『パイは小さな秘密を運ぶ』

アラン・ブラッドリー/古賀弥生訳

創元推理文庫

 無類のスイーツ好きなので、スイーツ関連書物にはついつい目がいく。アラン・ブラッドリー『パイは小さな秘密を運ぶ』もお菓子系コージーかなと思って読みはじめたのだが、これはちとちがいました。問題のパイは家政婦のマレットさんが作る「膿みたいに見える」(オエッ)カスタードパイなんだけど、家族全員これが大嫌いで、「あのいやなカスタードパイをマレットさんが作ると、みんなたいてい病気のふりをして断り、彼女に持ち帰らせる」のだ。うーん、いったいどんな味なのか逆に気になる。そんな超まずくて見た目もやばいカスタードパイが、ひと切れ切りとられていた。たしかにこれは事件です。

 物語は、主人公のフレーヴィア・ド・ルース、十一歳が、シルクのスカーフで手足を縛られて猿ぐつわをかまされ、クロゼットのなかに閉じこめられているシーンからはじまる。監禁された少女。かなり不穏な感じだ。しかし、親指を駆使して難なくスカーフと猿ぐつわから逃れ、針金ハンガーでL字型フックを作って錠前をはずし、脱出成功。なすすべもなく助けを待つお嬢さんではないようだ。家のなかにはどんな悪党どもが……と思ったら、彼女の敵は十七歳の姉オフィーリア。もうひとりの姉、十三歳のダフネとぐるになって、フレーヴィアをクロゼットに閉じこめたのでした。なあんだ。しかしフレーヴィアは負けていない。姉の大切な真珠のネックレスを盗み出し、なんと酸で溶かしてしまう。どーだ、まいったか。そしたら今度は「あんたはうちの子じゃない、もらわれっ子だ」と言われちゃって、うわーんと泣いちゃうところはやっぱり十一歳。かわいいじゃないの。それでもめげないフレーヴィア。よし、今度は毒を使ってやる、というわけで、姉妹の仁義なき戦いはつづく。

 この毒というのは漆のことで、フレーヴィアは裏庭で採取した漆の葉っぱから精油を抽出し、盗んだ姉の口紅をとかしてこれを混ぜ、もとどおりに形成して漆入り口紅を作成する。これを最近色気づいてる姉が使えば……ふっふっふ。どうして真珠を酸で溶かしたり、漆を抽出したりできるのかというと、フレーヴィア嬢さんは十一歳にして自宅にマイ化学実験室をお持ちなのだ。

 説明しよう。フレーヴィア一家が住むイギリスの片田舎にあるバックショー荘は、建てられてから三世紀めになる(言い忘れてたけど、物語の舞台は1950年のイングランドです)ちょっと変わったジョージ王朝様式の家で、ド・ルース家の先祖のひとりに化学者がいたんですね。それで最上階に実験室があって、「ドイツ製の分光器だの、スイスのルツェルンからとり寄せた科学用の真鍮の天秤だのがぎっしりそろっている」わけ。幼いフレーヴィアは化学に魅せられた。お花畑やお人形さんには見向きもせず、夢中になって化学の本を読み、実験に明け暮れ、毒物のエキスパートとなった。もちろん「学研の科学」みたいなのからはじめたんだろうけど、悪臭や爆発にもめげず、有機化学の謎を解き、蒸留器とかを使って、いろんなものを自然から簡単に抽出できるようになったのだ。すごい。

 そんなフレーヴィアがこよなく愛するのは父だ。母はフレーヴィアが一歳のとき登山中の事故で死亡しており、切手収集に熱中するちょっとたよりない父と、個性的すぎるふたりの姉が家族のすべて。ある日キッチンのドアステップに、くちばしに切手が突き刺さったコシギの死体が置かれ、父は異様に動揺する。さらに深夜、父の書斎から人声がしたので鍵穴からのぞくと、赤毛の男が父と言い争っていた。不安な気分で目覚めた翌朝、フレーヴィアは庭のキュウリ畑で倒れている赤毛の男を発見する。男は「ワーレ!」とつぶやいてこと切れた。なんのこっちゃ。そして男からは妙なにおいが……毒殺されたのだ。この状況では父が疑われるのではと危惧したフレーヴィアは、独自の科学捜査(?)と足(自転車)を使ったききこみで、事件の真相を探ろうとする。男はだれなのか? カスタードパイがひと切れなくなっていたのはなぜなのか(あとで気づいたら、その日になくなってたのね)?

 化学の知識ももちろんだけど、フレーヴィアは子供であることを最大限に利用して情報を収集し、大人顔負けの活躍をする。その賢さ、勘の鋭さ、フットワークの軽さは、読んでいてたじたじとなるほど。そのうえ嘘をついて大人を煙に巻くのも朝飯まえ! 警察にだって臆することなく平気で嘘をついちゃうんだからかなりの大物だ。でもかわいい。生意気でこまっしゃくれているのに憎めない。大人をたっぷり楽しませてくれる、子供店長にも負けない、なんとも魅力的な少女探偵の誕生だ。

 本書はカナダ生まれの作家アラン・ブラッドリーのデビュー作で、英国推理作家協会(CWA)の2007年のデビュー・ダガーに選ばれ、ほかにも数々の賞を獲得している。1950年のイングランドが舞台なのに、ブラッドリーはCWAの受賞式に出席するまで英国に行ったことがなかったというのだからおもしろい。本書はシリーズ第一作で、邦訳二作目も東京創元社から刊行予定だそうなので、フレーヴィアの今後の活躍が今からすごく楽しみ。でもわが子がこんな子だったら、親は心配で夜も眠れないでしょうねぇ。

上條ひろみ