う〜む。これは推理作家協会のリレーコラムで加藤さんを指名したリベンジだろうか(笑)……一番書きたくないコラムに連れて来られちゃったなぁ……。

 ホームズもので「会心の訳文」? それは畏れ多いというか、うるさい人が多いからねぇ……。ついでながら、ひとつだけ言っておきたいのは、僕ら翻訳家は小説(エンタメ)として訳しているのであって、逐語単位の研究対象テキストとして訳しているのではないということ。いや、別に誰に向かって言ってるわけでもないけれど(ふふ)。

 ところで、ここはミステリのサイトなんでしたね。SFやノンフィクションは範疇外かぁ。ミステリしばりで会心の訳。う〜む、困った。

 はたして人様に自慢できるような訳をしたことがあったっけ? と思い悩みながら和英辞典を引いたら、「会心の作=a work after one’s own heart」とある。「one’s own heart = 望み通りの、めがねにかなう」……なるほど。「会心の出来ばえ=satisfying workmanship」……なーんだ、自己満足でいいのか。

 いや、それにしても、あらためて披露できるような訳があったっけか……?

 そこで、今回初めてこのリレーコラムを見てみたんだけれど(ごめんなさい)、みんなうまいねぇ。現代日本には名訳者がうようよいるんだな、と思ってしまう。いや、皮肉じゃなくて、マジで。その一方、みんな似たような苦労を似たようなところでしてるんだ(してきたんだ)と思うと、急に親近感が湧いてきたりもする。しかも翻訳家である以上、密かに自信をもってるくらいじゃなくちゃいけないんだろうな。僕の場合は自信のあるなしじゃなくて、過去の翻訳を覚えてない……次の作品に取りかかると前のことを忘れてしまうというのが、問題だけれど。

 さらにもうひとつの問題は、そのとき(訳したとき)は「会心の出来」に思えても、あとになってみると大したことないじゃない、というケースが多いことだ。若いころはそれこそ必死に、「どうやったら深町眞理子に近づけるんだろう」(敬称略)、「どうやったら矢野浩三郎になれるんだろう」(敬称略)と思って訳文をこねくり回していたけれど、それでどんなに工夫したところで、読者から「これは見事な言い回しですね」なんて言われることはなかった。そりゃそうだ。読者はいちいち原文と照らし合わせて読まないし(一部のケースを除く)、編集者にしたって、よっぽど目立つ部分以外は「うまく訳せて当たり前」的な反応が多いんだから。

 かくして一訳者たる小生は、仙人の境地に至った……なんてわけはない。今でもギラギラしている。翻訳学校の生徒と一緒になって(刺激されながら)、訳しにくい文や難解な文について議論し、「見事な」「エレガントな」「味のある」「色気のある」訳文づくりを目指しているのは確かだ。

 ただ、現在の僕の場合、そうした「会心の訳」もさることながら、「私の萌え訳」とでも言うべきものも、重要な位置を占めている。

 どういうことかというと、先に魅力的な(「萌え」を感じる)訳文、つまり日本語をつかまえておいて、それを使える原文(および原作中のシチュエーション)に出会うチャンスをじっと待つということだ。そういう「逆パターン」で思い出すのが、35年ほど前に翻訳学校に通っていたころ、高橋泰邦さんから、川端康成の『雪国』英訳版をテキストとして教わった授業。まあ、それほど高尚な文章でなくてもいいから、“as though (as if)”を「〜するかのように」でなく「〜のような気がした」と訳せるシチュエーションの原文とか、“the story is still told in India how he ….. ”を「彼が〜したのは、今もインドの語り草だ」なんて訳してみるとか、その程度のことである(後者はホームズもの正典の一部。ふふ)。

 最近萌えていた……使ってみたいと思っていた文章は、「ちげえねえ」。ちょっとワルな男、あるいは下町口調の人物が相手の話に同意して「そうだな、そうに違いない」と言うパターンである(自分から言うのでなく)。

 しょぼい単語と思われるかもしれないが、だいぶ以前にアニメ『紅の豚』を再見していたとき、森山周一郎演じるポルコ・ロッソの口調に萌えて、使えるシチュエーションを探していた。といっても、頭の片隅にあった程度のものが、『荒野のホームズ』を訳していたとき、鮮明に蘇ってきたのだ。

 ご存じの方には余計な説明になるが、『荒野のホームズ』は19世紀末アメリカ西部のカウボーイ(もんも……じゃなくて読み書きできない男)である通称オールド・レッドがホームズに心酔して、その手法を使い、弟(通称ビッグ・レッド)を助手にして名探偵ぶりを発揮するという、異色ホームズ・パスティーシュ。カウボーイならではの俗語や卑語が満載で、おまけに英国貴族の英語やそのメイドの庶民英語、スウェーデン人コックの片言英語、イギリス生まれのカウボーイの下町英語などが入り乱れるうえ、主役の二人が“Holmesfying”(ホームズになる、ホームズする)、“Sherlocking”“Sherlockery”(シャーロックする)、“Holmesing”(ホームズ式推理、ホームズすること)、“get Holmesed out”(ホームズしてのける”なんていう造語を当たり前のようにしてしまうので、まっことやりがいのある作品であった。

 そんな中で、ロンドン育ちらしいカウボーイ、クレイジーマウス・ニック・デュリーの“Too right”という言葉に出会ったとき、ポルコ・ロッソが蘇った。クレイジーマウスの英語は“h”の抜け落ちたコクニー(ロンドンなまり)なので、べらんめい口調をアレンジして使おうとしていたからだ。

“There won’t be no rein on the McPhersons now,” said Swivel-Eye Smyth.

(略)

“Too right,” said Crazymouth Nick Dury. “Things’ll go arse-about-face with those nutters up our Khyber Passes. I’ve ‘alf a mind to scarper — and I would if I ‘ad the goolies.”

「これでマクファースン兄弟には歯止めがきかなくなった」とスウィヴェル・アイ・スマイス。

(略)

「ちげえねえ」とクレイジーマウス・ニック・デュリー。「あのカイバル峠野郎のいかれぽんちが相手じゃ、めちゃくちゃのこんこんちきよ。おれぁ、ずらかろうかって思ってんだぜ——タマがついてりゃみんなそうするってなもんだ」

「カイバル峠」は「ケツの穴(arse)」の押韻俗語(コクニーで使われる)。’alf a mind to scarper = half a mind to scarper(大急ぎで逃げようと思う)、if I ‘ad the goolies = if I had the goolies(睾丸がついていたら)。これは会心度6、萌え度7くらい。

 さらに、その先の章でも応用問題が見つかった。

“I’d like to see his saddle,” Swivel-Eye added. “I bet it’s purple velvet stuffed with swan feathers.”

“Too bloody right,” Crazymouth threw in, …..

「やつの鞍を見てみたいもんだぜ」スウィヴェル・アイが付け足した。「きっと白鳥の羽根を詰めた紫のベルベットだろう」

「くそちげえねえ」クレイジーマウスが加わった。

 これは会心度7,萌え度8くらいかな。

 ところで、コクニーや黒人なまり、アメリカ南部なまり、非英語圏なまりなど、翻訳者が工夫を強いられる会話はけっこうあるが、前述のようにこの作品はそれが多かった。著者のホッケンスミスがまた、こういうネタが好きというか、この手の設定で書くと生き生きしてしまうところがあるようだ。過去の訳者たちの例を見ると、コクニーを東京の下町言葉、黒人や米南部のなまりを東北弁などに置き換えるケースがけっこうある。ただ、特定の地方言葉に百パーセント置き換えてしまうと、イメージが強すぎてしまう。適当に混ぜるのがミソではないだろうか。ホームズ・パスティーシュは正典そのものに比べコクニーの使われることが多いので、これまでずいぶんとやってきた。工夫が楽しくもありしんどくもある作業のひとつだ。

 萌え度はちょっと置いといて、別の登場人物、スウェーデン人老コックであるスウィードと、イギリスから来た公爵(牧場オーナー)のメイド、エミリーのせりふを振り返ってみよう。

 コクニーが発音すると、「スペイン」が「スパイン」になり、「ハンプシャー」は「アンプシャー」、逆に「エヴァー」は「ヘヴァー」となる。映画『マイ・フェア・レディ』を観た方なら、“The rain in Spain stays mainly in the plain.”をイライザが発音すると「ザ・ライン・イン・スパイン・スタイズ・マインリー・イン・ザ・プライン」となるのを覚えているだろう。ドイツ人なら、「グッド」が「グート」になり、「イット・ワズ〜」が「イット・ヴァス」となる。

 スウィードの発音はこのドイツ語まなりに近いようだった。たとえば、「グッド・ナイト」が「グート・ニート」、「イエス」が「イヤス」、「ボーイズ」が「ボーイス」になっていた。そこで、この法則性を拾っていき、「食い物」→「くんもん」、「こっち来い」→「こーちこ」、「おやすみ」→「おやしみ」、「あんたたち」→「あんたたし」、「わたし」→「わたす」、「ミスター」→「ミスティーア」などといった日本語変換をしたのが、次の例だ。

“You set, Swede?” Spider asked.

“Yas, Mr. Spiter. I em ready now to be going.”

「準備はいいか、スウィード?」スパイダーが声をかけた。

「イヤス、ミスティーア・スパイター。行く準備できてるよ」

“Oh, boyce!” the old fellow moaned, looking miserable. “Peer-kens dead, Boo-de-row dead. Aront here iss getting planty bed, hey?”(Oh, boys! ….. Perkins dead, Boudreaux dead. Around here is getting plenty bad, eh?)

「やあ、あんたたし!」年老いた彼は情けなさそうに声をあげた。「ピーア・ケンス死んだよ。ブー・デ・ロウも死んだ。このあだりん、ずいぶんぶっぞうになっでる」

 前述のように、こういう変換というか創作の作業は、けっこう楽しい。ただ、厳密な規則性を設定したわけではないので、三回ほど訳し直すことになってしまった。どうしても迷いが出てくるのだ。

 ちなみに、「彼(スウィード)の訛りは普段でも糖蜜みたいに粘っこいが、きょうのそれは、その糖蜜の瓶を寒い日に屋外に置き忘れたみたいにいっそう粘っている」と語り手も言っているくらいだ。

 一方、イギリス人メイドであるエミリーの場合は、感嘆詞に特徴がある。会話の文末にOoooooとかWhew!、Ho!という言葉が入るのだ。この三つだけなのだが、どれも同じではそれぞれの文の違いに対応できない。Ooooooには「まーあ」「まーあね」「そーおね」と変化をつけてみた。

“His name’s not ‘Mr. Balmoral.’ Oooooo, he’ll bark like an old bulldog if any of you call him that again!”

(略)

Emily hiccuped out a “Ho!”

(略)

“Oooooo, you must be a friend of the Duke’s then,” Emily said.

「あの方の名前は“ミスター・バルモラル”じゃないわよ、まーったく。もう一度そんなふうに呼んだら、ブルドッグみたいに吠えまくられるから!」

(略)

 エミリーはしゃっくりするような声を出した。「あは!」

(略)

「まーあ。あんたは公爵さまのお友だちだったのね」とエミリー。

 口の悪いメイドは個人的「萌え」なので(例:新谷かおるのコミックス『クリスティ・ハイテンション』)、これは萌え度9、会心度6。

 なんだか会心度の低いものばっかりになってしまったなぁ……。

 改心。