(承前)

第1位「罠」(ロベール・トマ)

 我が劇団でも処女公演と十周年記念公演と二回トライさせてもらったお芝居。

 もうネタを知っている方も多いと思うが、このラストで陰画と陽画が見事に反転する鮮やかさは、やはり並みではない。役者さんたちに聞くと、何度やっても、新しい伏線みたいなものが発見できる、というくらい緻密に練り上げられている。

 僕が実際に舞台を見たのは二十年以上前のことで、千石の三百人劇場でのもの。どの劇団がやったかも忘れてしまったが、どんでん返しのところで、客席にあー、というような溜息のような声がこだましたことを、覚えている。結構、ケレン味の強い演出だったけれど、実に最後の決め台詞の絞り出しが上手だった。あの時、客席に満ちていた興奮というのが忘れられない。

 なお、この台本は白水社の『今日のフランス演劇』第3巻に収録されていて、最後の部分だけ天地逆に印刷されているという洒落た趣向になっている。

 ちなみに、昨年、パリに行った折、演劇書専門の書店に行って、トマの台本を探したのだが、書店員がトマの名前にぴんとこない様子。「あの映画になったユイット・ファムの作者だよ」というと、あー、それならと「八人の女」の台本を出してくれただけ。どうやら、トマの名前はむしろ日本で生きながらえているようだ。

第2位「暗くなるまで待って」(フレデリック・ノット)

 言わずと知れたオードリー・ヘプバーンの映画で有名な作品。盲目のヒロインが3人のギャングに囲まれ脅かされる物語。彼女の味方は唯一、彼らと互角に戦える環境を与えてくれる「暗闇」だけ、という設定が見事。

 僕は舞台は二度見ている。最初のは、初期のきちんとしたお芝居だけをやっていた頃の劇団四季がやったもので、当時、浅利慶太氏の奥さんでもあった影万里江が主演。悪党たちを水島弘とか日下武史が気持ちよさそうにやっていた。しかし、この劇はクライマックスで客電(観客席の照明)を全部、落として暗闇をつくるのがミソなのだが、この当時は消防署の監査が厳しく、緑色の非常灯の消灯が許されなかったため、完全な暗闇がつくれず、ずいぶんとしらけてしまった思い出がある。

 二度目は銀座博品館での南果歩の主演。これは悪人連中の演技がお粗末で困ったものだなあ、と思っていたのだが、そこは演出の妙。実にテンポ良く話を進め、どこを強調すべきかわかった演出で、この物語を休憩なしの1時間半で見せてしまった手際に驚いたものだ(ちなみにテレンス・ヤングの映画版でも2時間を超えている)。結構、複雑な仕掛けがあるストーリーをきちんと観客に理解させるのだから、演出力とはこういうものかと納得させられたものだ。ちなみに、この時の観客席は非常灯もちゃんと消え、隣の人の顔もわからないくらいの暗闇が再現された。こんなスリル、読書じゃ得られないよね。ちなみに、映画はどうだった、って? 劇場で見た人ならわかるけど、いくら真っ暗闇の場面でもスクリーンだけはぼーっと光っているんだね。何も映っていないだけの話。映画は結局、光の産物。だから、このお芝居は完全な暗闇がつくれる小屋で見ることだ。

 ところで、原作者のノットさん、ヒッチコックの「ダイアルMを回せ」とこれ、そして”Write me a Murder”と3つの名作を残しながら、晩年は没落して二束三文で台本の上演権を売ってしまったとか聞いたことがある。ちょっとかわいそうな話だ。

第3位スルース(探偵)(アンソニー・シェーファー)

 妻を寝取られた探偵作家と寝取ったイタリア男の葛藤劇。随所に、ミステリーについての含蓄を織り込みながら、苦い苦い現実を描いたサタイアだ。

 ローレンス・オリヴィエとマイケル・ケイン主演の映画は、もはや”神話”の領域だろう。あの映画に出てくる迷路とかおもちゃの数々、ミステリーオタクを喜ばせたものだ。ときに、あのセットに飾られていたMWA賞のポー像はドロシー・ソールスベリー・ディヴィスから借りてきたのだろうという説を都筑道夫さんが立てていたけれど、本当だろうか。誰か検証して欲しいものだ。

 ということで、これも劇団四季がお得意にしている。初演は渋い水島弘の探偵作家、イタリア男に北大路欣也だった。僕がまだ学生だった頃だったけれど、これは映画に比べても遊び心が少なくて、おやっと思ったものだ。

 この戯曲にはミステリーに対する様々な皮肉や中傷がたくさんあるけれども、最後は「探偵小説は高貴なる魂の高貴なるリクリエーションである」(探偵作家が引用する英国で有名なミステリーについての警句とか。政治家フィリップ・グェダラの言)という作者アンソニー・シェーファーの気持ちがちゃんと通じるから、それが素晴らしいじゃない。 マイケル・ケインとジュード・ロウのリメイクについて。僕は好きなんだけど、これについてはまた別のところで議論しようじゃないか。

(つづく)