みなさま、こんにちは。
 せんだっての台風による被害に遭われたみなさまに、心よりお見舞い申し上げます。
 この夏はドラマ「凪のお暇」にずいぶん励まされました。「でも……」と言って、可能性から逃げていてはだめなんだ。そう思って読んだ『三体』は、わたし的にはチャレンジでした。悪戦苦闘はしましたが、新しい世界が開けたことはたしかです。ああ、空気がおいしい(個人の感想です)。
 では九月の読書日記です。

 

■9月×日
 いつも波の音と潮の香りがする海。波打ち際でキャッキャウフフしたくなる海。NHKの朝ドラ「あまちゃん」でアキちゃんが飛び込むのをストーブさんが目撃する海。潮騒のメモリーな海。ジェニファー・イーガンの『マンハッタン・ビーチ』は、そんな海と密接な関わりを持つ物語。アンドリュー・カーネギー・メダル受賞作。

 禁酒法廃止の翌年(一九三四年)から第二次世界大戦下のアメリカはニューヨークを舞台に描かれるのは、潜水士にあこがれる少女の成長、父の失踪の謎、移民の苦労、イタリア系ギャングの非情な世界、排他的なワスプの銀行家一家、危険な情事、そしてささやかなウーマンリブ。ミステリ、ロマンス、海洋冒険も楽しめる、欲張りな歴史小説だ。でも、どちらかというとジャンル小説というより主流小説寄りかな? 若さと力と輝きに満ちたアメリカ、〝理想や、言語や、文化や、生活様式を世界に輸出する〟ほど強いアメリカが、いつ、どのように形作られたかがわかる資料としても貴重な物語だ。

 特筆するべきは、アナ・ケリガンのがんばりだろう。障害を抱える妹リディアを心から愛し、十四歳のときに父エディが謎の失踪を遂げたあとも、ブルックリン海軍工廠で働きながら、ジーグフェルド・フォリーズ出身の母アグネスとともに懸命に生きてきたアナ。女子工員として船の部品の検品作業などをしていたアナが、たいへんな苦労をしてはじめての女性潜水士になったのは、女性の権利を守るために戦ったからではなく、ただ単に海が好きだったから、どうしても潜水士人になりたかったから、というシンプルでまっすぐなところがいい(実際はこの時代のブルックリン海軍工廠に女性潜水士はいなかったらしいが)。エラリイ・クイーンのファンで、ミステリマインドがあるところもポイント高い。父は家を出たのではなく、暗黒街で銃弾を浴び、いまわの際にアナの名をつぶやいて息絶えたのかもしれない、と思ってしまうロマンチストなところも。

 アナとともにこの物語の中核となるのはアナの父エディ・ケリガンと、その雇い主だったデクスター・スタイルズだ。思いもよらない形で離れたりつながったりするこの三人の運命は、戦争と海とに翻弄されることになる。丁寧に描かれた三人の心模様から、さまざまなアメリカの姿を垣間見ることができ、とても興味深かった。

 暗く孤独な海底、嵐に翻弄される船、つねに重くのしかかる不安と恐れ、つかの間の幸福感と高揚感、不可能を恐れない知恵と勇気。そのすべてを包み込む海と、社会や世界という海。荒波を乗り越えようとする登場人物たちの一挙一動に、息を飲んだり胸を詰まらせたり。忙しくも楽しい読書体験だった。

 九十キロもあるという潜水士の装備は、「あまちゃん」に出てきた、北三陸高校潜水土木科で天野アキちゃんや種市先輩が着てたやつみたいなのかな。

 

■9月×日
 アメリカ探偵作家クラブ賞などさまざまな賞に輝き、今年のコンベンションの出版社対抗イチ押し本バトルでもチャンプ本となった話題作、ジェイソン・レナルズの『エレベーター』を読んだ。兄を殺され、復讐を誓った少年が、銃を手に自宅のある八階からエレベーターに乗り、地上階に向かうまでをユニークな手法で描く。ミステリ×YAという感じかな。原題のLong Way Downもかっこいいけど、『エレベーター』というタイトルがまたクールです。

 特殊な文字の配列が、まるで意思を持っているかのように襲いかかり、死んだ兄ショーンの敵討ちに向かおうとする少年ウィルの切実さ、虚勢、恐怖、諦念、迷いがダイレクトに伝わってくる。
 一階ごとにエレベーターが止まり、思いもよらない人々が乗り込んでくることで、少年やその家族の現在と過去、彼らが生きる世界の掟と不条理が明らかになっていく。

 多くの言葉を必要としないその的確さ、ひとつひとつのことばの圧がすごい。と同時にどこか気持ちいい。短いせいもあるが、読みはじめたら絶対に途中でやめられないはずだ。メッセージ性が高く、詩とはいえストレートでわかりやすいのは、多くの青少年に読んでもらいたいという思いがこめられているからだろう。メッセージは「やるまえによく考えろ」。エレベーターが一階に着くまでのあいだだけでもいいから。

 不規則な文字の組み方は、ジョナサン・サフラン・フォアの『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』を思い出させる。あれは部分的だったけど。

 

■9月×日
 イヤミスは後味が悪いものと思っていたけど、ピーター・スワンソンの『ケイトが恐れるすべて』は、後味のいいイヤミスだ。正直『そしてミランダを殺す』ほどの意外性はなく、わりと予想できる展開だったけど、すべてを恐れていたケイトが一歩まえに進むためのイニシエーションだったのだと思ったら、「がんばったね、ケイト!」というすがすがしい気持ちになれた。

 ロンドンに住むケイトは、ボストンに住む又従兄のコービンと半年間互いの住居を交換することに。この段階ですでにケイトはかなりがんばったと思う。だって、もともと不安障害があるところにもってきて、とある恐怖体験からの精神的リハビリ中だったのだから。でも、ロンドンのフラットでうつうつと過ごすより、あらたな環境でいろいろやり直したい、という前向きな気持ちで出発したケイトに、まずはあっぱれ! 「凪のお暇」の凪ちゃんみたい。
 ところが命からがら(ほんとにそんな感じ)コービンの部屋に着いて早々、隣の部屋に住む女性オードリーが死体となって発見される。中庭をはさんでオードリーの部屋の向かいに住むアランは、オードリーとコービンがつきあっていたとケイトに話すが、メールで問い合わせたところコービンはそれを否定。せっかくアメリカ暮らしでリフレッシュしようとしていたのに、ご近所さん殺害事件をめぐる謎に、否応なく巻き込まれていく気の毒なケイト。一方、コービンにはだれにも言えない秘密があり、ボストンを離れたのはそのせいもあった。

 いちばん意外性があるのはケイトかも。ボストンに来たばかりのころはすごくびくついてるのに、知らない人ともすぐに打ち解け、いつのまにかすごく積極的になっている。でもよく読むと、「不安に支配された彼女のパラドクスのひとつは、やや向こう見ずな行動を取っている最中にこそ、もっとも正常な感じがすることなのだ」とあり、彼女なりのリハビリなのだとわかる。けっこうすぐに人を信じてしまうのではらはらしたし、最後も「えっ、それでいいの?」とちょっと思ったけど。絵を描く才能があり、会ったばかりの人の似顔絵をすぐに描けるのはすごいし、ちょっとうらやましい。

 それにしても、コービンのアパートってどんだけ広いんだよ! そんな広いアパートにひとりきりでいたら、何か音がするたびにびくっとして、不安症のケイトじゃなくても「だれかいるの?」って言いたくなるわ。ケイトを油断させるための自由猫サンダースの存在もきいている。そしてこの猫がまたいい仕事をしてるので、猫好きはかならず読んでね。

 ミステリ作品や古い映画がたくさん出てくるので、本好き・映画好きにもうれしい仕様。出版社に勤めているオードリーが読む『エアーズ家の没落』や『ゴーン・ガール』や『虚栄の市』、ケイトがコービンの本棚から選ぶディック・フランシスの『骨折』、アランのバッグのなかの『ねじまき鳥クロニクル』など、読んでいる本からもいろいろと想像できて楽しい。

 

■9月×日
 なんかものすごい話らしい、ということはわかったけど、わたしには猫に小判だったのかも。劉慈欣の話題作『三体』のことです。壮大な話だということと奇想天外なアイディアは理解できるけど、とくに後半は筋を追うのがやっとでした。物理学や天文学の基礎知識があればもう少しなんとかなったんだろうけど、それすらもあやういので……すみません。

 でも、汪淼にゴーストカウントダウンが見えはじめたあたりから、ゲーム『三体』に何度かログインして、そのたびにちがう文明が現れるあたりはすごくおもしろかった。ゲームのなかで理論を実践し、再生する文明に影響を与えながら次のステージへ……とか、RPG文明育成ゲームみたいで(ゲームにもまったくくわしくないので、見当ちがいだったらごめんなさい)。オフ会があるのもおもしろい。

 ログイン①では紂王がすごくちっちゃい声(たぶん)で「再水化……」「脱水……」と言うたびにみんなが大騒ぎになるのがコントみたいでツボ。何より「脱水」の謎が解けたときはのけぞりました。
 ログイン④の始皇帝の壮大な計算陣形の話はどこかで読んだなと思ったら、やっぱり『折りたたみ北京』に収録されていた「円」だったのね! すごくおもしろくて印象に残っていたので、またあのシステムが見られてうれしかった。メンテナンスが鬼畜すぎるけど。

 とにかくスケールがすごくて、ちっぽけなことでくよくよする必要はないと思えてくる、というオバマ前アメリカ大統領のことばには納得。スケールの広さはすごくよくわかった。
 あと、ナノマテリアルすごすぎ。

 

■9月×日
『休日はコーヒーショップで謎解きを』は、『日曜の午後はミステリ作家とお茶を』のロバート・ロプレスティによる日本オリジナル短編集。今回も日本版「まえがき」と短編ごとに「著者よりひとこと」がついた豪華版で、訳者の高山さんがセレクトも担当されたとのこと。意外にも今回ミステリ作家シャンクスものはひとつもなくて、ハードボイルドや犯罪小説、西部劇風など、実にバラエティに富んだラインナップになっています。

 コージー・ノワールというジャンルを可能にした「ローズヴィルのピザショップ」、有能な殺し屋が踏んだり蹴ったりの目にあうオフビートな犯罪小説「残酷」、悲惨な話なのかと思いきや、最後まで読むとすごく後味がいい「列車の通り道」、落とし所が軽妙な(そこがAHMM的ではなくEQMM的なのか?)「共犯」、探偵クロウが子供たちのあとをつけることで意外な事情が明らかになるハードボイルド風の「クロウの教訓」、ひとりの男が家族の運命を変えた一九六七年の人種暴動に思いをはせる「消防士を撃つ」、ジャック・リッチー風を意識したという「二人の男、一挺の銃」、ユニークな語り口で読者を煙に巻く「宇宙の中心(センター・オブ・ザ・ユニバース)」。そして、中編『赤い封筒』。

 どれも甲乙つけがたいおもしろさだが、いちばん好きなのは最後に収録されている中編の「赤い封筒」かな。殺人の舞台となるグリニッチ・ヴィレッジのコーヒーハウスが、クレオ・コイルの〈コクと深みの名推理〉シリーズのビレッジブレンドを彷彿とさせる。オーナーは伯父から店を相続したばかりでエスプレッソマシンも使えないけど、詩人や芸術家の溜まり場なところがね。容疑者全員を店に集めての謎解きシーンでは、ボンゴのリズムにあわせて詩で表現するという、自由すぎる詩人探偵デルガルドがツボ。つかみどころのないホームズ役のデルガルドと、彼に振り回されるたよりないワトソン役のトマス・グレイのコンビが癖になる。「著者よりひとこと」によると〝デルガルドものの中編第二作に取り組んでいる〟とのことなので、楽しみに待ちたい。

 各方面で絶賛されていますが、ほんとうに文句のつけようがない短編集。つぎはどんな世界に連れていってもらえるのだろう、と一編一編わくわくしながら読むのは至福でした。

 

上記以外では:
 絶好調のリース・ボウエンの〈英国王妃の事件ファイル〉シリーズ第十弾『貧乏お嬢さま、駆け落ちする』では、駆け落ちしようとグレトナグリーンに向かう途中、恋人ダーシーの故郷で問題が起こり、ジョージーお嬢さまも彼を追ってアイルランドへ。
 ダーシーの知り合い(?)で、暇つぶしのためにやってきたポーランドの亡命貴族ザマンスカ王女のキャラが最高。ダーシーの大おばと大おじもいい味を出してます。大おばウーナのもとにいると、あの嵐を呼ぶメイドのクイーニーがまともな働きをするという不思議な現象も。それにしてもジョージー、ひ弱なお嬢さまから行動力も精神力もある立派な女性になったなあ。
 つぎの『貧乏お嬢さま、イタリアへ』ももう出ているので、早く読まないと。

 

 チョン・セランの『フィフティ・ピープル』は、あらゆる年代の男女五十人(実際は五十一人)のそれぞれの日常や悩みをつづった短編集。それぞれがゆるくつながっているので、ある地方都市の大学病院を中心とした、ひとつの長編としても読める。
 ミステリではないが、悲しい出来事を扱っていてもどこかほっこりする読後感があり、読んでいてすごく癒された。ひとりとして同じ設定の人がいない登場人物たちは、まさにキャラクターの見本帳のようで、描き分けはたいへんだったようだが、読んでいてもまったくごっちゃにならないのがすごい。韓国という国がすごく身近に感じられ、まえよりもっと好きになった。とくにいいなあと思ったキャラクターは、いろんなところに顔を出すおじいさん名医のイ・ホ先生。

 

上條ひろみ(かみじょう ひろみ)
英米文学翻訳者。おもな訳書にフルーク〈お菓子探偵ハンナ〉シリーズ、サンズ〈新ハイランド〉シリーズ、マキナニー〈ママ探偵の事件簿〉シリーズなど。趣味は読書と宝塚観劇。最新訳書はリンゼイ・サンズの〈新ハイランド〉シリーズ第六弾『忘れえぬ夜を抱いて』

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