いま、アメリカのミステリー界は、もとい、出版界全体が、ここ数年なかったような盛りあがりを見せています。そう、ダン・ブラウンの新作“The Lost Symbol”が発売されたのですね。なにしろ累計8000万部という『ダ・ヴィンチ・コード』の続編ですよ。初版500万部だとか、さらに150万部追加されたとか、桁ちがいの話が聞こえてきます。発売日となる9月15日まで、いっさい内容を明かしてはいけないという厳重な体制が敷かれ、倉庫に入荷した本が外部に持ちだされないように警備員を立たせる書店もあったとか。ハリー・ポッター最終巻発売以来の加熱ぶりですが、今回は書店や印刷所から本が盗まれるというような事件もなく、唯一目立ったのは、禁止令を破って発売の2日前にNYタイムズが書評を載せちゃったことぐらいですか。

 さて、この「出版前に内容を明かさない」という件ですが、じつは業界的には異例のことなのです。というのは、わたしたちのような海外の出版社への営業活動は、出版前から行なわれるからです。じっさいには、まだ企画書しかないころから売りこみがはじまり、その後、著者が書きあげた原稿、作業用のゲラ、それから版元が作った仮綴じ本と、さまざまな段階での原稿が送られてきます。(そういう版権ビジネスの場になるのがブックフェアで、世界最大規模なのがドイツ・フランクフルトのブックフェア。10月中旬に開催されるこのフェアの模様は、また誰かがここに書くかもしれません)もちろん、事前に売りこみされない本も多いので、本国で出版されてからわたしたちが偶然見つけて、取り寄せて読んでみて翻訳出版が決まる、というケースもたくさんありますが。ということは、売れ線の本ほど、ほかの国でも出版してほしいわけですから、内容は積極的にわたしたちに開示されることになります。しかし今回のダン・ブラウンの場合はちがったわけですね。

 先日、ダン・ブラウン翻訳者であり、このサイトの起ちあげメンバーでもある越前敏弥さんにうかがったら、NYの出版社に来てカンヅメになるなら翻訳してもかまわない、と言われたそうです。ただ、作業用のコンピュータの持ちこみは認めるが、ネットには接続するなという条件だったので、断念されたそうです。出版社は情報の流出を恐れたんでしょうが、調べものがいっさいできない環境では、あの小説を訳すのは無理ですよね。

(つづく)