『われらが英雄スクラッフィ』

ポール・ギャリコ/山田蘭訳

創元推理文庫/2002年11月29日刊行

 翻訳の仕事をするようになっていちばん驚いたのは、ポール・ギャリコの作品を「やってみませんか?」と声をかけていただいたときだろう。あの、子どものころから大好きだったギャリコの本を! 私が!

 当然ながらどの作品も訳者冥利につきる名作ではあったけれど、今回イチ押し本としてご紹介する『われらが英雄スクラッフィ』を読んだときにも驚いた。こんなに完成度が高くて、最初から最後までどのページにも微笑、苦笑、爆笑、さまざまな笑いを誘うしかけが満載、しかも日本で広く愛されているギャリコの動物ものなのに、どうしてこの本の存在がこんなにも知られていないのだろう? どうして日本で紹介されることもないまま、いままで見のがされてしまっていたのだろうか?

 そして、実際に『スクラッフィ』が出版されてみて、私は三度めの、今度はいささか苦い驚きを噛みしめることになる。どうやら、サルは(そして実はカンガルーも……)世間では猫ほど愛されておらず、その差は残酷なほど歴然と売り上げに現れるものなのだ。いや、私もかつて猫を飼っていた身であり、その気持ちもよくわかりはするのだけれど。

 『われらが英雄スクラッフィ』の舞台は、第二次世界大戦中の英領ジブラルタル。岩山に棲みつくサルが姿を消したとき、英国人もまたこの地を去るという言い伝えをめぐり、サルを駆逐することで戦意高揚の宣伝材料としたいドイツ軍と、それをどうにかして防ぎたい英国軍の攻防が始まる……

 サル担当士官に任ぜられたときから、この生きものの魅力のとりことなってしまい、明けても暮れてもサルの待遇改善のことばかり考えている、英国陸軍砲兵隊の青年士官ベイリー大尉。サルの世話に半生を捧げ、自分もいささかサルに似てきた砲兵ラブジョイ。昔ながらの質実剛健な軍人であるガスケル准将。チャーミングな笑顔と回転の速い頭を持つ、海軍提督令嬢フェリシティ。英国諜報部随一の切れ者であるクライド少佐。英国海軍工兵廠で働きながらも、ひそかにナチスに忠誠を誓うラミレス氏。

 ギャリコならではの魅力たっぷりで個性的な登場人物がさまざまな人間模様をくりひろげるなか、岩山に君臨する最強最悪のサル、スクラッフィはみごとなまでに終始一貫して変わらない。平和なときも、戦時下でも、英国軍のお荷物あつかいのときも、英国を救う英雄あつかいのときも、つねに不機嫌で凶暴、観光客の荷物を谷底へ放り投げたり、屋根瓦を引き抜いて街灯の電球に投げつけたり、誰かさんの大切なかつらを引ったくって逃げたりと、狼藉のかぎりをつくすのだ。国家や愛国心、戦意高揚といった人間の勝手な都合など、当然ながら一顧だにしない。

 そんなサルにふりまわされて右往左往する人間の愚かしさをみごとに描き出すいっぽう、手を焼かされ、途方にくれながらも徹底した悪漢ぶりを愛さずにはいられない、人間の心のそんな一面も、ベイリー大尉やラブジョイの心理描写を通じて丁寧につづられている。「誰のことも、どんな事情も気にかけずにやりたいことだけをやり、そのしっぺ返しを受けることさえない自由な生きもの」に抗しがたい魅力を感じてしまうのは、日々の生活で無意識のうちに忍びよるかすかな息苦しさ、閉塞感のようなものを暴き出し、ぱっと小気味よく解き放ってくれるからだろう。私自身、スクラッフィ大暴れのページを訳すときはみょうに気分が高揚し、キーボードを打つテンポも知らず知らずいつもの二割増しになっていたものだ。

 そんなわけで、ギャリコは好きだけれどサルはどうにも可愛くないし……と二の足を踏んでいたかたがいたら、“可愛げのなさ”というひとひねりした魅力をぜひ味わっていただきたい(よろしければカンガルーも……こちらはかなり可愛いけれど)。この爽快感、ハマります。

 山田蘭