みなさま、カリメーラ(こんにちは)! 

 今回は第三世代である、2011年長編デビュー組の残り二人をご紹介します。前回の音楽ミステリパパディミトリウや占領下の厳しい日常を描くドラグミスとは全く異なる作風の二人です。
 おまけ「欧米ミステリ中のギリシャ人」の続編も併せてお届けします。舞台はアメリカ東海岸から西へ向かいます。

◆《七つの大罪》シリーズ

 三人目のイエロニモス・リカリスは異色の作家、というより謎の人物です。本の表紙やネットにも顔写真が一切ありません。本名も不明。経歴情報もきわめて少なく、1953年アテネ生まれで、軍事政権時代(1967年―74年)に抵抗運動にかかわり、世界中を彷徨った後、オーストラリアへ亡命したとあるだけです。
 2011年発表の政治犯罪を扱った『クズどもの物語』が長編第一作ですが、その前に例のカスタニオティス社『ギリシャの犯罪』シリーズに短編三作を発表しています(掲載にあたってはシリーズ編集を担当したアンデオス・フリソストミディスの強い推薦があったようです。この人物は後になって、実に不思議な役割でリカリスの作品に登場します)。
 なので、本当のデビューは短編「親友への慈悲」(2008年)です。アテネの毛皮商の豪邸で古代遺物盗難と殺人事件が同日に起きますが、二つの事件はどうもちぐはぐな感じです。かつてソ連留学の経験があり毛皮の取引で当てたこの商人ですが、最近の経営は火の車になっていました。アメリカ帰りで《FBI》のあだ名を持つヴァルダゾグル警部補が捜査に当たります。

 セルギオス・ガカス他『ギリシャの犯罪2』

 カスタニオティス社、2008。
【リカリスの短編デビュー作「親友への慈悲」所収】

「死のパス」(2009年)では、悪徳警官を手足として使う黒い政治家や新聞社社長と、理不尽に射殺されたロマ人青年の家族の復讐が絡み合います。被害者の遺族から「パスを受け取ってくれるか」の謎めいた言葉に駆り立てられた新聞記者が奮闘。ロマ人家族の貧しいあばら家の克明な描写が印象的です。強大な敵勢力ですが、最後に読者は溜飲が下げられるのが救い。
 以上の二作は、殺人事件の背景に、外国勢力に支持されて政敵の出馬を阻む政治組織、あるいは、腐敗警官によるマイノリティー弾圧問題などが潜むオーソドックスな社会派警察ミステリです。主人公がテレビでベカス警部ハリトス警部のドラマに興じるユーモラスな楽屋落ちがあったり、章によってフォント・文体を変えたりして、読者サービスにも事欠きません。

 アシナ・カクリ他『ギリシャの犯罪3』

 カスタニオティス社、2009。
「死のパス」所収】

 ところが、第三短編「フェイス・コントロール」(2011年)ではちょっと毛色が変わってきて、ヴェネチア行き列車に乗り合わせた四人の乗客の過去を、語り手がその表情の観察から勝手に妄想するという不思議な作品になります。
 例えば、四十代のポニーテールの女性は、最初穏やかに読書していて、途中携帯が鳴ると不愉快な様子、最後に微笑しながら携帯でメッセージを送りヴェローナ駅で下車していきます。
 これだけの表情の観察から語り手の妄想が暴走します。
 ステファニア(名前も勝手につけている)はミラノの上流階級弁護士一家の出身、父親への反発もあって左翼学生と恋仲に。学生はテロリストになり絶縁、姿を消すが、数年後まっとうな仕事について戻ってくる。しかし、彼を嫌悪する父親は警察に圧力をかけ証拠をでっち上げて逮捕させるのだが……といった具合。
 フィッシュ『シュロック・ホームズの冒険』に依頼者の服の汚れや赤いジャムの染みを自分勝手に早とちりするような小ネタの笑いがありますが、あれを正面に据えて短編に仕立てたような感があります。ただし、途中から妄想であることを割ってしまうので、ちょっと惜しいなと思いました。最後のひねりに使えたかもしれないのに……。

 ペトロス・マルティニディス他『ギリシャの犯罪4』

 カスタニオティス社、2011。
「フェイス・コントロール」所収】

 短編「まあ、何という日!」(2017年)では、メルケル独首相来訪で警戒態勢のアテネを舞台に、麻薬王の情婦の死を捜査する《FBI》警部(警部補から昇進してます)の活躍を描きます。事件に一枚かんでいるらしい政界の古株からの圧力に警部はどう立ち向かうのか? 最初の二つの短編のテイストに戻っています。
このように、短編から受けた感じでは、社会派警察ミステリの印象だったのですが、長篇『貪欲なる者たちよ、まがいものよ』(2015年)の味はあまりに違っていたのでビックリしました。《七つの大罪》シリーズと銘打たれており、それぞれの《罪》を七つの長編で描いていこうという構想のようです。第一作は《嫉妬》をめぐる『妬みは刃物』(2014年)、続く本作では《強欲》がテーマになっています。しかし、おなじ七つの大罪を扱う映画「セブン」のような不気味なサイコ・スリラーを期待してはいけません。
 不思議なタイトルは、語り手であるナイトクラブの従業員が作った歌詞の一部です。

 イエロニモス・リカリス『貪欲なる者たちよ、まがいものよ』
 カスタニオティス社、2015。
【表紙絵に描かれているのは有名なヒエロニモス・ボスの「七つの大罪」のテーブル型の絵。《強欲》の部分にスポットが当たっています。】

 ある後ろ暗い人物を追っていた《私》はアテネの墓地で同級生ギパスに再会します。虚言癖があり、もともと反感を持っていた相手ですが、アメリカへ渡り株の取引きで大儲けして巨万の富を築いていました。彼の亡き妻の墓(というか壮麗な霊廟で、内部に株売買のオフィスまで備えている!)を案内し、アメリカで遭遇した奇態な出来事と犯罪を得々と語ります。
ギパスは韓国人とルーマニア人の間に生まれた美貌のモデル、アドリアーナと結婚してアメリカの豪邸に住んでいたのですが、アトス山で修行した破戒僧、古代中国哲学に詳しい薬草使い、元FBIプロファイラーの女という、どうみても怪しい三人組が現れ巧妙に取り入ってきます。ホームパーティの席、気がつくとギパスの腕の中で妻が窒息死していました。彼女の死の原因は何なのか、ギパスが殺したのか、それとも別の殺人犯がいるのか、というのが謎の核となります。
ギパスの話が終わると、《私》はその物語の矛盾点を次々と指摘し、真相を暴いていきます(いくように見えます)。
 しかしこうしてあらすじを書いていても、果たしてミステリとして成立しているのだろうかと、首をひねってしまいます。ギパスが事件を語り、語り手《私》はそれを吟味しながらほころびを見つけて真相を提示するのですが、結局すべての語り手は《私》。語り手の推理を支持する証拠めいたものもありません。作者はいちおう謎の解答は提出するけれど、そもそもその証明など関心がないかのようです。
 凝った語彙や文法に乗って、畳みかけるような弁舌が流れる中、読者は作者の語りの迷宮を歩かされます。《貪欲》の体現者ギパス(もともと「禿鷹」の意味)は欺瞞によって蓄積した富とその象徴である霊廟を嬉々として案内し続けます。語り手の方も《貪欲》という大罪の起源と罪深さを、ダンテ「地獄篇」、エラスムス「痴愚神礼賛」、アリストファネス「福の神」まで交えながら、奔流のように語ります(ボスの「七つの大罪」や奇怪な化け物の群れで知られる「干草車」の絵も登場)。犯罪の謎はありますが、その解明証明よりも、欲望のままに人間が演じるバカ騒ぎを一歩引いてシニカルに描くことに眼目があるようです。
 そう思うなら、さきほどの「フェイス・コントロール」が早々と語り手の妄想であるとバラすのも、惜しいどころか、確信犯かもしれません。現象の解釈などどんな風にでもできる、そこから紡ぎだす物語の面白さこそが寛容さ、と作家は開き直っているかのようです。
 『ギリシャの犯罪5』掲載の「余計な殺人の試みへの想像上の省察」は初期の短編よりもこの長篇に近づいている印象を受けます。殺人を犯し現場から逃亡した雑誌編集者フリソストミディスと《私》(作者自身)が南米で再会し、事件の真相を論ずるというものですが、人を喰った解決を含む、冗談のようなメタフィクションです。そもそも『ギリシャの犯罪』シリーズを手がけた(実在の)フリソストミディスが第四巻に載せたブラックユーモアたっぷりの序文(社長カスタニオティスと編集方針の違いで口論のあげく殺害、チリへ逃亡)の設定をそのまま拝借して、さらにひねりあげ、しかもただの楽屋落ちの小品ではなく、執拗に語られるグルメの数々(《ジョン・ル・カレ風スパゲッティ・デル・カピターノ》とか《アンドレア・カミレーリ風ハチミツかけババロワーズ》などと作家の名がつけられている)によって、ちゃんと《貪食》がテーマの《七つの大罪》ものになっています。実はこの『ギリシャの犯罪5』は2015年に亡くなった編者フリソストミディスへ捧げられており、リカリスはひねくったやり方で恩人を追悼しているのです。

 作者の正体と同じく、社会派なのかアンチミステリなのか、作風が捕らえきれない摩訶不思議な作家です。

◆ノワールと「藪の中」

 四人目の若手作家ヴァシリス・ダネリス(1982-)については、これまでにも何度か触れました。アンソロジー『バルカン・ノワール』、『グリーク・ノワール』の編纂もしています(エッセイ7回8回)。
 処女長編作は『黒ビール』(2011年)。何かの事情で将来の夢を砕かれ流しのギターで細々と生きる《俺》が主人公。外国人が多いプシリ地区(アクロポリスの北)のアイルランド風パブで黒ビールをおごってくれた大道芸人が直後に殺されてしまいます。天涯孤独の友人を人並みに埋葬してやろうと非情の街アテネを駆け回るのですが、周囲は冷たく、無縁墓地に入れられる時間が迫ってきます。最初から正義感を振りかざして真犯人を捜すのではないところに説得力があります。

 ヴァシリス・ダネリス『黒ビール』

 カスタニオティス社、2011。

 経済危機の時期に書かれただけあって、多くの登場人物が将来に希望を失っています。工事現場にも外国人だけではなく、大勢のギリシャ人が押し寄せています。住民間の対立もひどく、《俺》のなじみの安食堂を営むエジプト人はギリシャの現状への不満を吐き続けます。しかし、《俺》は何でも移民のせいにするギリシャの小市民も、逆に、国を罵るばかりの移民も受け入れることができません(読者の気持ちを代弁するかのように)。
 こうした不安定な日常を背景に、大道芸人の死にはアテネのマフィアの抗争やアルバニアへの中古車の密売、さらには、環境汚染を引き起こし市民団体に抗議されているプラスチック工場などが絡んできます。殺された男も、愛する女性の顔をタトゥーに刻むほど純情そうに見えますが、いろいろと危ない汚れ仕事に手を出していたようです。
 大小様々な悪党がぞろぞろ登場しますが、《俺》の行動原理がビールを飲み交わした友人の死の真相をただ知りたい、とブレることがないので、(その心情は周囲にはほとんど理解されないのですが)後味は悪くありません。
 なかなか気のきいたセリフが出てきます。
「誰にも隠すべき秘密があり、自分に責任があると感じるわけがある。過ちのない者などいない」

 続く第二作『アスフォデルの園』(2014年)ではかなり作風が変わってきます。

 ヴァシリス・ダネリス『アスフォデルの園』

 カスタニオティス社、2014。

 アスフォデルは死者の園に咲くとされるユリ科の花(彼岸花のイメージでしょうか)、20世紀初めの詩人ロレンゾス・マヴィリスの詩「忘却」が冒頭に引用されています。

「(死者の魂は)忘却の水を飲もうとも/アスフォデルの園を歩みつつ/再び頭を過るは、心に眠るかつての痛み」。
(古代では、死者はあの世へ行く前に《忘却の水》を飲み、この世の想い出を忘れ去るとされていました)

 家のローンを払った後は、別荘を買うのを目標にして幸せに生きてきた主人公パンデリスが、経済不況と暴徒の破壊行動に巻き込まれて家も店も家族も失ってしまいます。やむなく廃屋に住み着くことになり、心は荒み自殺を繰り返しますが、ホームレスの同居人たち、朴訥な漁師、シリアの難民少年とのかかわりを通して立ち直ろうとする物語。
 冒頭・中段・結末に類似したシーン(汗だくで荷物を運ぶ労働者たち)が繰り返されますが、パンデリスの心情の変化に応じて全く違うように映るのが効果的です。
 社会の底辺に落とされた人々の境遇や警察による難民の不当な扱いといった社会問題を描く点では『黒ビール』と共通していますが、犯罪や謎はなく、話は主人公の再生に焦点が向けられ、かぎりなく普通文学に近いものになっています。作者はミステリにこだわらず、書きたい主題の作品を作り上げたということでしょう。
 現実のアスフォデルの荒野を歩みながら、パンデリスは過去の痛みを乗り越えられるのか?
 この作品も相変わらず忘れがたいフレーズに満ちています。難民少年に慕われ戸惑う主人公と同居人である元教師の会話。

――ぼくには人にあげられるようなものがない。
――それを決めるのは相手だよ。君にできるのは嫌ならそれを与えないことだけだ。

 第三作『列車の男』(2016年)は評論家に好評のようです。

 ヴァシリス・ダネリス『列車の男』

 カスタニオティス社、2016。

 デビュー作『黒ビール』のように解かれるべき謎が提示されミステリ風に戻っているのですが、設定は非常に単純です。ある男が駅のホームから転落し轢死しますが、直前にもう一人の男と言葉を交わしており、こちらは心臓発作を起こして病院に搬送され亡くなります。転落した男は自殺? 事故? それとももう一人の男が何かしたのか? そもそも死んだ二人の男の関係は?
 五人の目撃者の証言の食い違いを、たまたま居合わせた新聞記者の《私》が調査するというものです。
 魅力的な謎ですが、クリスティー『五匹の子豚』のような、五つのピースを組み合わせて真実を再現するとか、複数の人物が推理合戦を競うバークリー『毒入りチョコレート事件』の類ではありません。
《私》は調査を進めるうちに、証言が違うのは各人が出来事をただ部分的に見たからとか、見る位置角度が違っていたから、というようなことではなく、目撃者自身の感情・心境が記憶を操作しているのでは、と思い至ります(どこまで意識的かはともかく)。自分自身の状況――現実の姿、あるいは理想の姿――を二人の死者に投影し、記憶を再編集しているのでは、と。 
 例えば、「小柄な若い女」は、ちょうど自分を軽視する恋人とホームで喧嘩しており、その関係を二人の男に重ね合わせています。二度目に記者に会った時にそのことを認め謝りますが、二度目の証言にバイアスがかかっていないという保証はありません。
「運転士」は心臓に問題を抱えていたもう一人の男を拒絶しショック死させた点で、転落死した男には責任はないのか、と不条理な議論を吹っかけてきますが、自身が列車を運転していたことの責任問題に取りつかれています。日常生活の単調な繰り返しの中で周囲への注意が散漫になっている時、人の《責任》はどこまで広がるのか?
 さらに《私》自身も何か問題を抱えており、証言を聞くうちに、妄想が忍び込んできます。
 かくして《私》は「目撃者たちは異なる五つの真実――いずれも現実――を証言しているんです。すべて真実である五つの現実と言ってもいい」と主張して、編集長に「バカな。すべて妄想だ」と怒鳴られます。
 事故から一年後、ある事情から街を去ることに決めた《私》はもう一度駅へ向かいます。全く無関係な三人の乗客を見かけて事故の取材を継続しますが、この部分は明らかに《私》の妄想です。それでは、どこまでが現実だったのか? そもそも真実とはただ一つなのか? それは知り得るのか? 証明できるのか?など読んでいて考えさせられます。
 目撃者五人は名前が明かされず、ただ「小柄な若い女」「運転士」「美しい目の女」などと呼ばれるだけです。場所もほぼ駅のホームと待合室に限定され、舞台劇のような味わいがあります。カフカやベケットの影響を言う評者もいますが、突然虫になるとか、招かれた城になぜか入れないという不条理な状況が展開するわけではありません。日常的な墜落事故の原因を探るという物語の軸ははっきりしており、目撃者・記者自身の実存を映しながらどんどん広がっていく妄想こそが読みどころです。

 相反する証人たち、というのはむしろ芥川龍之介「藪の中」を思わせます。この作品のギリシャ語訳はもちろん存在しますし、作者ダネリス氏も黒澤明「羅生門」は見ているそうです。

 芥川龍之介『羅生門』ギリシャ語訳

 グリゴリ社、1970。
【ほかに「藪の中」「龍」「芋粥」「袈裟と盛遠」などを含む】

「藪の中」では、女、盗賊、死霊(殺された男)が、自分のプライドを潰されまいと事件を脚色して語り、証言にずれが生じてきます。
 これに対し『列車の男』は、証人たちがそれぞれの生き方の悩みや現状をそのまま二人の死んだ男に投影させながら、客観的な真実というよりむしろ自分自身を語ることから、食い違う結果が出て来ます。一見して謎を解くデビュー作に戻ったようでありながら、ずいぶん遠いところに来ています。

 ダネリスの短編としては、アテネで起きた複数の事件を警察が追う「街が牙をむくとき」(2009年デビュー短編)、ファム・ファタルの一人称語り「さらば、いとしき人」(2011年)、アメリカ・テキサスが舞台の「グレイドウォーター事件」(2011年)、ベカス警部に捧げたオーソドックスな謎解きパスティーシュ「不幸な偶然」(2012年)があります(エッセイ5回6回)。『ギリシャの犯罪5』の所収の最新作「バン・バン!」(2019年)はナンシー・シナトラの同名曲(タランティーノ映画の「キル・ビル」で流れるあれです)をバックに、女性が幼馴染の男への愛憎を切々と語ります。

 アテネという都会の犯罪に主人公が飲み込まれていくノワールから出発して、真実・現実をめぐる対話劇へと変貌してきたダネリスは、2017年に四冊目の長編『死せる時』を出したばかりです。

 今後、どのような方向へ進んでいくのか注目の一人です。

◆欧米ミステリ中のギリシャ人(2)カリフォルニアのギリシャ人

 ここからは前回のおまけの続編です。
 ニューヨーク州に次いでギリシャ系人口が多いのはカリフォルニア州で、13万人を超えています(と言っても、もともと人口最大の州なので、ギリシャ人の人口比は1%にも満たないのですが)。今回は西海岸へ行ってみましょう。

 ニューヨークでハルキス邸事件が起きた頃、カリフォルニアの田舎道では、渡米したばかりでまだ訛りのある中年ギリシャ人が小さな食堂を開いています。ジェームズ・ケイン『郵便配達は二度ベルを鳴らす』(1934年)のニック・パパダキスです。「〇〇アキス」は特にクレタ島に多い姓で、ニックもあるいはこの島から来たのかもしれません。真新しいスーツに斜めに傾げた黒い帽子、紫色のネクタイを締めて金時計の鎖を垂らし、葉巻をくゆらす、と絵に書いたような成金趣味ですが、帰化証明書や結婚証明書、ギリシャ軍時代の写真やら若妻コーラとの結婚写真を嬉々として見せる気のいいおやじです。
 アイオワ州出身というコーラの方は、自分がメキシコ人ではなく白人であることを繰り返し力説し、ギリシャ人と結婚して「自分がもう白人じゃなくなったみたいな気がしている」と鬱憤を抱えています。「パパダキス夫人」と呼ばれるのにも耐えられず、旧姓は「スミス」だと強調します(アングロサクソン系か)。ギリシャ系アメリカ人は国勢調査なら「ヒスパニック系以外の白人」に入るはずなのですが、その民族的ポジションは微妙です(作品中、ニックがほとんど名前ではなく「ギリシャ人」と突き放した感じで呼ばれるのも気になります)。
 コーラはフラリと店に立ち寄った流れ者フランク(こっちが主役)とたちまちデキてしまいます。気さくだけれど鈍感なニックおやじの方はフランクを気に入って店で働かせようとするのですが、もともと根無し草の若者と、とにかく逃げ出してどこか他所に根を張りたい若い女はニック殺しへと転がっていきます。
 前回の美術商ハルキスと対照的なのは、ニックの葬儀がちゃんとギリシャ正教会で行われ大勢の知人が参列していることです。墓地へ埋葬に向かう際には周囲が集まってコーラやフランクの手を取って支えてくれます。同郷人とのつきあいを大事にし、宗教を守り続けている共同体の姿がチラリと描かれています。

 1981年の映画版ではジャック・ニコルスン(フランク)とジェシカ・ラング(コーラ)が見事な演技を見せています。ニックおやじ役のジョン・コリコスはカナダ人ですが、お父さんがギリシャ人だそうです。
 原作では、初めから生活に対するコーラの不満や夫への生理的嫌悪が描かれますが、映画ではフランクの押しの強さのせいでコーラの心境が次第に変化し、鬱積が表面化していきます。コーラの不満も「(あたしが)ギリシャ人に見える?」程度に抑えられ、夫の姓で呼びかけられてふて腐れるのも、ただフランクが「パパドゥキス夫人」と呼び間違えたからです(フランクはどっちも同じようなパパ何とかじゃねえか、という表情をしています。ジャック・ニコルスンの演技がうますぎる)。
 五十年たって差別偏見への配慮も随分と変わってきたということでしょう。
 原作にないシーンとして、ニックが最初の事故(実はフランクとコーラによる殺人未遂)の後に全快祝いのパーティが挿入されています。老若男女に神父を交えたギリシャ人たちが集まり、バチで演奏されるカヌーンやクラリネットの調べの中、民族ダンスにうち興じています。壁にはギリシャとアメリカの国旗。先祖たちのセピア色の写真(移住の歴史ですね)。ニックはフランクをそばに呼び、ギリシャ語で「こいつが俺を救ってくれたんだ」と一同に紹介します(本当は自分を殺そうとした犯人なんですが)。その夜おやじは酔っぱらってベッドでコーラに迫りますが、相手はいかにも嫌そうな様子。二人の気持ちのずれがシーンのかなめですが、ニックおやじがコーラにギリシャ語を仕込もうとするほうに目が行ってしまいました。

ニックおやじのギリシャ語講座
――Τα πόδια μου είναι όμορφα.)(タ・ポージア・ム・イネ・オーモルファ)「私の足はきれい」

 一方で、原作の葬式のシーンがカットされてしまったのはどうしてなのか? (自分が殺害した)ニックが墓穴に下ろされるのを見ながらフランクが涙を流すというのが、不条理な人間を描いた見せ場のひとつなのに。
 コリコスの名演もあって(酒癖が悪く少々脂ぎっているにしろ)ニックおやじがひどい奴には見えません。子供のようにダンスに興じるニック。両親の古写真に見入りながら「アメリカにはチャンスがある。だが幸せがない」と吐露するニック。「男には家庭が必要だ」と言って子供を欲しがる(そのためコーラが二度目の殺害計画を決心)まっとうな常識人のニック。映画になると余計に感情移入してしまいました。

 二十世紀初頭に「新移民」として続々と渡米し、ささやかな仕事から出発して安定した生活を送りながら、宗教や言葉といった祖国の伝統を保持しているギリシャ移民の姿が小説・映画に奥行きを与えています。

橘 孝司(たちばな たかし)
 台湾在住のギリシャ・ミステリ愛好家。この分野をもっと日本に紹介するのが念願。現代ギリシャの幻想文学・普通小説も好きです。
 三百年を超えて台湾に跳梁跋扈する妖怪を集大成。幻想・歴史小説家何敬堯と漫画家張季雅のタッグによる『妖怪台湾』、485頁の力作です。眺めるだけで楽しい。

 何敬堯(著)、張季雅(イラスト)『妖怪臺灣:三百年島嶼奇幻誌‧妖鬼神遊卷』 大航海時代、明、清、日本時代まで321年にわたり、《美麗島》台湾の妖怪魑魅魍魎の数々229体を収録! 翻訳出版してほしい。

【映画史上最悪のバッドエンディングのひとつ、というのも頷けます。この種のサイコ・スリラーがギリシャ・ミステリにも現われるようになりました。次回取り上げる予定です。】

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