半老人の繰り言、でもグチではありません

 若い人たちが海外旅行や留学に関心を持たなくなっているという。インターネットを使えば、情報も商品も写真も動画も即座に手に入るのだから、わざわざ時間と金をかけて出かけるまでもないということだろうか。異郷の通りですれ違った人々の仕草や街の匂いが、ずいぶん後になって記憶の底からふと立ち上がり、豊かな気分になった体験を持つ身としては、とても残念な気がする。

 海外旅行がいまほど簡単ではなかった我々の時代には(というと、歳がばれますが)、翻訳ミステリーを読んでその代用にしていた。ストーリーとはほとんど関係のない情景描写や登場人物の台詞が新鮮で、ページの端を折ってよく覚えたものだった。バーのカウンターに座って、「まだギムレットを注文するには早過ぎる時間だろうか」などと頭を悩ませていたころが、はるか遠い時代に思える。

 どうも日本という国全体の目が「内向き」になっているようで少し心配だ。この傾向は政治家や2チャンネル投稿者の一部が唱えるいびつなナショナリズムばかりではなく、むしろ小説、エンターテインメント系の音楽・映画などのジャンルで顕著に現われている。過去の舶来品偏重の反動なのか、量や売上げで国産品が海外作品をはるかに凌駕している。国産ミステリーに圧倒された翻訳ミステリーの不振もその典型的な例といえるかもしれない。経済の繁栄を基盤にして、日本の文化があるレベルまで「成熟」したからであろうし、日本人が自信を持つのは決して悪いことではない。だがそこに、もう外国から学ぶことはほとんどないという驕りのようなものを感じるのは、翻訳出版に携わる者の僻目だろうか。

 ブックフェアなどに行って、海外の出版社やエージェントから作品を紹介される。この小説はこれだけの国で出版が決まっているとリストを見せられる。20も30も国の名前が並んでいて、中国もあれば韓国もある。タイやブラジルもある。ところが、日本だけがない——そういう経験をいやというほどした。いや、8、9割がそうだった。日本の出版社は採算がとれないと判断して版権を買うのを手控えるわけで、経済原則からいえば当然かもしれないが、それはとりもなおさず日本の読者から優れた作品を読む機会を奪っていることにもなる。

 確かに、国産ミステリーの中には海外の作品に引けを取らないものも少なくない。全体のレベルも上がっているのは間違いない。逆に、これまでこのジャンルをリードしてきたアメリカのミステリー界が、ハリウッド映画同様、パワーが落ちている感じもする。それでも、最近目立って紹介されるようになった北欧やスペイン、南米、南アフリカなどの、新しい可能性を感じさせるミステリーも出現している。そういったものを手に取ってさえくれれば、ミステリーを読む愉しみを堪能しつつ、国産ミステリにはない驚きや味わいを感じてもらえるはずだ。

 翻訳ミステリー冬の時代はまだ当分続くであろうし、いまだ春の訪れる気配はない。となれば、編集者としてはこれまで以上に作品の質を吟味し、営業部に怒られても決して挫けず、優れた作品を紹介しつづけていくしかない。もともと、覚えにくいカタカナ名前はじめ翻訳小説には数々のハンデがあるのだから、ベストセラーを狙おうなどと高望みをせず、面白いミステリーを求めている読者を喜ばせる仕事をしていきたい、と宮沢賢治のような心境になっている今日このごろであります。