——心から思う、読む前の自分に戻りたい

全国20カ所以上で開催されている翻訳ミステリー読書会。その主だったメンバーのなかでも特にミステリーの知識が浅い2人が、杉江松恋著『読み出したら止まらない! 海外ミステリー マストリード100』をテキストに、イチからミステリーを学びます。

「ああ、フーダニットね。もちろん知ってるよ、ブッダの弟子でしょ。手塚治虫のマンガで読んだもん」(名古屋読書会・加藤篁

「後期クイーン問題? やっぱフレディの死は大きいよね。マジ泣いちゃったなー。We will rock youuuu !!!」(札幌読書会・畠山志津佳

今さら聞けないあんなこと、知ってたつもりのこんなこと。ミステリーの奥深さと魅力を探求する旅にいざ出発!

加藤:思い起こせば10年前。
 ラグビーワールドカップが日本で開催と聞いたときの驚きは忘れられません。本気なのかって思いましたよ。だって、そのときまで日本代表はワールドカップで1勝しかしていなかったのですから。ホスト国が予選敗退どころか全敗とかしたらどうしよう。それより何よりスタジアムのガラガラだったら世界のラグビーファンに申し訳ない……。
 日本代表のベスト8も嬉しかったけど、何よりこの盛り上がりに胸熱でした。皆さんありがとう。

 そして僕自身、今月は本当にラグビーに救われました。ワールドカップが無かったら乗り越えられなかったかも。だって、僕の読書人生でダントツの読後感の悪さ、読んだことを後悔した初めての本に出合ってしまったから。

 杉江松恋著『海外ミステリー マストリード100』を順に取り上げる「必読!ミステリー塾」、今回のお題はホラー作家・鬼畜系サスペンス作家ジャック・ケッチャムの代表作『隣の家の少女』。1989年の作品です。

 舞台は1950年代終わりのアメリカの小さな町。12歳の少年デイヴィッドの隣の家に住む女性ルースのもとへ、両親を亡くした14歳のメグと妹スーザンが引き取られてきた。デイヴィッドは美しく聡明なメグにすぐに心を奪われるが、やがて姉妹がルースによって虐待されていることを知る。助けることもできないまま、虐待は日に日に激しくなり、ついにメグは地下室に監禁され、ルースの息子たちや近所の子供たちも加わり、取り返しのつかない苛烈なものとなってゆく……。

 ああ、あらすじを書いているだけでも気持ちが沈む。
 著者のジャック・ケッチャムは1946年生まれのアメリカ人作家。昨年1月に71歳で亡くなりました。教師、俳優、材木のセールスマンなど、様々な職に就き、やがてヘンリー・ミラーと出会い出版エージェントになり、専業作家への道を志したのだそうです。

【参考記事】
■「初心者のためのジャック・ケッチャム(執筆者・金子浩)
■「ケッチャム鬼畜営業日記 (執筆者・扶桑社 販売促進部M)
■「扶桑社ミステリー通信2018年1月25日

 知り合いのウィッキー君の情報では、ペンネームのジャック・ケッチャムは「英国の絞首刑執行人に代々受け継がれている名前が由来」だそうで、この一事からも分かるように、とにかく人間の直視できないような残酷な側面をサラっと描くことにかけては超一流。どんなに惨い話でどんなに倫理的な疑問があっても「でも人間ってそういうもんでしょ?」と開き直っているようです。

 そのケッチャムの代表作が長編デビュー2作目の『隣の家の少女』。日本では40数刷、15万部を売った大ベストセラーです。そして、スティーヴン・キングの偏愛作品としても知られ、販促手段でも社交辞令でもないガチでホントの元祖「スティーヴン・キング絶賛」案件なのです(文庫の巻末にスティーヴン・キングによる「解説」という名の激賞文が収録)。

 そんな大ベストセラーを向こうに回してハッキリ言います。
 もう本当に読むのがつらかった。途中で何度も投げ出そうと思いました。
 そして最後まで読んだことをこれほど後悔した本もありませんでした。レトリックでも何でもありません。本当に後悔しているのです。少しどころかかなり読書が嫌いになりました。こんなに嫌な思いをするのならもう二度と本なんか読みたくないとさえ。
 何の因果でこの本を読んでしまったのか、なぜこの本にそんなに需要があるのか。怒りと人間不信で、その夜は寝られませんでした。本当に。

 

畠山:お、加藤さんは相当メンタルにダメージを負ったようですね。こればっかりは、ビビリだのチキンだのとは茶化せないなぁ。再読だった私も読むのに覚悟がいったもの。
 しかもちょうど本を読んでいたのが、ラグビーでスコットランドに勝った! 全勝だ! 強だ! と大盛り上がりの時。そんな時にケッチャム読みたい人なんている?誰かれかまわずハグしたくなるような高揚感を振り切って、少女が監禁されて拷問のような暴行を受け続ける話を読まねばならないなんて辛すぎる。

 思えば数年前、読書会メンバーとの飲み会でケッチャムはすげぇよ、鬼畜だよ教えられ、恐る恐る手を出したのが食人族(!)をテーマにした『オフシーズン』でした。いやいやいやいやすごかった。そのスプラッタぶりといったら、とても食前食後にはお話できないシロモノ。おっかなびっくり読み進めましたが、いともあっさりと人々が犠牲になっていく様子に、やがて恐怖を超えてほんの少しの清々しさすら感じてしまった。あまりのことに脳内麻薬がでたに違いない。

 その勢いにのって、続けて手に取ったのが本書『隣の家の少女』でした。『オフシーズン』とは違う「心のグロテスクさ」を感じましたが、正直に言うと「現実にもこれくらい、いやこれを超える酷いことってあるじゃん?」と少々冷めた感想を持ちました。
 でも今回再読してみて考えが少し変わりました。凶悪事件のルポルタージュを読む時、私たちはその行為の原因や被害者を救えたかもしれないポイントを探して、どうしたら悲劇を繰り返さずにすむかを考えます。忌まわしい出来事がひとつでもなくなることを願って。ところが『隣の家の少女』は、そんな私たちにあっさり言うのです。人間には理屈抜きの残虐性があり、ひとたび表に現れたら人間の心も体もなにもかも、すべてを喰らい尽くすようになっているんですよ、ほら、この少女の無残な姿を見てごらんなさい、これが人間の仕業ですよと。
 なんか……初読の時には感じなかった無力感でいっぱいです。

 聞くのも気の毒な気がしますが、加藤さんは具体的にどういうところが辛く感じたのかな?

 

加藤:僕がしばらく立ち直れないくらい落ち込んだ原因は、この話が主人公デイヴィッドの一人称視点で書かれているという構成にあるのかも知れません。
 夏の始まり、近くの川でデイヴィッドがメグと出会い、淡い恋心を抱くプロローグは、まるでキラキラした青春小説のよう。そして、隣の家の主であるルースは、デイヴィッドにとって親友の母親というだけでなく、こっそりビールや煙草を飲ませてくれる話の分かる大人、憧れが入り混じる綺麗な大人の女性なのですね。

 この美しいプロローグからの、あまりにも自然な鬼畜展開への流れは確かに凄いと認めないわけにはいきません。視点者のデイヴィッドは、できればメグを救いたいと思いながら、何もしないまま流されてゆく。どうしてもルースが嫌いになれないし、嫌われたくもない。子供は大人のやることに口を出すべきではないし、そもそもこんなに酷いことをされるメグにも何らかの非があるに違いないと思い込もうとする。
 僕は、そんなデイヴィッドのなかに自分の弱さを見ているようで居たたまれないのかも知れません。ページをめくるたびに心が削られる感触がありました。

 この話が面白いという人を否定してはいけないのは分かっています。理解はできないけど、好みは人それぞれだから。ただのノットフォーミーだと言われればそれまでです。
 でも、この本をあえて前情報を入れずに手に取って(<そういう意図しない出会いが読書の喜びでもあるし)、僕のように嫌な思いをした人も沢山いたはずです。だから、この本を正しい読者に届けるためにもあえて書きますが、14歳の少女が死ぬまでありとあらゆる方法で痛めつけられるだけの話です。「文学的に」別の読み方、感じ方があるのかも知れませんが(それが多くの読者を獲得している理由かも知れないけど)、覚悟を持って臨まないと、僕のようにメンタルやられる可能性があるし、よほどのホラー好き以外は手を出すべきではないと思います。

 読書は楽しいもの、人生を少し豊かにしてくれるもの、とはもう思えなくなりました。時間が経てばまた感想は変わるのかも知れないけど、今はとてもこれ以上語る気にはなれません。

 

畠山:加藤さん、気をしっかり! なんだろう、その「私を探さないで下さい」の置手紙みたいな消え方は。勇気をふるってぶち当たり、何度倒されても立ち上がるのがラグビーの神髄じゃないのか? ま、でもしばらくはそっとしておこうか。

 主犯格であるルースはどうやら心も体も病をえているようで、そこに庇護を求めてやってきた美しく聡明なメグは、そこにいるだけでルースのスイッチを入れてしまったのかもしれません。ままならぬ人生への苛立ちに、嫉妬というガソリンが注ぎ込まれたように思います。そしてルースは息子を始めとした、あらゆる面において未成熟な少年たちのスイッチを入れる。メグは監禁され、辱められ、熱湯を浴びせられ、焼かれる。ほんの少し、「やばくね?」という空気が生まれても、そんなものは大河の一滴に過ぎず、暴行はエスカレートするばかり。ぞっとします。人間はこんなに下劣な生き物なのか。

 そして加藤さんが最も厭な気分になった偉大なる傍観者デイヴィッド。可愛いなと思う女の子が暴力を振るわれていたら助けようと思わないの? 相手が強そうだったら親や警察に助けを求められない? それどころか、辱めを受けるメグの姿にこっそり性的興奮を覚えるってどういうことだ! と憤るのは簡単ですが、彼はとことん「普通の男の子」なのです。だからこそ始末が悪い。普通の人がおぞましい虐待を放置し助長させると証明しちゃってるんだもの。

 さらに辛いのが、メグが聡明で意志の強い子だということ。どんなに痛めつけられてもルースの言いなりにはなりません。体の悪い妹(この子も素直で可愛い)を守るために、ギリギリまで必死に戦うのです。そんな真っ当で称賛されるべき心根がまったく顧みられない展開。しかもメグの頑張りを嘲笑うように、ルースは妹にも激しい折檻を加えるのです。弱いものを虐めぬく行為、思い出しても吐き気がします。一体これを書いた作者はどんな人間なんだ? これ書いて楽しい? と問い詰めたくなりました。

 ところが、こんなに「胸糞の悪い」内容なのに、読み終わってしばらく経つと、他の作品が気になってくるんですよねぇ。ひょっとして私は人間的になにか欠陥があるのではないかと疑いたくなりますが、ケッチャム作品が世にあるということは同種の人が存在するということです。
 加藤さんはホラー好きでなければ手を出すなと言いましたが、私は興味があるなら(心に弾性があるうちに)どうぞと申し上げておきましょう。圧倒的であることは間違いありません。ただ救いはありません。情けも容赦もありません。たまらなく厭なシーンの向こうに自分の姿をみてしまうかもしれません。でもケッチャムを読んだ人にしか見ることのできない風景があるのも事実です。
 強くオススメはしませんが、なんとなく導かれる感じがする方は、死刑執行人ジャック・ケッチャムの前に己の白い首を晒してみましょう!(来月までに加藤さんの心の傷が癒えますように)

 

■勧進元・杉江松恋からひとこと

『隣の家の少女』が翻訳されたのは1998年のことでした。今確認してみて驚いたのですが、まだ20年少々しか経っていないのですね。『マストリード』にも書いたことですが、本書は1990年代半ばに盛り上がった「悪趣味」「鬼畜系」などのブームがまだ余波冷めやらぬころに訳出され、当時はそうした文脈で最初に受容されたと記憶しています。いわゆるスプラッタ・ホラーの中に位置づけられたとも言えます。もう一つ重要なのは、1980年代後半から1990年代前半にかけて、児童虐待に着目した作品が多く訳出されたことです。ジョナサン・ケラーマン『大きな枝が折れる時』やアンドリュー・ヴァクスの一連の著作など、それまで題材とされる機会の少なかった児童虐待の問題を主題に据えた作品が話題になりました。これらの作品が本国で発表されたのは1980年代の後半で、正視すべきことを忌避せずに語ろうという姿勢が出てきた時代の空気を『隣の家の少女』も反映しているように思われます。

もっとも、ケッチャムはそこまで理性的な書き手ではなく、『老人と犬』などを読むと感傷的な人なんだろうな、という印象を受けます。お薦め作品についてはリンク先の金子浩さんのガイドを参照いただきたいと思いますが、他の作品は『隣の家の少女』ほどどんよりしないのでそちらで耐性をつけてから本作をお読みになられるほうが本当はいいのかもしれません。私が好きなのは中篇集『閉店時刻』で、粒ぞろいの作品ばかり入っているので、肩慣らししてみたいという方はまず手に取ってみてはいかがでしょうか。

さて、次回はパトリシア・コーンウェル『検屍官』ですね。こちらもどう読まれるのか。楽しみにしております。

 

加藤 篁(かとう たかむら)

愛知県豊橋市在住、ハードボイルドと歴史小説を愛する会社員。手筒花火がライフワークで、近頃ランニングにハマり読書時間は減る一方。津軽海峡を越えたことはまだない。twitterアカウントは @tkmr_kato

畠山志津佳(はたけやま しづか)

札幌読書会の世話人。生まれも育ちも北海道。経験した最低気温は-27℃(くらい)。D・フランシス愛はもはや信仰に近く、漢字2文字で萌えられるのが特技(!?)twitterアカウントは @shizuka_lat43N

 

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