うう忙しい。この前にちょっと書いた修羅場ですが、いよいよのっぴきならなくなって、ちょっとお休みしちゃいました。もともと「だらだら話」なんだから、それもありかなと……いえいえ、反省してますって。

 いや、どのくらい忙しかったかというと、忙しさの山が二つあったんだけど、一つ目の山の時は、椅子に座りすぎてお尻が四角くなっちゃったくらい。それが第二の山の時は椅子に座っててお尻に軽い床ずれができちゃいましたよ。長いことバランスチェアを使っていて、こんなこと初めて。

 それはともかく、前回の補足を少し。

 翻訳小説の編集を四年もやれば、原文を見なくても誤訳個所は分かるようになる。翻訳原稿を読んでいて、とりたてて変なことが書いてあるわけではないのに、あれ、この辺り怪しいな、なんか間違ってるんじゃないかという「気配」が分かってくる。原文で確認してみて翻訳が間違っていなかった場合もあるが、ほとんどの場合は、ああ矢っ張りという結果になる。いや、ほんとの話。嘘でもはったりでもない、誰でも手近のベテラン編集者に訊いてみれば分かることだから。

 別に編集者をやっていると超能力が身につくというわけではない。他人の翻訳原稿を長いこと読んで編集経験を積むと、こういう所に気をつければいいのだという、ある種の勘が養われるというだけのことだ。

 その勘が働くポイントのひとつは文章のリズム。ある程度以上の、というかわざわざ翻訳されるレベルの小説なら、文章にはそれぞれの作者固有のリズムというものがある。ひとつの小説の中でリズムが変化する場合もあるが、その場合でも小説全体に一貫したリズムが流れている。誤訳をすると、大体はそのリズムが乱れる。そのために、翻訳原稿を読んでいる時に、あれっなんかおかしいぞと感じるわけだ。テンポよく進んでいた小説が、不自然に停滞してしまう。訳文だけ読んでいても、そういうリズムの乱れたところが出てきたら、ほぼ誤訳があると考えて良いだろう。

 なんか観念論を言っているように聞こえるかもしれないが、ちゃんと根拠がある。誤訳した場合、逐語的に訳しただけでは収まりが悪く、訳者は無意識のうちに言葉を足そうとする。そうすると作者ではなく訳者の文章が入ってきて、言葉の切り方、文章の長さ等、明らかに原文とは違ってしまうのだ。編集者に限らず、小説をよく読んでいる読者が読んでいて、どことなく違和感を感じる、なぜか話に乗れない、などという場合は原因が作者ではなく訳者にあることも……あれ、書いている趣旨が違ってきてしまったぞ。とにかく、言いたいことはあくまでリズムね、誤訳をするとリズムが乱れるということ。そこのとこだけ忘れないで。

 ポイントのもうひとつはストーリーの流れ。訳者が分からない(自信がない)ところを省略したり、間違って訳したりすると、文章というより作品全体の流れがおかしくなる場合がある。電器屋に入ったのにどうして唐突に対空砲陣地が出てくるのとか、事情聴取をしている最中に警察が知らないはずの過去の完全犯罪の話をするのは変でしょうとか、小説の構造としてちょっとおかしいでしょうという個所が出てきたら、待てよ、と考えてください。

 小説であるからには、日本の小説であろうが欧米の小説であろうが、必ず展開には決まり事がある。ここで、ジェイムズ・ジョイスとかミュリエル・スパークとか夢野久作とかを出すのはナシね。今は例外の話をしているんじゃなくて共通項の話をしているんだから。

 特にアメリカ人は小説作法とか、ベストセラーの書き方とか好きで、その種の本が無数に出ている上、大学でもそういう創作講座があるくらいだから、どの作家も流れや展開というのをかなりきちんと意識して書いている。逆に言えば、ちょっと型にはまりすぎたところが欠点なんだが。

 ただし、四コマ漫画講座じゃないんだから、ここで古くさい起承転結を言うわけじゃない。この流れできたら、ここは登場人物の過去の秘密に触れるでしょうとか、ここで肝心な事実に言及していないというのは何か伏線があるなとか、そういう程度のこと。

 以上ふたつのポイント、文章のリズムとストーリーの流れを見れば、誤訳個所が分かるということ。逆に言えば、自分の翻訳でそのどちらかが乱れていたら、それは誤訳をしている可能性がある。

 編集者は、あくまで他人が訳した文章だから冷静に、客観的に見ることができる。翻訳者は自分が訳した文章だから、どうしても原文に引きずられたり、いったん頭の中に形成された誤解を無視することができない。だからこそ、もし、自分の文章を冷静に客観的に見られれば、自明の誤訳を減らすことができるわけだ。

 実はその、自分の訳文を客観的に見ることができる、というのがプロの条件かもしれない。日本語の文章としてどうかを冷静に判断し、もしかしたら誤訳があるかもしれないと謙虚に見直すというのは、自覚しているかどうかにかかわらず、プロの翻訳者なら普通にやっていることだと思う。

 まれに、プロを自称していながら、それのできない人もいる。編集者に誤訳を指摘されたら激高して社長に直訴したり(実体験)、「わしの翻訳にケチを付けるのは10年早い」と怒ったり(友人の体験)するのはそもそも人間的にも問題があると思いますがね。

 誤解しないでほしいのだが、ここで翻訳者や編集者の心得を書いているつもりはない。逆に言えば、自分の翻訳をそういう目で見ることができれば、誤訳のかなりの部分は減らせるのではないかということ。わたしの場合は、翻訳者として独立してワープロを使うようになってから、自分の訳文をディスプレー上だけで見ないで、できるだけプリントアウトして見るようにしてきた。それも、時間が許すなら即座に見るのではなく、一週間なり二週間なり間を空けて「寝かせて」から見るのが望ましい。

 大事なのは、三日でも一週間でも、とにかく原稿や原文から離れる期間を作ること。今の仕事用にできあがっている知識や思考回路を、できたらその作家の原文用に組み上がった頭の中の翻訳のシステムも、いったん解体してしまうこと。いわば頭の中をまっさらに戻す時間を設けるのだ。

 ここで注意をひとつ。それは「読者は原文を知らない」ということ。間違わないでほしいのは、原文を知らないからといって訳者が何をしてもいいということではない。原文を知らないというのは、あの原文だったら普通はこう訳すよなあ、こうしか訳しようがないだろう、という言い訳が通用しないということだ。(エンターテインメント翻訳に限って言えば)読者にとっては原文など関係ない、日本文だけの勝負なのだ。訳文が面白くなければ面白くない、訳文が意味不明だったら理解できない。つまり、あくまで訳文それ自体で完結している必要がある。その点は常に肝に銘じていて欲しい。

 些末なことを付け加えれば、原書を後から前に訳すとか、真ん中から訳しはじめるとかいう変な癖がない限り、最後にもう一度導入部分を訳し直すくらいのことをしてもいいだろう。読みはじめた読者の興味を繋ぐ重要な個所なのに、まだ訳者の調子が上がらないうちに訳したのだから。

 というところで、また次回。ううむ、いつまで経っても先へ進まないなあ。「だらだら話」と名付けた私は先見の明があったのかなあ。

鎌田 三平

バックナンバー

第1回・第一だらだら「構文解析とは鑑識である」

第2回・第二だらだら「けつカッチンという名の修羅場」