「キンジー・ミルホーン」シリーズとのお付き合いも早いもので、もう4作目。『死体のC』では前二作から一転、暗いトーンの作風になっていたが、『欺しのD』は如何に。

 『死体のC』の事件から二ヶ月後、秋を迎えたサンタ・テレサのキンジーの事務所に、アルヴィン・リマルドと名乗る男が現れる。彼は2万5千ドルの銀行小切手を差し出し、「トニー・ゲイアンという15才の少年を探し出して、この小切手を渡して欲しい」とキンジーに依頼する。不審に思いながらも仕事を引き受けたキンジーだったが、小切手が不渡りになっていることが判明。実はアルヴィン・リマルドは偽名であり、男はジョン・ダギットという前科者の詐欺師だったのだ! しかしキンジーがジョンの正体を掴んだ直後、彼は水死体となって発見されることに……。

 『欺しのD』は前作『C』との共通点が多い作品だ。まず事件の発端で、キンジーの「失敗」を描いていること。『C』ではキンジーは依頼人を守り切れずに殺されてしまうが、本作では依頼主が詐欺師であり、しかもまんまとキンジーは騙されてしまう。私立探偵が詐欺被害に遭うなんて、信用を失いかねない間抜けな失態だ。思えば『C』『D』でのあからさまな失敗の他にも、キンジーは時々「おっちょこちょい」な面を見せる。これはキンジーが完璧なヒーローではないことを示すことで、読者にとってキンジーの存在をより近しいものにする、作者グラフトンの意図的な戦略なのでしょう。

 そして今回も、『C』の好青年ボビーのような悲劇的な運命を背負った若者が登場する。ジョン・ダギットが小切手を渡そうとした相手、トニー・ゲイアンである。彼はジョンが起こした飲酒運転により家族の命を奪われ、以来精神を蝕まれたまま日々を過ごしている。『C』のボビーは明るさの裏に暗い影の部分を隠した青年だったが、トニーも同じ。自分を不遇の身にした者への恨みを抱き、屈折した感情を己の内に溢れんばかりに溜め込み続ける少年で、不意に何かのきっかけでスイッチが入ったかのように感情を爆発させてしまう。こうした痛ましい境遇に陥った若者を描く筆致は『C』に引き続き健在である。

 ……って、じゃあ結局『D』は『C』で取り扱ったテーマの焼き直しなのだろうか? いいや、『D』は前三作と比べて決定的に違うものがある。それは、犯人が凶行に及んだ理由。それまでシリーズに登場した犯人たちは、単純な私利私欲に走った人殺しばかりで、はっきり言って「グラフトンの書く犯罪者って、どいつもこいつも薄っぺらい奴らばっかりだなあ。」と辟易していたところだった。ところが『D』の犯人は違う。犯人はキンジーに正体を暴かれたのち、自分がなぜ殺人を犯したかを彼女に淡々と語り、ついには「人はなぜ他人の命を奪ってはいけないのか?」という究極の問いにまで辿り着く。それは常人の持つ倫理観からすれば明らかに「壊れた」感覚だと読者は思うだろう。しかし同時に、犯人が歪んだ倫理を持つようにならざるを得なかった理由も、犯人の歩んできた人生を知っている読者には痛いほどわかるはずだ。

 そうした「壊れてしまった」犯人に対して、キンジーは限りない優しさで持って犯人を受け止めようとする。彼女は自身が『A』で犯した罪を語り、何とか犯人を立ち直らせようと説得するのだ。ああ、やはりキンジーの最大の武器は「母性」なんだ。理屈や腕力ではない、すべてを包もうとする「母性」。それは普通の感覚を逸脱してしまった犯人の前では一層輝きを増しており、私は素直に胸を打たれてしまった。

 この連載を始めてから「キンジーシリーズはFからだ」とか「いやG以降じゃねえ?」

とか、いろいろとシリーズの転機に対するご意見をいただくようになった。しかし、私は思う。シリーズの真のターニングポイントは、この『D』ではないかと。作者グラフトンが、犯人とキンジーを正面から対峙させ、自分の生み出したキャラクターの特徴を遺憾なく発揮させたのは、この作品なのではないだろうか。もちろん、シリーズはまだまだ続くのは承知の上。でもシリーズファンの皆さん、ちょっと『D』を読み返してみてくださいよ。変化の兆し、この作品が一番よく見えませんか?

 挟名紅治(はざな・くれはる)

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ミステリー愛好家。「ミステリマガジン」で作品解題などをたまに書いています。つい昨日まで英国クラシックばかりを読んでいたかと思えば、北欧の警察小説シリーズをいきなり追っかけ始めるなど、読書傾向が気まぐれに変化します。本サイトの企画が初めての連載。どうぞお手柔らかにお願いします。

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