デビューした当時は会心の訳文ばかり書いていた。おれほど翻訳のうまいやつはいないんじゃないかと思っていた。そう、な〜んもわかっていなかったんである。

 自分程度の翻訳者なんて世の中にごろごろしていることを知るのに、さして時間はかからなかった。その状況は今でも変わらない。ちょっぴり残念ながら。

 それでも、翻訳ひとすじ三十年である。自分でうまくいったと思ったり、人に誉められたりした訳のひとつふたつはないわけではない。思いつくまま挙げてみる。会心の“一文”でなくなってちょっとズルいけど。

1 なんとね。(Jesus.)

2 最高にくだらないことが起こった。(And the goddamndest thing happened.)

3 おまえはもう終わってるんだよ。 (You’re crossing over.)

 ちょっとびっくりした。もっとたくさん思いつくかと思ったら、三十分ぐらい考えても上の三つしか出てこない。これこそ“ごろごろ翻訳者”の証左と言うべきか。しかし、まあ、しかたがない。一応説明すると——

 1はローレンス・ブロックのマット・スカダー・シリーズで、主人公の探偵スカダーがよく口にする台詞である。タブロイド紙を読んで、何かおぞましい事件や事故が起きていたのを知って、そのことに対する感想として、ひとことぽつりと言うのだ、“ Jesus.”と。

 で、それを上のように訳したところ、編集者や読者やまわりの何人かから、「あの訳、いいですねえ、原文はどうなってるんですか?」なんて言われて、へえ、とあとから自分で自分に感心しちゃった訳である。

 正直、そんな人目を惹く訳とは思っていなかったのだが、誉められると、なんかうまい訳に思えてくる。今見ても、自分で、いいなあ、うまいなあと思える。こういういい性格をしていること。これは翻訳者としてとても大切な資質である。

 2もマット・スカダーもので、このサイトで「イチ押し本」に挙げた『八百万の死にざま』の最後の一行だ。

 ある意味、ネタばれということになるのかもしれないけど、それでも書いちゃうと、アルコール依存症の探偵スカダーが断酒会でずっと言えなかった「私はアル中です」のひとことがやっと言えるちょっと感動的な場面で、そのひとことを言ったあと、And the goddamnedest happened. I started to cry.となるのだが、この最上級をなんか訳したくて、「最高に」とやったわけだ。この訳については誰も誉めてくれなかったけれど、自分では今でもけっこう気に入っている。「最高に」と「くだらない」の組み合わせがなんかおしゃれだなあ、と。こうして自画自賛できる性格のよさもまた翻訳者としてとても大切な資質である。

 3はボストン・テランの『神は銃弾』で、何度か悪玉が言う台詞だが、これは実は今もはっきりとしたところはわかっていない。

 ただ、「おまえは一線を越えてしまった」ということで、前後の文脈から、意味は「おまえはもう死んだも同然」という意にまちがいはないので、それをどんなふうに訳そうかと(ちょっと決め台詞っぽいんで)頭をひねって浮かんだのがこれだ。まあ、「越える」と「死」からすぐに連想されるのは、「三途の川」だけど、「おまえはもう三途の川を越えている」じゃあねえ。なんだかねえ。

 ということで、上のようにしたわけだが、そう、その昔、流行語にもなった「おまえはもう死んでいる」のパクリだ。アニメ「北斗の拳」の主人公、ケンシロウの台詞。こうしてパクっておいて、それでも、この訳いいなあと思える天真爛漫な性格もまた翻訳者として……もういいか。

 以上が「会心の三文」だが、翻訳ひとすじ三十年と言いながら、実はこのところ、いい訳とは何かということに関して、ちょっと迷いが出てきている。私は翻訳学校でこれまたけっこう長いこと講師をしているのだが、今教えている生徒の中に、明らかに私より英語がよく読めている生徒がひとりいる。

 といって、その生徒の翻訳がめちゃくちゃうまいわけではない。もちろん、英語がよく読めること=翻訳がうまいこと、ということにはならない。そんなことはわかっている。それでも、だ。その生徒を見ていると、私より英文がよく読めているぶん、私より高次元で翻訳をしようとするものだがら、私のように——自分で言っちゃうけど——うまく訳せないのではないか。

 私の場合、そもそもさして英語ができなかったものだから、英語そのものを学ぶ過程と翻訳の作業が(また自分で言っちゃうけど)うまく共振し合って、なんとかここまでやってこられたのではないか——なんてことをふと考えてしまうのだ。

 読み書きともに英語にも日本語にも精通して、二国語を同等に使いこなすことができ、読み書きとも達意の人がいれば、その人はきっと翻訳もうまいはず、みたいな思い込みは誰にでもあるだろう。私にもある。しかし、実際のところ、どうなのだろう? 二国語を同等にこなせると、かえって翻訳はやりにくくなるということはないだろうか。かえって言語間のずれのようなものが見えにくくなりはしまいか。そのずれに敏感であることこそ、それこそ翻訳者として大切な資質なのに……

 古い時代の翻訳で、誤訳とわかりながらも、やっぱこの訳いいよなあ、みたいなことはけっこうある。村上春樹の新訳「ロンググッドバイ」が出たときにも、清水俊二の旧訳を推す声は少なくなかった。翻訳家、宮脇孝雄氏の名言にあるように、「原文どおり日本語に」が翻訳の基本であり、理想である。しかし、今言ったようなところにも翻訳という作業の謎、あるいは謎めいたものがあるのではないか。

 一方、ただ私は自分の力のなさの自己弁護を試みているだけのような気もしないでもない。これでは英語はそんなにできないほうが翻訳者に向いているという結論にもなりかねない。それはどう考えてもおかしい。ううむ……

 すみません。この話、このコラムの趣旨と離れている上に、私、きちんと言いたいことがまとまっていなかった。またいつか別のところで試してみます。中途半端ですみません。

 とまれ、次回は島村浩子さんです。島村さん、よろしく。

 田口俊樹