(承前)

 また、酒井氏はジャーナリズムの扱いに関し、

「彼らのジャーナリズムや自分たちの立場に対する楽天的な信頼は、二十一世紀の小説にしてはあまりにも能天気である。これは、わかりやすい悪徳企業や政府権力を敵にしたことで、「何が正義なのか」という葛藤をスキップしてしまったことが大きい。」

 と述べているが、この中で私は「能天気」という部分に違和感を覚えた。本当にそうだろうか? 一貫して反体制を貫き良質の誌面を目指す彼らは、意に反して経済的な危機に直面して翻弄される。これは二十一世紀になって頻発しているメディア危機を象徴するようなヴィヴィッドなエピソードだと思う。そして、仮面をかぶって横行する「経済やくざ」の犯罪告発に失敗し、経済的な困窮のみならず法の鉄槌を受けながらも、それでもなおH・D・ソローの「市民の反抗」さながらに反旗の狼煙をあげる『ミレニアム』編集部の姿勢——これぞジャーナリストの鏡であり、拍手を送りたいほどあっぱれな態度だ。彼らは「何が正義か」というような葛藤はとっくに乗り越え、より複雑な寂寥感とジャーナリストとしての「業」を抱えているのだ。私は、酒井氏が「わかりやすい悪徳企業や政府権力を敵にしたことで、『何が正義なのか』という葛藤をスキップしてしまったことが大きい。」と言うほど単純には、この小説を読んでいない。

 第二部『火と戯れる女』は『ドラゴン・タトゥー』に比べるとミカエルが後退し、リスベットが前面に出ている。リスベットよりもミカエルのファンだった私としては残念だったが、逆にリスベットの個性が強化され、ヒーローの域にまで昇華されていたので、これはこれでスゴい展開だなあと感心した。酒井氏は、彼女のキャラクター性に頼りすぎていると異を唱え、設定要素が6つなのも多すぎるとして、「チート」「アホらしい」とこれまた酷評している。だが私は、人間という存在はそもそも複雑な生き物であるというのが持論なので、リスベットの一筋縄ではいかない複雑な個性には、共感するか否かは別として、充分に魅力を感じた。これを「アホらしい」と言ってしまうと、例えばイアン・フレミングの007の世界だって否定してしまうではないかしら? というのも、この第二部はイアン・フレミングのパロディーさながらに痛快であり、キャラクター小説としても、アクション・ノベルとしても充分おもしろい。本格ミステリテイストから一転して、冒険アクション風味——なんと懐の深い「ラーソン・ミステリ・ワールド」なのだろう!だが、期待に反し第三部『眠れる女と狂卓の騎士』は前半がもたついている。しかし後半は一気にドライブがかかり、物語が凄まじい勢いで展開してゆく。前作ではスーパー・ヒーローだったリスベットが今度はその逆の存在になるという展開も意表をついたものだった。

このように私は、『ミレニアム』はここ数年を代表するミステリの話題作であり、知的興奮の書だったと思う。しかもスウェーデン近現代史の光と翳を描く巨大な全体小説の傑作であった。海外で2100万部以上売れているというのも納得できるし、わが国でも各種ベスト10で上位に食い込んだのは当然といえよう。もっとも読者数が多いから良い、というのではない。けれども『ミレニアム』に関して言えば、良・質ともに奇跡的に優れた逸品だったと思う。

それにしても——と思う。せっかく議論をするならば、もう少し楽しくやりたいなあ。異議申し立ては大事なことだし、論壇風発は今の翻訳ミステリ業界には必要なことだとおもうけれども、ウィットとエスプリを忘れずに、粋に話し合いたいものである。ちなみにこの原稿の巻頭の長いタイトルは、この文章を書いていてふとよぎった心境です。やれやれ。

 最後に蛇の足を。せっかく『ミレニアム』の話題なのでその関連である。北欧ブームが続いているけれども、『ミレニアム』のスティーグ・ラーソンに次ぐ北欧のメガヒット犯罪小説作家が、アイスランドの小説家アーノールダー・インドリダーソンである。彼の〈レイキャビック・ミステリー〉シリーズはもっか欧米でジワジワと人気を高めており、要チェックだ。CWA賞も受賞したし、いずれわが国でもしょうかいされると思われるが、また「本当に傑作?」なんて批判されてしまうかな?

 小山正 

酒井貞道氏「ミレニアム三部作は本当に傑作か?」

http://wordpress.local/1260199078