『スリーパーにシグナルを送れ』

ロバート・リテル/北村太郎訳

新潮文庫

 世界は陰謀に満ちている。

 日々報じられるニュースは、表向きのに過ぎない。

 その裏側には、さまざまな権謀術策が渦巻いている。

 わずかに表に出ている事実をつなぎ合わせれば、裏側の意外な真実を暴くことができるはずだ。

 巨大な力が、この世界の運命をひそかにコントロールしているのだ。

……と一度くらい疑ってみたことのある人は少なくないだろう。そして中には、過剰なまでに疑い続ける人もいる。

 かくして、世界有数の力を持つアメリカ政府をめぐる言説には、陰謀論がつきものだ。

 「9.11はアメリカ政府の自作自演」だとか、「アポロは実は月に行っていない、あれはスタジオで収録された映像」なんて話を耳にしたことはないだろうか。ケネディ大統領暗殺からUFO都市伝説にいたるまで、アメリカ政府は陰謀話の玉手箱である。

 そんなアメリカならではの陰謀を、お茶目なスパイ小説として描いてみせた作品として名高いのが、ロバート・リテルの『スリーパーにシグナルを送れ』だ。

 時は二〇世紀。まだソヴィエト連邦が健在で、アメリカと冷たい戦争を繰り広げていたころ。

 ソ連はアメリカに何人ものスリーパー(相手国の市民として暮らし、本国からの合図で動き出すスパイ)を送りこんだ。だが、彼らは相次いでアメリカ側に摘発されてしまった。かくして、KGBのスリーパー養成所教官だった通称“陶工”はその地位を追われることになる。自身の立場の危うさをよく理解していた彼は、西側への亡命を企て、やがて実行に移す。

 だが、そんな陶工の動きも、実はCIAが仕掛けた陰謀の一部品に過ぎなかった……。

 前半の柱は、左遷された陶工の逃亡劇。ただし、その合間にはCIAの“シスターズ”と呼ばれる二人組が何かよからぬことを企んでいる場面が挿入される。二人が何を企んでいるのかほとんど分からない五里霧中のまま、事態はどんどん動いていく。物語の進展とともに徐々に霧が晴れて、やがて計画の全貌が見えてくる。

 ……ん? これってもしかして、アレの話?

 ……自分がこれまで読んでいたのが、まさかそんな物語だったとは!

 そんなふうに、陰謀ものならではの「世界の隠された真実」が浮かび上がる驚きは格別だ。

 もちろん、ただ読者をびっくりさせておしまい、というだけの作品ではない。

 複雑な陰謀劇を描いていながら、本書の筆致は決して重厚ではない。きわめて軽妙、ないしは変。その軽妙さを支えているのが、珍妙なキャラクターの存在である。

 例えば、陰謀を企むCIAの二人組。堂々と嘘をついて嘘発見器をもあざむくフランシスと、感情がすぐ表に出るキャロルの凸凹コンビだ。その曲者ぶりは、冒頭のわずか数ページで存分に発揮されている。

 東側の面々はさらに強烈だ。陶工の年の離れた若妻スヴェトチカは頭と貞操がいささかゆるく、陶工の愛弟子・スリーパーは自分のセックスの様子を電話でひとに聞かせるのが好きという変態さんだ。日本人に陶芸を学んだという陶工自身は、目立った奇癖がないという点で、実は本書では異色のキャラクターである。

  脇役にも変な人が揃っている。後半で活躍する、「Aで始まる難しい単語」を集めている女性。あるいは、声帯模写が得意な殺し屋なんてのも登場する。声帯模写男のレパートリーはきわめて特殊だ。「夕日が沈む音」なんて、どんな音か想像できるだろうか? 「人が死ぬときの音」に似ているらしいのだが……。

 重大な陰謀を軽妙に描いてみせたこの物語は、いわば奇異なキャラクターたちを駒にして繰り広げられる、陰謀という名のチェスゲーム。

 そんな本書にも、残念なところがないわけではない。巻末の解説だ。

 実は本書の解説、“シスターズ”の陰謀の正体を、何の断りもなしに暴露してしまっているのだ。リテルの書き方では、アメリカ人はともかく、日本の読者には何のことだかよくわからないのでは……という配慮によるものかもしれないが、本文を読む前に見てしまうのは避けたいところ。古本を手に入れて読む方は、くれぐれもご注意を。(もしも復刊されることがあれば、ここには何らかの工夫をしていただければ幸いです)

 ちなみに、ロバート・リテルの作品は、2009年にも『CIA ザ・カンパニー』が訳されている。1950年代から90年代に至るまでのCIAを描いた、陰謀大河小説としての風格を備えた分厚い上下巻だ。登場人物の変態度は控えめだが、パラノイアぶりでは『スリーパー〜』の上を行く。『スリーパー〜』ともども、機会があればぜひ手にとっていただきたい。

 古山裕樹