だいぶ昔、大橋巨泉が司会を務める『クイズダービー』(最盛期の1979年から81年にかけて平均視聴率30パーセント!)という番組があったのを、憶えておられる方も多いだろう。いまでも忘れられない一問がある。南極観測隊の越冬隊員に新婚の妻が打った電報は、たった一言だった。新妻の思いがこもるその一言とは? 長山藍子が正解した答は「あなた」。彼女があの声で「あなた」と答えると、男性ならずともシビレた(古ッ!)。

 万感胸に迫るこの一言が、わたしの心にずっと残っていた。翻訳者になって、ここいっぱつの台詞を訳すとき、そういう言葉を紡げたら、といつも思う。つぎの一文は、そんなここいっぱつの台詞だ。ダイアナ・ガバルドンが生み出したロマンティック・ヒストリカル・アドベンチャー巨編「アウトランダー・シリーズ」の第二弾『ジェイミーの墓標?』に出てくる。第二次大戦直後のスコットランドで、ストーンサークルのあいだを抜けたら200年前にタイムスリップしてしまったイングランド人のヒロイン、クレア(人妻)と、彼女がそこで出会った若きスコットランドの勇者ジェイミーの?時?すらも越える愛の物語だ。

 1746年、ジャコバイトによる二度目の反乱の末期、スコットランド軍がイングランド軍に大敗を喫する?カローデンの戦い?前夜。死を覚悟して戦場に赴くジェイミーは、クレアに自分の時代に戻れ、と言う。お腹に子を宿していることを知っているから。クレアは、男装してあなたと一緒に戦い、一緒に死ぬ、と言い張る。そのときの台詞だ。

 “Jamie——I won’t ……I can’t……I bloody won’t live without you, and that’s all!”

 「ジェイミー——わたし、いやだから……できないから……ぜったいにできないから。あなたなしに生きてゆくなんて、ぜったいにできない!」

 この「いやだから」がいいよなー、といまでも思う。ひとり悦に入る、とはまさにこういうことだ。長編をシコシコ訳すのは根気と忍耐と体力と、それにもちろん原書に寄せる愛情と、それから、ときどき自分を持ち上げて褒めてやるずうずうしさ、臆面のなさも必要だ。でないとやってられません。

 ジェイミーが返す言葉も泣かせるので紹介しておく。

 “It’s me that has the easy part now. For if ye feel for me as I do for you ——then I am asking you to tear out your heart and live without it”

 「楽な役割を引き受けるのはおれのほうだ。おれがきみを思うほどに、おれのことを思ってくれるなら——おれはきみに頼む。心を切り取って、それなしで生きてくれ、と」

 著者のガバルドンは、動物号で学士号、海洋生物学で修士号、行動生態学で博士号を取得、大学教授として長らく教鞭をとっていたという経歴をもつだけあって、文章は非常に明晰だ。訳す作業は数式を解くようで(数学は苦手だったので、この比喩はおかしいかも)ある種の快感がある。頭からするすると訳すとそのまま日本語になるのだ。英語の文章を一度分解して日本語に再構築する手間が省ける。その好例が『ジェイミーの墓標?』のエピローグの一節。

  I woke three times in the dark predawn. First in sorrow, then in joy, and at the last, in solitude. The tears of a bone-deep loss woke me slowly, bathing my face like the comforting touch of a damp cloth in soothing hands. I turned my face to the wet pillow and sailed a salty river into the caverns of grief remembered, into the subterranean depths of sleep.

  暁のかわたれ時に三度、わたしは目を覚ました。最初は悲しくて、それからうれしくて、最後には孤独が骨身に沁みて。身を切られるような喪失の涙が、わたしをゆっくりと目覚めさせ、湿った布のような心地よさでわたしの顔を慰撫して流れた。濡れた枕に顔を埋め、涙の川に船を漕ぎ出し、甦る悲嘆の洞窟へ、眠りの深みへと進んでいった。

「アウトランダー・シリーズ」はアメリカで第七弾まで出版され(まだまだつづく、と著者は言っている)、翻訳書のほうは第六弾『炎の山稜を越えて』が文庫本4冊となり、つい最近、ヴィレッジブックスから出た。長いのもだが、調べ物が大変で(なんせ敵は元大学教授、博識)、訳了したときには、「やっぱ、いつも肉食ってる奴はすごい、体力がちがう、勝てるわけない」と、?いきいき大豆と魚生活?のわたしは息も絶えだえ、終戦直後の日本のおっさんみたいな感想をもった。

 さて、このエッセイのつぎの書き手は、ミステリ翻訳の王道をゆく日暮雅通さんです。名探偵ホームズのどんなところから?会心の訳文?を引っ張り出してこられるのか、楽しみ。

 加藤洋子