国書刊行会編集部のIといいます。昨年の5月に中途で入社し、今月でようやく9ヶ月目のぱりぱりの新人です。社内では丁稚扱いされています。基本的に返事は「Sir,Yes Sir!」です。たまに「全然聞こえないもっと大声で!」といわれ、泣きながら「Sir,Yes Sir!!」と叫んでいます。どこの会社もそうだとは思いますが、新人は大変です。

 さて、この度、リレーコラムのお話をいただき、拙文でよければとお引き受けしたのですが、ふと思うに、なにを書いたらよいのだろうと。翻訳編集者の日常をということなのですが、そこは新人の悲しさ。日々の業務をこなすのに精一杯で、他の皆様が書かれているような、長年の経験に基づく面白い話や、ためになる話が全然ありません。なので、新人らしく入社に至る経緯を書かせていただきお茶を濁そうかと思います。

 あれは忘れもしない2009年の2月。

 評論家&アンソロジストの東雅夫氏のブログを読んでいると、国書刊行会で編集職の新規募集をしているという文章が目に留まりました。

「志村坂上でI編集長と握手だ!」という文言に、「ならば握手しにいってみよう」と応募。

 履歴書と企画書を送り、待つこと数週間。無事書類が通り面接に。面接場所は志村坂上にある本社。面接官はI編集長でした。

「応募動機」「入社したらどんな仕事をしたいか」「好きな作家は?」と型通りに面接がすすみます。

「宇月原晴明を好きだといっていましたけど、アルトーは読んでますか?」

「はい」と肯く私。

 周知のように宇月原晴明のデビュー作『信長—あるいは戴冠せるアンドロギュヌス』は、アントナン・アルトーの『ヘリオガバルスまたは戴冠せるアナーキスト』へのオマージュ作品。

「『ヘリオガバルスまたは戴冠せるアナーキスト』ですよね。面白かったです」とここまでは良かったのですが、次の一言に「うっ」と詰まることに。

「あ。そう。訳者は?」

「や、訳者ですか?」

 非常にお恥ずかしい話ですが、一読者として翻訳小説を読むとき、ほとんど訳者を意識することなく読んでいたので、いざ問われると頭が真っ白に。

おずおずと「多田智満子……さんですよね……」といったところ、なんとかあたっていたようです。やれよかったと胸をなでおろす暇もなく、

「じゃあ、ヴァージニア・ウルフを好きだといっていましたけど、『ダロウェイ夫人』は誰の訳で読みましたか?」

 そんなの覚えてないよ! といえるわけもなく。「角川文庫版で読んだのですが……すみません、訳者は覚えていません」

「あ、そう、じゃあ……」とさらに続く、翻訳小説とその訳者についての波状質問。答えられずもがもがしている私に、I編集長が一言。

「翻訳小説を読んでいて、訳者を意識していないようじゃ駄目ですよ」

 ごもっともです。

 このやりとりで、完全に落ちたと思いました。それでも面接は続きます。

「企画書に短歌の企画を書かれていますけど、好きな歌人は?」

「はあ、岡井隆さんですとか、永田紅さん、永田和宏さん、佐藤弓生さんや石川美南さんあたりが」

「塚本邦雄は?」「好きです」「じゃあ好きな歌を一首いって下さい」

 そんなこといきなりいわれても! 心の準備が! 必死に思いだそうとするも、焦れば焦るほど言葉がでてきません。

「いえないんですか?」と冷たい目のI編集長に、思わず「えええと、く、葛原妙子なら!」と口走っていました。

「じゃあ、いって下さい」

 好きな歌が、不思議にすらすらとでてきました。

「『他界より眺めてあらばしづかなる的となるべきゆふぐれの水』、あとは『少年は少年とねむるうす青き水仙の葉のごとくならびて』も好きです」

 入社後に「なぜ採用していただけたのですか」と尋ねたところ、にやっと笑ったI編集長がこういいました。

「葛原妙子の歌をいえたから」

 どこまで本気かわからない言葉ですが、なにが幸いするかわからないものです。

 というわけで、全然編集者生活に関係ない話でしたが、最後に今年発刊予定のものからオススメ翻訳作品の宣伝を。

 エリック・マコーマック『ミステリウム(The Mysterium)』

 デビュー作『パラダイス・モーテル』(東京創元社)以来「語り=騙り」にこだわる著者の第二長篇。

 ある町が不思議な疫病に冒される。正体不明の疫病を報じようとマスコミが殺到するが、取材はただひとりにしか許されないという。その幸運(?)なレポーターに選ばれたジェームス・マックスウエルは、ひとり疫病の町に乗り込む。しかし、住民ほほぼ死滅していた。数少ない生存者に取材するが、人々が口にする話に謎は深まるばかり。町でいったい何が起こったのか。やがて、事件の鍵を握る人物を突き止めるマックスウエル。彼に取材を許したのは、その人物だった……。

 さながらカフカの悪夢とボルヘスの物語の迷宮を思わせる幻想譚、と評される傑作長篇です。「語り=騙り」の叙述の妙を堪能するこの小説。発刊は今年の9月を予定しております。なにとぞよろしくお願いいたします。

国書刊行会編集部 I