ブックカバーの話

 編集者の日常を綴るこのコラムへの登場は二度目になるので、何を書こうかつらつら考えていたのですが(会社でやってるtwitterの話とか、近ごろのおすすめスイーツの話とか)、職場で本にまつわる私的な体験談を披露したら、同僚ほぼ全員に気味悪がられてしまうという、非常にショッキングなできごとが最近ありましたので、そのことを書いて広く江湖のみなさまの感想を求めたいと思います。

 みなさんは本を読むとき、そのままむき出しで読みますか? それともブックカバーをかけますか?

 通勤電車でまわりを見ていると、むき出し派にも「そのまま読む」「ジャケットをはずして本体だけにする」「ジャケットを裏返してブックカバーがわりにする」人たちがいたりするいっぽうで、ブックカバー派が使用するのも「書店の紙カバー」「既製品のブックカバー」「自作ブックカバー(素材はさまざま)」と十人十様。この観察はなかなか楽しいので、うっかり読むものがなくなったときのひまつぶしにはもってこいです(そういえば最近担当した『蔵書まるごと消失事件』の中に、主人公イスラエル青年が、この「読むものがなくなること」への恐怖を語るくだりがあって、いたく共感したものです)。

 で、当の私はというと、「ブックカバーをかける」派の「書店の紙カバーを使うよ」グループに属しています。理由は単純明快で、ほかの人より手のひらに汗をかきやすい体質のため。ブックカバーをかけずに読んでいると、表紙が汗でしわになってしまうのです。そのとき読んでいた本が文字どおり「手に汗握る」面白さだったりした場合は、大げさではなく風呂場で読んでいたかのように波打ってしまうので、これはもう必須なのであります。

 もちろん書店の紙カバーですから、そんなに耐久性はありません。数冊読んだら新しい「読む用の紙カバー」の出番とあいなります。そして、また数冊読んだところでへたってきたらチェンジで、以下そのくり返し。

 ここで「“読む用”の紙カバー」という言葉に反応されたかたは鋭い。そう、ここからが本題、冒頭の気色悪がられた話につながります。じつは私、学生時分から本をしまう際には、読む用とは別の、「保存用の紙カバー」をかけるようにしていたのです。

 ところで、中学校から大学までは電車通学をしていたのですが、その通学ルート上には大きな書店がいくつもあるターミナル駅がありました。そのいずれをも利用していた私の手元には、必然的に複数の、色も図柄も異なる紙カバーが溜まっていきます。そうなると、きっとみなさんも同じことを考えますよね? 「ある作家にかけるのは、同じ書店の紙カバーで統一しよう」と。例えばクリスティならA書店のカバー、ディクスン・カーならB書店のカバー……といったふうに。

 さすがに作家の数だけ、違う種類の紙カバーを用意するわけにはいきませんので、10種類の中から好きな色のカバーを選べる某書店のカバーは一色につきひとりと決めたり(ちなみにエラリー・クイーンはここの赤色でした)、著者名順で隣接する作家には同じカバーを使わないようにするといった、自分ルールを設けてカバーをかけていました。一時期などは、「この書店のカバーがあと3枚、あの書店のカバーがあと2枚欲しいから、今月の新刊はこことあそこで買おう」と購入計画を立てていたものです。大学にはいると行動範囲が広がったので、新宿や神保町などにある書店のカバーも入手できるようになり、だいぶレパートリーが増えたのはよかったな。ちなみにリニューアルや期間限定フェアなどで、カバーデザインが変わったときは別ものとして数えてました。

 ここまで書いてきて、やっぱり気味悪がられるようなことじゃないよなあ、と思えてきました。ふつうだよ、ふつう。同じことやってる人、絶対いるはずです。

 そもそも、カバーかける作業自体が楽しいよね。本にまつわるもろもろの中でいちばんの楽しみはもちろん「読むこと」ですが、私の場合、「買うこと」よりも「本棚に並べること」や「カバーをかけること」のほうが楽しみとしては先にきます。時間が許せば、一日じゅうでもやっていたいくらいです。

 ……とはいえ、現在はさすがにこんなことはしていません。当たり前ですよ。仕事柄ネット書店を利用することも多くなり、紙カバーの供給が需要に追いつかなくなりましたし、だいいちカバーをかける作業時間そのものが取れません。

 だったら、そのふたつさえクリアできれば、またやるのかって?

 ええ。正直な話、もちろんやりますよ。