先日、アリアナ・フランクリンの『エルサレムから来た悪魔』(舞台が12世紀のイギリスで、主人公がシチリアから来た女医という歴史ミステリ)を読み返しながら、「シチリアではこの時代にもう女のお医者さんがいたんだよね、イギリスとは大違いだなぁ」としみじみ思ったのですが、そのときわたしの頭のなかに浮かんでいたのが、アン・ペリーの『A Sudden, Fearful Death』(1993)。大好きなモンク・シリーズの4作目にあたります。

 警察を辞め、私立探偵となったウィリアム・モンクは、パトロンであるレディー・キャランドラ・ディヴィオットから新しい依頼人を紹介されます。依頼人ジュリア・ペンローズの相談とは「実妹マリアン・ギレスピーが性的に乱暴されたので、犯人を捜し出したい」というもの。犯人はジュリアの夫であることが判明し、モンクが真実をジュリアに告げると、ジュリアは自分のせいだと嘆き、そのわけを話し始めます——自分は結婚してこのかた、夫の男性としての自然な求めを拒み続けている。自分たちの母親は、自分とマリアンのほかにも何回も身ごもり、流産と死産を繰り返した。妻たるものは夫に身をまかせ、子どもを産むべきであることはわかっている。でも自分にはできない。マリアンが夫の性欲のはけ口にされてしまったのは、そんな自分のせいだと。

 この事件と時を同じくして、病院でひとりの看護師が殺されます。遺体の喉には恐ろしいあざがあり、他殺であることは明白でした。被害者はその病院でもとくに優秀な看護師、プルーデンス・バリモア。彼女もまたヘスター・ラターリィと同じく、ナイチンゲールとともにクリミアに赴いた上流階級出身の看護師でした。

 プルーデンスが働いていた病院の役員を務めるキャランドラは、自分が好もしく思っている外国人医師クリスチアン・ベックに嫌疑がかけられたことから、彼の無実を証明すべくモンクに捜査を依頼し、さらにはプルーデンスの後釜としてヘスターを病院内に送りこみます。

 ヘスターは病院で、多くの女性が望まない妊娠と出産を繰り返し、肉体を酷使して病気になり死んでいく現実に直面することになります。妻は夫の性的欲求を満たさねばならないこと、夫の求めに応える限り妊娠する可能性が常にあること、その結果望まない妊娠・出産(あるいは流産・死産)を繰り返して肉体的にも精神的にも疲弊すること、中絶は禁止されていること、そのため違法なヤミ堕胎が半ば公然と行なわれていること、なかにはヤミ堕胎で健康を損ね、果ては命まで落とす場合があることなどが、これ以降、物語のなかで繰り返し取り上げられます。

 そんな折、不運にも義兄の子どもを宿してしまっていたマリアンが、姉とともに事件の舞台となった病院を訪れます。このことをきっかけに、キャランドラがある事実に気づき、彼女の胸にはクリスチアンが犯人ではないかとの疑念が芽生えるのです。

 しかし逮捕されたのは、プルーデンスの上司であった外科医、サー・ハーバート・スタンホープでした。証拠となったのは、プルーデンスが妹に宛てて送った手紙の束で、スタンホープに心酔していることがよくわかるものでした。なかには「彼のおかげで少女のころに夢見た幸せが現実となる」と記されているものも・・・・・・。ところが殺される数日前の手紙では内容が一変、スタンホープとの約束が一方的に破棄されてしまったことがうかがえます。妻と別れる気のないスタンホープが、邪魔になった不倫相手を殺したと理解するのに十分な内容でした。

 けれどもモンクは自分の出した結論に釈然としないものを感じます。捜査を通じて見えてくるスタンホープは、医療にのみ情熱を示す退屈な男。一方プルーデンスについても、結婚などは望まず、ひたすら医療と看護に打ちこむ姿しか浮かんでこないのです。火遊びの果てに殺人に至るような人物像とは、どちらもあまりにほど遠く、モンクは悩みます。スタンホープが無罪だとしたら、真犯人は? クリスチアン?

「女性の求める幸せは結婚」という当時の社会通念や、医療現場における女性の立場の低さ——女性には医者になるための道が開かれていないこと、看護師は汚れ仕事をする下女並みの職業と思われていること、看護師として働く女性の人間性もまた低く見られがちなこと、実際にモラルの低い看護師もいて、盗難や飲酒、居眠りなどは日常茶飯事であったこと——もまた、あらゆる登場人物の口から繰り返し語られ、これらの偏見が看護師殺しの真相を解き明かす上での大きな障害となっていきます。

 そうした先入観とは縁のないヘスターの活躍でようやくすべての謎が解け、真犯人が判明しますが、裁判はすでに弁護側の陳述を残すのみ。どうすれば真犯人の有罪を証明できるかと、なかば諦めかけているモンクと弁護人オリヴァー・ラスボーンを叱咤激励するのは、今回もやはり鉄の女ヘスターです。ここから先は、まさにハラハラドキドキの急展開!

 上流階級の未婚女性に対する性的暴行と病院内での看護師殺し。一見なんのかかわりもなさそうなふたつの事件ですが、いずれも当時の女性が否応なく置かれる立場ゆえに起こってしまった点が共通しています。前作『Defend and Betray』では、自分の産んだ子どもに対するなんの権利も認められず、夫の同意がなければ離婚もできないヴィクトリア朝女性の家庭悲劇を描いたアン・ペリー。本作品でも引き続き、この時代の女性が甘んじて受けなければならなかった差別と、それらが原因となって引き起こされる悲劇を描いています。

 モンク、ヘスター、ラスボーンの3人の関係については、残念ながら大きな変化はありません。しかし、それぞれのそれぞれに対する感情が折々に描写され、なかなか興味深く読むことができます。「ヘスターは生涯の伴侶には不向き」と思いながらも、彼女に看護の道を捨ててもいいと思わせるほど愛する男性がいたら……と考えていたたまれなくなるのはラスボーン。一方モンクは、ヘスターのことをいけすかない女だと思う反面、捜査が行き詰まると、疲れて寝ているはずの彼女にわざわざ会いに行き、話を聞いてもらうのです。いずれこれが恋のさや当てへと変わっていくのでしょうか?

 本作品ではついにナイチンゲール本人が登場し、ヘスターについて語る場面が出てきます。また、ラスボーンの父ヘンリーが再登場したり、前作でサブメインを務めたイーディスとティップレディ少佐が結婚することになったりと、シリーズのファンにとっては嬉しい展開も。2011年には17作目の『Acceptable Loss』が刊行される予定のモンク・シリーズ。先は長いですが、楽しんで読み進めていくつもりです。

遠藤裕子

アン・ペリーの巻(その1)はこちら

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