書評七福神とは翻訳ミステリが好きでたまらない書評家七人のことなんである。

 書評七福神の二人、翻訳ミステリーばかり読んでいる翻訳マン1号こと川出正樹と翻訳マン2号・杉江松恋がその月に読んだ中から三冊ずつをお薦めする動画配信「翻訳メ~ン」はご覧いただけているでしょうか。こちらは9月号なのでとりあげているのは8月分ですが、間もなく新しい号が更新されます。併せてお楽しみくださいませ。

 というわけで今月も書評七福神始まります。

(ルール)

  1. この一ヶ月で読んだ中でいちばんおもしろかった/胸に迫った/爆笑した/虚をつかれた/この作者の作品をもっと読みたいと思った作品を事前相談なしに各自が挙げる。
  2. 挙げた作品の重複は気にしない。
  3. 挙げる作品は必ずしもその月のものとは限らず、同年度の刊行であれば、何月に出た作品を挙げても構わない。
  4. 要するに、本の選択に関しては各人のプライドだけで決定すること。
  5. 掲載は原稿の到着順。

 

 

酒井貞道

『メインテーマは殺人』アンソニー・ホロヴィッツ/山田蘭訳

創元推理文庫

 この作品の目覚ましいフェアプレイっぷりは数か月以内に語り尽くされるだろうから詳しく述べない。

 たいへん気に入ったのは、探偵役とワトソン役の関係性である。信頼関係があるとはいえない、腐れ縁ともまだ化していない。探偵役がワトソン役の上位者然とは振る舞わないが、だからと言って仲間でも友人でもなく、むしろ敵対する。「ワトソン役が探偵役の欠点をカバーする」あるいはその逆でもない。正直なところ、お互いオルタナティブ(他人と交換可能)な間柄ですらあると感じた。だが何某かの心理的交流はある。若者の空気は二人とも引きずっておらず、中年になって知り合った者同士の空気感が、非常に絶妙に描かれていると思うのだ。そして、何がどうなっても、ストーリーが淀みなく流れていくのもいい。ホーソーンとホロヴィッツの関係性は事件捜査を邪魔しない。事件捜査は二人の中年男性の描写を邪魔しない。もちろんプロットの線は複数あるのだが、物語の雰囲気は骨太に一本でまとめられている。最後までそれは変わらず、感服いたしました。

 

霜月蒼

『堕落刑事 マンチェスター市警 エイダン・ウェイツ』ジョセフ・ノックス/池田真紀子訳

新潮文庫

 暗い語り口が魅力的な暗黒小説の登場である。とある事件で「表には出しにくい」立場となった主人公が、麻薬密売の大物のもとに身を寄せている大臣の娘を見守るよう命じられ、芯まで腐りきった刑事を装って潜入捜査を命じられることからはじまる。つまり主人公は見かけほど腐敗しているのではなく、ボロボロに荒んだ姿ではあっても、正しくあろうという意志を捨ててはいない。その意志のせいで、彼は街の地獄を眼にすることになり、さらにはその地獄の底の底まで潜らせて、無数の死にまぎれたたったひとつの無辜の死の真実を探らせるのである。

 ジョイ・ディヴィジョンのポスト・パンクの暗く厭世的な音にのせて紡がれるダークな語りは、ときおりデイヴィッド・ピースからの影響を匂わせるが、僕にはむしろ馳星周の『不夜城』や『ブルー・ローズ』を思い出させた。最後のページで古典的なハードボイルドの流儀を踏襲して記される「関係者のその後」の悲痛さと、それを語る文体のそっけなさが、こちらの胸に傷をつけかねない最後の一撃となる。ニルヴァーナの1stか3rd、あるいはビリー・アイリッシュを聴きながら読んでもいいかもしれない。純然たるノワール小説でいえば、ここ数年のベストのひとつであることは間違いないだろう。次作の刊行を切に望む。

 

川出正樹

『戦下の淡き光』マイケル・オンダーチェ/田栗美奈子訳

作品社

 前作『名もなき人たちのテーブル』から早七年、待ち焦がれたオンダーチェの新作『戦下の淡き光』に読み耽ってしまった。「一九四五年、うちの両親は、犯罪者かもしれない男ふたりの手に僕らをゆだねて姿を消した」という一文で幕を開ける本書は、戦後間もない混沌たるロンドンで、いやおうなく大人の世界に組み込まれた十四歳の少年ナサニエルが、家族の外に広がる現実に触れ、愛を知り、成長していく物語だ。

 と同時に、唐突に断ち切られてしまった瑞々しくも猥雑な青春期の謎に満ちた体験をあらためて目撃するために、過去へと遡航する青年の物語だ。二十八歳になったナサニエルは、「赤の他人でにぎわっていたあのテーブルが忘れられなかった。彼らは、姿を消した実の親よりも、レイチェルと僕を変えたのだった」と回想する。そして第二次世界大戦の最中に始まり、戦後も終わることのなかった母と彼女を取り巻く人々が果たした決して明かされることのない役割に光を当てていく。

 事実と空想が渾然一体となり、寓話にも通じる複数の視点からありえたと思われる人生を解き明かしていくオンダーチェの文章のなんと美しいことか。

 ストイックな戦争文学であり、きらきらと輝く青春小説であり、秘密と謀計のベールを剥がしていく探索の物語でもあるこの本を、ぜひとも二度読んで欲しい。そして第一部でいかに周到に伏線が張られていたか、第二部でそれらを回収し徐々に謎が解きほぐされていく手際の見事さを味わってみて欲しい。

 

 

千街晶之

『わが母なるロージー』ピエール・ルメートル/橘明美訳

文春文庫

『悲しみのイレーヌ』『その女アレックス』『傷だらけのカミーユ』の三部作で完結したカミーユ・ヴェルーヴェン警部シリーズが、本書でただ一度きりの復活を遂げた。パリの街中で第一次世界大戦当時の砲弾が爆発し、警察に出頭してきた青年は、残り六つの砲弾を一日に一つずつ爆発させると告げる。青年とヴェルーヴェン警部の駆け引きの結末は? 分量的にはかなり短めの長篇といったところで、タイトルにあるロージーというキャラクターをもっと掘り下げてほしかったという不満もないではないが、容疑者の真意をめぐる謎解き、意表を衝くひねりが仕掛けられたタイムリミット・サスペンスの構図、鮮烈なラスト……と、幾重にも趣向を凝らしたミステリになっている。短いながらも単なる骨格だけの小説にはなっておらず、これまでのシリーズ作品とはやや異なる語り口により余裕を感じさせるのも評価すべき部分だ。

 

北上次郎

『マンハッタンの狙撃手』ロバート・ポビ/山中朝晶訳

ハヤカワ文庫NV

 どうせ「二流のアクション小説」だろうと思って(失礼!)手に取った。二流でもいいから、とにかくアクション小説を読みたくなるときが、私にはある。

 ところがどっこい、すぐに襟を正した。

 ニューヨークのど真ん中で、男の頭部が吹っ飛ぶ冒頭シーンを読むと、あとは一気読みなのである。10年前の事故で片足、片手、片目を失った主人公(その事故の詳細はまだ語られない)を始め、人物造形がいいので、どんどん物語の中に引きずり込まれていく。まだここでは明かされていないことも少なくないので、ぜひ続刊を期待したい。今月の拾いものだ。

 

吉野仁

『11月に去りし者』ルー・バーニー/加賀山卓朗訳

ハーパーBOOKS

 文句なしに今年最高のクライム・ノヴェルである。ケネディ大統領暗殺事件が起きたとき、ニューオリンズで犯罪組織の若手幹部だったギドリーは、身の危険を感じて西へと逃走する。同じころ、オクラホマの田舎町に暮らすシャーロットは、二人の子供を連れ、カリフォルニアへと向かった。やがて二人の人生は交差し、思わぬ運命をたどっていく。てなあらすじだけ見ると、単なる逃亡ロード・ノヴェルだが、登場人物の描き方が達者なせいか、それぞれの運命をたどらずにおえない物語で、しかもまったく予断を許さない展開にしびれる。もっと読みたい、この作家。そのほか、アンソニー・ホロヴィッツ『メインテーマは殺人』も元刑事ホーソーンが活躍するシリーズの今後がたのしみだ。しっかりした謎ときもさることながら、小説や映画などに関するマニアックな会話の部分、すなわちメインテーマから脱線したところなども、よし。

 

杉江松恋

『11月に去りし者』ルー・バーニー/加賀山卓朗訳

ハーパーBOOKS

 うわっ、どうすっかなあ、とひさしぶりに頭を抱えている。いや、『メインテーマは殺人』は、間違いなく1年を代表する謎解き小説であって、その緊密な仕上がりには感嘆してしまう。私は章ごとにチェック表を作りながら読んだのだけど、手がかり呈示の仕方が抜群にいいのだ。特に中盤の某章の処理などは惚れ惚れしてしまった。こういうの、きっと実作者ならみんな書きたいだろうな、と思うのである。情報がまんべんなく散りばめられていて、無駄な章がないところもいい。まったく方向性は異なるが、『堕落刑事』もいい。こちらは刑事による潜入捜査を描いた小説なのだが、主人公が情に絡め取られてどんどん深間に嵌まっていくところがいい。『草枕』じゃないけど、「智に働けば角が立つ。情に掉させば流される」というやつだ。そうなのである。勘違いされているようだけど、単に荒っぽいことをしたり、人を無情に殺したりすれば暗黒小説になるのではない。大事なのは理と情の相克だ。情のゆえに理に反した行いをしたり、理に徹して情を犠牲にしたり、その究極の二択をつきつけられる場面があるからこそ胸に迫るものがあるんじゃないか。本来ならこの二作のどちらかで決まりなのだが、一つ問題がある。九月刊の小説だけど、私はこの二作とも八月のうちに読んでしまっていたのだ。原稿書きの都合上、フライングしていたわけで、他に選ぶものがないならともかく、綺羅、星の如く佳作が出た九月はなんとなく申し訳ない。涙を呑んで見送ることにする。

 他にももちろん候補がある。なんといってもオンダーチェだ。オンダーチェ『戦下の淡き光』。これは戦時下のロンドンを舞台にした教養小説で、終わらない夏休みのような祝祭の時間が書かれる第一部で早くも心を掴まれる。おっと、また『ビューティフルドリーマー』か。十代の主人公がアルバイト先の少女と深い仲になって、二人で空き家にもぐりこんで一夜を過ごす。その空き家の番地がアグネス・ストリートだから彼女がアグネスと名乗り始める、というくだりなんてもう、たまらないものがある。そういう青春小説かと思いきや、第二部でミステリー的な要素が浮上してきて、その展開と語り口でさらに打ちのめされる、という奥行が深いにも程があるという小説だ。大好き。仕事で忙しいのに『ビリー・ザ・キッド全仕事』を読み返したくなったじゃないかオンダーチェ。

 これでもう決まりでいいのだが、さらにもう一冊候補が。『11月に去りし者』だ。作者はなんとルー・バーニー。あの『ガットショット・ストレート』のルー・バーニーだ。前作が出てからあまりにも長い年月が経ち、もう二度と日本語で読めないものと覚悟をしていただけに嬉しさも一入。おお、遅かりしルー・バーニー。待ちかねたぞルー・バーニー。しかも読んでみたら話運びの巧さにがつんと心を持っていかれる。何もかも思い通りにならない登場人物たちが、気まぐれな運命の車輪によって、右往左往させられる。誰がどこで命を落とすかわからない油断大敵の物語だ。『堕落刑事』が暗黒小説のお手本なら、こっちはオフビート犯罪小説の見本と言ってもいいだろう。これを読まずにどうする、というものである。オンダーチェは本当に大好きで未練が残るのだが、『堕落刑事』がスタンドになってルー・バーニーに力を貸したと思っていただきたい。今月の一推しは『11月に去りし者』にします。これを選ぶだけで三日寿命が縮むくらい悩んだ気がする。

 

先月「恐るべき八月」と書きましたが、それに輪をかけて選ぶのがたいへんだった九月でした。しかもまだ終わりじゃなくて、十月もきっととんでもないことになりそう。おののきつつ次月へ。(杉)

書評七福神の今月の一冊・バックナンバー一覧