最初に。

この原稿を書いている段階で、本書の装丁がどんなものかはわかっていないが、きっとろくでもない装画が表紙を飾っているのではないかと思う。なにしろ、このコンビの前作『けだもの』ではゴヤの「わが子を喰らうサトゥルヌス」が装画に使われていたくらいである。今回もきっと鬼畜な装丁になっているのであろう。しかし、表紙を見て尻込みしてしまったそこのあなた。この本は、別にそんなオソロシイ本ではないから、安心してレジへ直行しなさい。オソロシクなければどんな話なのか、ということは後述。

 本書は、ジョン・スキップ&クレイグ・スペクターのコンビ作家が一九八六年に発表したThe Light at the Endの全訳である。『けだもの』の解説で触れられていた「ニューヨークの地下鉄で吸血鬼が殺戮を繰り広げる」作品というのがこれだ。ノヴェライゼーション作品を除けば、このコンビの実質的な処女作である。

 スキップ&スペクターが煽動した《スプラッタパンク》というムーヴメントについては、両人の手によるアンソロジー『死霊たちの宴』(創元推理文庫)の尾之上浩司解説が最高にわかりやすいテキストだろう。その本質を一言で言えば、《スプラッタパンク・ホラー》とは《おたくホラー》である。血まみれで臓物がばんばんまろび出たりとか、ポップ・カルチャーへの自己言及的な語りが多かったりとか、暴力描写にまるで自慰行為に耽るかのような陶酔感があったりとか(この点は『けだもの』古山裕樹による解説が示唆的)、目立つ要素はいろいろあるのだが、要は「ホラーおたくが自分の観たいものを観たいように作ったホラー」ということに尽きる。本書の中で、Z級ホラーの鑑賞会に紛れ込んだ吸血鬼が、散々に映画をこき下ろしつつ鑑賞中のおたく二人組を惨殺するシークエンスがあるが、あれが最も象徴的な場面だろう。自分の創り出した化け物に自分が殺されてみたいという倒錯こそ、マゾヒスティックなおたく愛に他ならない。おっと、だからといってこの小説がおたくだけのために閉じられたキモチワルイ本だということでもないから、これまたご安心を。

 正直に言えば、本書の価値は「ニューヨークの地下鉄で吸血鬼が殺戮を繰り広げる」という部分にはない。これは読み始めてすぐに気付いたことである。これは嬉しい誤算であった。しかし場数を踏んだミステリ読みなら、かならずや私と同じ誤解をすることだろう。地下鉄とは一度走り出したら停車するまで脱出不可能な密室である。その密閉空間に封じ込められた人々が正体不明の化け物から襲撃を受ける話を、被害者たちの視点から描いていったらこれはおもしろいはずである。本書の冒頭にも紹介されているが、六八年に日本公開されたアメリカの映画に『ある戦慄』(ラリー・ピアース監督)というのがあり、これは地下鉄に乗り込んできたならず者のために乗客が恐怖を味わうという一幕一場の舞台劇を思わせるサスペンスだった(マイクル・アヴァロンのノヴェライゼーションが早川書房から刊行されている)。その吸血鬼版を想定したわけだ。しかしそんなジリジリとした小説でもなかったのである。

(つづく)