「キャロル・オコンネルの話を中心に何か」——そんなお題を頂いて、どうしたものか、ずっと頭を悩ませてきた。もちろんオコンネルの作品は大好きだし、全部読んでいるし、その半数くらいは自分で翻訳しているわけだから、トピックはいくらでもありそうなものだ。でも小説について書くのって、なかなかむずかしい。あんまりいろいろ説明しすぎて人々の読書の喜びをそいではいけないし、ネタばらしになってもいけない。つい先日も酒宴の席でこんな会話があった。

友人A:「『愛おしい骨』(オコンネル最新作)二回読んで、二回目もまた泣いちゃった」

私(うれしそうに):「どこで泣いたの、どこで泣いたの?」

友人A:「うん、あの〈月の少年〉におやすみを言うところ……」

友人B:「それ以上言わないで! これから読むんだから!」

 こんな調子なので、うかつにものが言えないのだ。ミステリ評論家のみなさんのご苦労がしのばれる。上記の「〈月の少年〉におやすみを言うところ」とは、果たしていかなる場面なのか? これは本編『愛おしい骨』を読んでのお楽しみ。ちなみに、私自身が泣いた場面は……その場面に触れること自体、結末のひとつを明かすことになってしまうので、やっぱり言えない。

 どうしよう、どうしよう、がんじがらめでなんにも書けない!

 そう悩んでいたとき、このコーナーの一番手、中村有希さんのエッセイを読んだ。

 翻訳のお師匠から「お題は自由。なんでもいいからエッセイを四回書いてね。全部猫の話でもいいよ」とお話があったのだとか。

 お題は自由? なんでもいい? 猫の話でも? 犬の話でも?

 犬の話なら、私、際限なく書けるんですけど。

 ここだけの話、子供時代の私はちょっとした変人だった。ひとりでぼやっとしているのが何より好き。人と交流するのは何より苦手。団体行動は一切嫌い。そんな私がまともに成長できたのは(できたのか?)小説と犬のおかげに他ならない。本はいつも楽しく読んでいた。また、幼いころから、犬はどんなに大きな犬でも一度も恐いと思ったことがない。なぜか親しみを覚え、積極的に接近した。犬たちのほうも「おっ、人間の子供だ!」とばかりに歓迎し、鷹揚に接してくれた。

 そして私の場合、本と犬との関係も深い。本を読んで初めて泣いたのも、初めて笑ったのも、犬のお話。初めて翻訳した小説も犬が主人公だ。本当に犬にはお世話になっている。

 初めて泣いた小説とは、ご存じ『フランダースの犬』。これは説明の必要ないですね。笑ったほうは、ポーランドの児童文学、『すばらしいフェルディナンド』。これこそ私が本好きになった原点だ。どんなお話かと言うと——

 フェルディナンドは犬なのだが、ある日、ご主人と一緒にソファに寝そべってうつらうつらしているとき、人間みたいに二本足で立って歩けたらいいだろうな、なんて思う。で、ちょっと試してみたら、なんと、これが立ててしまう。彼は家を抜け出し、街を歩き、自由を満喫する。犬だから、全身毛だらけだし、大きな垂れ耳と長い鼻面をそなえているのだが、なぜか周囲の人間たちは誰もそのことを不思議に思わない。それどころか、フェルディナンドの言動にいちいち感銘を受け、ご立派ご立派ともてはやす。かくしてフェルディナンドは、尊敬すべき紳士、ゴリッパー氏として、実にしょーもない冒険を繰り広げるのである。この小説、全編を通じて、ナンセンスですっとぼけている。涙も感動も教訓もなく、ひたすらおかしい。こういうぜんぜんためにならない本をたくさん読んで育つと、みんな小説好きになると思う。

 あと、印象深かったのは、フィリパ・ピアスの『まぼろしの小さい犬』。ロンドンに住む、犬がほしくてたまらない少年の物語。これはラストが泣けます。ミステリ系では、カトリーヌ・アルレーの『死ぬほどの馬鹿』がよかったなあ。男女三人の愛憎が招く恐ろしい悲劇。登場する大きくて優しい犬がたまらなく可愛い。そうそう、犬の可愛さにかけては、クーンツの『ウォッチャーズ』も負けてはいなかった……

 そう言えば、オコンネルは犬好きだと私は思う。どうしてかと言うと……どうしてかと言うと……長くなるので、このつづきはまた来週。

務台夏子(ムタイ ナツコ)

英米文学翻訳家。訳書にオコンネル『クリスマスに少女は還る』『愛おしい骨』、デュ・モーリア『鳥』『レイチェル』、マクロイ『殺す者と殺される者』、キングズバリー『ペニーフット・ホテル受難の日』などがある。

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