ソ連邦崩壊によって米ソを中心とする東西の冷戦構造がなくなったことから、ひところ「スパイ・スリラーの危機」が盛んに言われていた。そのせいかどうかはわからないが、フレデリック・フォーサイスは『イコン』を最後に筆を折ってしまった。

 だが、この分野の第一人者であるジョン・ル・カレは、『ナイト・マネージャー』において兵器ディラーや麻薬業者を敵としたり、『われらのゲーム』で少数民族の闘いなどを題材にとったりするなど、あいかわらず力のこもった傑作を発表し続けている。また、ブライアン・フリーマントルによる窓際族スパイ、チャーリー・マフィンの活躍を描いた傑作シリーズも健在だ。そのほか、新たな世界構造の枠組みを舞台とした謀略物や過去の事件を題材にした歴史物などは、いまだ書き継がれている。決してスパイ小説が廃れてしまったわけではない。

 それでも、東西陣営にわかれてスパイたちが諜報戦を繰りひろげる、きわめて単純で明快な図式がなくなったために、このジャンルに関連する特有の面白さもまたいくつか消滅してしまったのは確かなことだろう。「鉄のカーテン」がおろされたソビエト連邦という強大な国家の不透明さはもちろん、ひとつの情報が場合によっては世界中を戦争に巻きこむ可能性があるなど、謎をふくらませ、物語を力強く押しすすめていく要素が失われてしまったのである。

 ともあれ、現代スパイ・スリラーの代表作家、マイケル・バー=ゾウハーによる本書『影の兄弟』(原題 Brothers )の時代背景は、まさに米ソが対立していた冷戦時代と重なりあう。スターリン時代末期からソ連崩壊前夜まで、ほぼ半世紀にわたる国際重大事件が物語に盛り込まれているのだ。そういう意味では、『パンドラ抹殺文書』『ファントム謀略ルート』『復讐のダブル・クロス』など、これまで作者が世におくりだしてきた傑作群にも増して、きわめてスケールの大きな作品に仕上がっている。いわば冷戦時代を総括した小説なのである。

 物語は、第二次大戦後のモスクワからはじまる。スターリンによるユダヤ民族主義の弾圧が激化していた一九五三年、反ファシズム作家委員会メンバーの女流詩人トーニャが逮捕された。彼女はユダヤ人だったのだ。トーニャにはふたりの子供がいた。ひとりは最愛の夫ヴィクトル・ヴォルフとの間に生まれたアレクサンドル。そしてもうひとりはやむなく再婚したKGB将校ボリス・モロゾフとの子供、ジミトリー。やがてトーニャは無残にも処刑され、ボリスもまた粛清の犠牲になり連れさられていく。だが、その前にボリスは、アレクサンドルをアメリカのブルックリンに住むトーニャの姉のもとに、ジミトリーをレニングラードの孤児院へと送っていた。

 こうしてふたりの兄弟は、かたやアメリカ、かたやロシアと、それぞれの人生を生きることになった。アメリカに住むアレクサンドルは、伯母ニーナの愛情に育まれ、生まれ故郷ロシアへの思いを抱きながら大人になっていった。一方のジミトリーは、ロシアの孤児院でひとり生き地獄のごとく過酷な環境を生きのび、ユダヤ人への憎悪を胸に成長していった……。

 血をわけた兄弟が、やがて思わぬ運命からそれぞれの国の情報機関員として対決するのである。こうした設定は、とりたててめずらしいものではなく、たとえば昨年話題になった国際謀略スリラーの傑作グレン・ミード『雪の狼』(二見文庫)などにも似たような形を見ることができる。だが本書では、ふたりの愛憎模様がさらに複雑に織り重ねられながら、じつに衝撃的な結末へと向かっていくのである。このあたり、作者のストーリーテリングの巧みさに驚かされるばかりだ。

(つづく)