよくわからなかった。たぶん他の人にもわからないのではないか」「私にはここはわかるが、ひょっとすると他の人はわからないかもしれない」という提案なのだ。私が尊敬する編集者は、いつだってこの提案が巧みである。そして“一般読者”という名ばかりの幻想に振り回されることがない。
「シムノンの小説は、一見(いちげん)さんにはよくわからない」という誤解がこれまであったかもしれない。実際、シムノンの小説には代名詞による省略が多く、ぼんやり読んでいると誰がどの台詞をいっているのかわからなくなる。シムノンは舞台の空気感を生み出すのが巧みだが、これも初読の読者にとっては「省略が多すぎて想像できない」と感じられるかもしれない。だがそこで「こんな小説は“一般読者”には受け入れられない。シムノンよ、エンタメの基本に即して書き直せ」と考えてしまったのでは、本当のシムノンのよさが味わえなくなってしまう。
「自分はこの作家やこのジャンルのことがよくわかっている」と「自分は“一般読者”の代表である」は、どちらも先入観が人間の心に生み出す見えない壁である。
 私は幸いなことにこうやって第一期シムノン作品をすべて読むことができた。それはもっと、もっと、これから発見したいからだ。楽しみたいからだ。
 だが同時にこれからも私は、読書に対して謙虚でありたいと願っている。それが少なくとも私にとって、読書を本当に楽しむいちばんの心のあり方なのである。シムノンを読み終える15年後も自分はそうであっていたい。決してそれは知識に頼ることの反対の無知で構わない、それで開き直る、ということではない。G・K・チェスタートンに倣うなら、いつでも無心に、無垢な心で読みたい、ということなのだ。ブラウン神父ものの第1短編集のタイトルにもある“イノセンス”である(『ブラウン神父の無心』『ブラウン神父の無垢なる事件簿』 The Innocence of Father Brown )。
 そして願うならば、本連載を毎月読めばあなたが世界中の誰よりもシムノンを楽しめる一読者になっていただける──そんな連載でありたい。ただそれだけだ。
 つまりこの長い連載は、いつだってささやかな、私個人の感想文なのである。

瀬名 秀明(せな ひであき)
 1968年静岡県生まれ。1995年に『パラサイト・イヴ』で日本ホラー小説大賞受賞。著書に『月と太陽』『新生』等多数。
『石の花』などで知られる漫画家・坂口尚氏の未完コミック作品をリブート、小説化した長篇『紀元ギルシア』が、《WEBコミックトム》にて連載中(http://www.usio.co.jp/read/kigen_greecia/index.html)。
 
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