皆さん、お待たせしました、ジャンニが帰ってきますよー!――何のことかと思った方、どうぞご容赦ください。なにせ五年ぶりに〈ヴァイオリン職人〉シリーズの新作が刊行されるんですから! このヨロコビを世界の中心で叫ばずにいられましょうか。いや、そんなこと言っても何だかわからないままですね。では順を追って説明をば。

 イタリアはクレモナに住む初老のヴァイオリン職人・ジャンニを主人公とする〈ヴァイオリン職人〉シリーズは、2014年5月に第一作『ヴァイオリン職人の探求と推理』が、同年11月に第二作『ヴァイオリン職人と天才演奏家の秘密』が刊行されました。ミステリーにヴァイオリンという楽器の製作や、ときに何億もの値がつく名器をめぐる業界の裏話をからめ、主人公が真相を追いながら英仏伊を飛びまわり、ついでに土地の名所や歴史やワインや料理を味わう、いうなればヨーロッパグルメ紀行的な楽しみもあったためか、好評を博して版を重ねることができました。くわしくは当欄で前作について書かせていただいたこちらをごらんください。

 ありがたいことに、続編を望む声も多かったのですが、いかんせん、作者アダム氏が当時刊行していたのはこの二作のみ。そこで、2015年に東京創元社さんから続編の執筆をお願いしたのですが、残念ながら多忙ということで書いてもらえませんでした。

 ところが、2018年になって突然、アダム氏から完成ずみの第三作の原稿が届いたのです(さすがに編集さんも驚いたそうです)。前の第二作の原作が2009年刊行だったので、十一年ぶりのシリーズ新作でしたが、クオリティはまったく落ちておらず世界観もそのまま、一読して「面白い!」と、とんとん拍子に翻訳・刊行が決まり、このたび日本で五年ぶりのシリーズ再開となったわけです。説明終わり。ふう。

 さて、ここまで読んで、おや? と思った方もいらっしゃると思いますが、そう、この第三作はなんと、“日本からの依頼で書きおろされた、日本オリジナル”なのです。日本(語)以外では(たぶんまだ)読めない作品なんですよ! こういうケースはあまり聞いたことがなかったのですが、実際、編集さんのお話でも、非常にレアなことだそうです――これって何だかお得感がないですか? 英米の小説にかんしては、原書で読める海外の読者に常に遅れをとらざるをえないわたしたちが、むこうの読者に先んじることができるなんて!

 さて(その2)、かんじんの作品の内容をお知らせしましょう。
 ジャンニはヴァイオリン職人のかたわら、長年にわたってヴァイオリン製作学校の教師もつとめています。ある日、数十年前の教え子で、いまはノルウェーのベルゲンでやはりヴァイオリン製作をしているリカルドがクレモナを訪れました。彼は少し前に手に入れたという、ノルウェー独特のヴァイオリンである“ハルダンゲル・フィドル(ノルウェー語でハーディングフェーレ)”をジャンニに見せてくれましたが、その直後に殺害されてしまいます。しかもハルダンゲル・フィドルも行方不明に。彼の死にこの楽器が関係していると考えた刑事アントニオ、恋人の経済学者マルゲリータとともに、ジャンニははるか北欧の地へ飛ぶのですが……。
 
 ハルダンゲル・フィドルという楽器は今回、わたしも初めて知ったのですが、ヴァイオリンとかなり似ているものの、ひとつ大きな違いがあります。それは弦の数。ヴァイオリンは弦が四本、どれも左手の指で押さえて音の高さを変えられるように、指板と呼ばれる部分の上に張られています。ハルダンゲル・フィドルのほうはそれ以外に、指板の下に何本か弦が張ってあり、指で押さえることはできませんが、上の弦に共鳴して音を出します。これによって、多様なハーモニーを生みだすことができるのです。

 また、ハルダンゲル・フィドルはきわめて装飾的な楽器で、ものによっては胴体からネック、上の端の渦巻きという部分まで、すべてに真珠母などを使った象嵌細工や彫刻がほどこされています。まるで楽器自体が美術品のようなのです。興味のある方はぜひhardanger fiddleまたはhardingfeleで検索してみてください。その細かさや緻密さ、デザイン性には目をみはりますし、YouTubeでは演奏を聴くこともできます。残念ながら、あまりにも製作に手がかかるためか、現在ではほとんど作られなくなったようですが……。

 話を元に戻しますと、シリーズの前二作では、ジャンニ&アントニオのコンビは英仏伊の華やかな都市や、おだやかな田園風景の中を駆けめぐっていたのですが、今回は一転、人をよせつけない荒々しくも壮大なノルウェーの大自然の中へ入っていきます。降り止まない雨のベルゲン、雄大なフィヨルド、激しい風と波が打ちつける北海沿岸。そして音楽の面では、ノルウェーが生んだ天才たちとその作品――世界的な劇作家イプセンの戯曲に、大作曲家グリーグが才能をそそぎこんだ『ペール・ギュント』、それから歴史的ヴァイオリニストであったオーレ・ブルの破天荒な人生をそれぞれ別の軸として、物語が展開していきます。

 このシリーズの魅力として、先ほど挙げた紀行的な楽しさや、歴史のうんちくに出会う面白さももちろんありますが、この物語を支持してくださる読者の方たちが多く口にするのが、主人公ジャンニの人となりです。彼は六十代なかばの、生涯をヴァイオリン製作に打ちこんできた誠実な職人であり、八年前に亡くなった妻を心から愛していた良き家庭人でもあります。ストラディヴァリやグァルネリといった過去の偉大な名匠を敬愛し、かといって彼らの天分に及ばない自分を卑下することもなく、常におだやかに、自分にできる最高の楽器を作ろうと努力をつづけるジャンニの姿は、どこか日本の「匠」という言葉を連想させます。
 また、ジャンニは過去に過ちをおかしたことがあり、そうした体験からか、他人をたやすく断罪せず、懐深く受けとめ、大樹のように静かに凛とたたずんでいます。そんな彼を慕う人々は多く、読者の方たちもまた、彼の人間的な包容力を好ましく感じてくれたのかもしれません。

 近年、世界だけでなく日本でもどこか息苦しいような、殺伐とした空気が広がり、ミステリー小説界でもより強い刺激、より過激な展開を打ち出す流れがあるように思います。そんななか、ときにはゆったりとおだやかな、心のやすらぐ物語に手を伸ばしてみてはどうでしょう? もしそんな気持ちになったら、ぜひジャンニのもとへいらしてください。極上の音楽と旅の話、そして彼お手製のパスタ料理がお待ちしています。

 

青木悦子(あおき えつこ)
 翻訳者。おもな訳書はアダム〈ヴァイオリン職人〉シリーズ、コリータ『深い森の灯台』『冷たい川が呼ぶ』、ロブ〈イヴ&ローク〉シリーズなど。好きなヴァイオリニストはイヴリー・ギトリス。最近は近所の草木の写真を撮って、名前を調べることにはまっています。ツイッターアカウントは@hoodusagi

 

■担当編集者よりひとこと■

“日本オリジナル”の本書『ヴァイオリン職人と消えた北欧楽器』がいよいよ刊行となります。なんと5年ぶりのシリーズ新作ということで、めちゃめちゃ嬉しいです! この〈ヴァイオリン職人〉シリーズは爆発的なベストセラーというわけではないのですが、じわじわとずーっと売れ続けており、続編を刊行できるのはひとえに読者の皆様のおかげです。ほんとうにありがとうございます。

 しかも重要な舞台となるのがノルウェー。アンネ・ホルトやカーリン・フォッスムなどノルウェーの作家による北欧ミステリは数あれど、「ノルウェー観光」ミステリは珍しいのではないかなと思います。で、この旅行描写がとにかく面白いんですよー。主人公たちと一緒にベルゲンの街を歩いているような気分になります。レストランが高くて食べるものがない! なんて嘆いたりして。いえ、ちゃんと殺人事件と消えた楽器についての捜査もしているんですが。

 でも、とにかく読んでいると好奇心が刺激されるんです。ノルウェーに行きたくなるし、作中に出てくる音楽を聴いてみたくなるし、おいしいパスタ料理が食べたくなるし。例えば、このところ寒くなってきていますから、調子の悪いときもあると思うんです。せっかくの休みなのに気分が塞いでやる気がおきないしどこにも行きたくない、というじめっとした気分でも、この本を読めば大丈夫! 謎解きと楽器や音楽うんちくのおもしろさに夢中になってふむふむと読み進めていくうちに、憂鬱さなんて吹き飛んでしまうでしょう! 
 ぜひ既刊の『ヴァイオリン職人の探求と推理』『ヴァイオリン職人と天才演奏家の秘密』とあわせてお楽しみいただけますと幸いです。

(東京創元社S)