スティーグ・ラーソンのミレニアム三部作は、多くのプロの書評家が絶賛し、web上で見かけるアマチュアのレビューも大半が肯定的だ。

このブログでも状況は同じである。北上次郎氏いわく、今年の翻訳ミステリは、スティーグ・ラーソンのミレニアム三部作で決まりらしい。「2009年、私のベスト10暫定版」で登場した評論家9名中、実に6名がこの三部作の名前を挙げたのだ(しかも小山正氏も、実質的にはミレニアム三部作を年間ベストと断じている)。

『ミステリが読みたい! 2010年版』では総合1位、『文春ミステリ・ベスト』でも見事1位を獲得。この分では『このミステリーがすごい! 2010年版』で高順位に付けるのもほぼ確実である。翻訳ミステリー大賞の一次投票でも、確実に名前が挙がるだろう。

 しかし本当にそこまで素晴らしい作品だろうか? 個人的には重大な疑問が二点ある。一つは構成上の問題、もう一つはキャラクター造形である。

 まず構成の点から。ミレニアム三部作のストーリーは、パッチワークの産物である。

 三長篇とも、読んでいる最中は確かに面白い。次から次に新エピソードや急展開、新要素が繰り出されるからである。しかし場面場面がバラバラに自己主張するだけで、各長篇を一貫する有機的結合は全く感じられない。作品全体がうまく一つの像を結んでおらず、実に薄っぺらいのだ。途中のどのエピソードでも良いので複数をばっさりカット、それこそ百ページ単位で削ったとしても、多分全く問題はないし、読後感もそう変わるまい。これをどう考えるかだが、素直に解釈すれば「無駄が多過ぎる」ということになるはずである。

 個々のエピソードはそれなりに楽しめるので、ミレニアムがゴミだと言うつもりはない。しかしそれらのまとめ方に難があるのだ。杉江松恋氏は「(各)要素を他の作品と比較してみたら、一歩譲るところだってあるだろう。だが、そうした形で欠点をあげつらって批判しても本書の場合はあまり意味をなさない。複合体として優れた小説だからだ」と説くが、私は全く逆の見解である。各要素は合格点だが、複合体としては完全にアウト。面白そうなエピソード、緊迫感が強そうなシチュエーション、カッコ良さそうな情景を思い付き、それらを取捨選択せず適当に全部ぶち込んだだけとしか思えない。さすがに並べる順番は多少考えたようだが、それはミステリにおいては当然のことであり、特に加点すべき理由にはなるまい。小説とは、要素が多彩であれば良いというものではない。各要素自体が良ければそれで面白くなるものでもない。それらをどうつなげ、いかにまとめるかが重要である。ミレニアム三部作はこれに失敗している。古山裕樹氏は「多彩なアイデアが豊富に詰め込まれた」と説くが、私に言わせれば「豊富」ではなく単に「雑多」なだけだ。

(つづく)