(承前)

 以上のように構成だけでも十分やばいのに、ミレニアム三部作はキャラクター造形でもやらかしてしまっている。

 三部作に統一感は希薄だが、実は一つだけ、全体を結合し得る要素がある。それが主人公リスベット・サランデルである。彼女は三部作全体のストーリーとテーマに深く関与し、作品の中心そのものと化している。読者の方もこれを敏感に感じ取っているし、本書を賞賛する書評家も多くの場合サランデルに魅入られているようだ。

 しかし、この人物の設定はあまりにも嘘臭い。以下、彼女の特徴を並べよう。

  1. スーパーハッカーである
  2. にもかかわらず、荒事も得意な行動派(というか不死身)である
  3. ツンが非常に強いツンデレ
  4. 女性迫害に抗う誇り高き人物
  5. にもかかわらず、日本で言う制限行為能力者(旧・禁治産者)である
  6. その出自で、冷戦期のノルディック・バランスの歪みを一身で体現する

 こうして並べてみるとわかりやすいが、あまりにやり過ぎであり、設定が明らかにチートである。どれか1個だけ、せめて2個だったら私も特に気にはならなかっただろう。しかしこれら全部だもんなあ。正直なところを申し上げれば、サランデルに対しては感情移入どころかアホらしさしか感じない。本来重いはずの作品テーマに比して、作者の得手勝手な都合が透けて見えるようで、ドン引きしてしまった。

 極端に言えば、スティーグ・ラーソンはサランデルに、「印象深いけれど、ちょっと影のある善玉キャラクター」が持つ典型的な要素を複数持たせている。この点で、彼女もまたストーリーと同様にパッチワークの産物といえよう。そしてその裏にあるのは、「この程度に設定しておけば、ストーリーを楽に動かせ、読者に感情移入させ、しかも社会の暗部に切り込んだことになるだろう」という安直な創作姿勢なのではないか。

 そしてより深刻な問題となるのは、先述のとおり、三部作のさまざまな構成要素を結合するモノが、サランデルしかないということだ。彼女に魅力を感じるどうかで、作品全体の評価がガラリと変わってしまう、これはつまり、サランデルに魅力を感じない「だけ」で、作品が楽しめなくなることを意味する。

 もう一方の主人公ミカエル・ブルムクヴィストの方にも問題は多い。彼とその雑誌《ミレニアム》は社会正義を標榜している。しかし彼らのジャーナリズムや自分たちの立場に対する楽天的な信頼は、二十一世紀の小説にしてはあまりにも能天気である。これは、わかりやすい悪徳企業や政府権力を敵にしたことで、「何が正義なのか」という葛藤をスキップしてしまったことが大きい。善玉は善玉、悪は悪とはっきりしっかり分かれた素晴らしい世界においては、相手を一方的に糾弾すれば足りるのだから、作者としても登場人物としても、こんなに楽なことはあるまい。しかし小説としての底が浅くなるのは避けられない。三部作全体ではかなり長い話なのだから、他にいくらでもやりようはあったはずなのだが。

 なお、ここで「お前はエンターテインメントに何を求めているのだ」と言われても困る。ご大層にも社会正義を作品の中心に据えたのは、他ならぬ作者自身である。その扱いが軽薄であったなら、批判に晒されて当然だろう。

 おまけにサランデルの強烈なケレン味に押されて、ミカエルの存在感は特に第二作以降、希薄化してしまう。チート主人公に作品全体が寄りかかる構図は、第二作以降さらに強まってしまうのだ。

 キャラクターについては、非常に興味深い書評がハヤカワミステリマガジンの2009年9月号(第643号)に掲載された。川出正樹氏と吉野仁氏によるクロスレビューである。あそこではお二人とも、リスベット(またはブルムクヴィスト)の言動や魅力から、作品の本質を看破するという手法を選択された。しかし登場人物に全く感情移入できない私には、お二人の言うことは何一つ響かない。はっきり言えば、どちらもオーバーリードにしか見えないのである。これが意味することはただ一つ。川出氏と吉野氏といった書評の名手であっても、「キャラクターに魅力を感じるか否か」という、読者の個人差が極めて大きくゆえに書評時の扱いも慎重を要する事項に依拠してしまうほど、ミレニアム三部作はキャラクターに多くを頼った作品なのである。ハイリスク・ハイリターンな小説手法なので一概に悪いとばかりは言えないことは認めるが、小説としてバランスが悪いことだけは指摘しておきたい。

 本当に素晴らしい作品とは、たとえキャラクターに共感できなくても、なお楽しめる作品を言う。ミレニアム三部作は、キャラクターに共感できなくなった途端に、全ての粗が露呈してしまう。そんな作品を賞賛することは、私には絶対にできない。

(つづく)