今月は、私の好きな翻訳文をいろいろ紹介しながら、感想を述べたいと思います。自分の訳文についてコメントするのはこっぱずかしいけれど、人様のかっこいい文章ならいくらでも引用できる気がするので。

 ではさっそく。

ひと口にいえば、人はだれでも、単に偉人のみならず、わずかでも凡俗の軌道を脱した人は、ちょっと何か目新しいことをいうだけの才能にすぎなくとも、本来の天性によってかならず犯罪人たらざるをえないのです——もちろん、程度に多少の相違はありますがね。これがぼくの結論なんです。でなくては、とても凡俗の軌道を脱することはむずかしい。が、それかといって、そのまま凡俗の軌道にあまんじていることは、やはり本来の天性によってできない相談です。いや、ぼくにいわせれば、むしろあまんずべからざる義務があるくらいです。(中略)人は自然の法則によって、概略(2字傍点)二つの範疇にわかれている。つまり自分と同様なものを生殖する以外になんの能力もない、いわば単なる素材にすぎない低級種族(凡人)と、いま一つ真の人間、すなわち自分のサークルの中で新しい言葉を発する天稟なり、才能なりを持っている人々なのです。

 ドストエフスキー作、米川正夫訳の『罪と罰』から。ロシア語じゃん。でも『罪と罰』は私にとって「犯罪小説」の原点であり、個人的にはいまでも最強。高校3年のときにふと手に取って読んだとたん、頭のなかで嵐が起きた。小説というものにここまでの力があるのかと、本当に驚いた。それまでにも翻訳ものは読んでいたけれど、脳天直撃されたのは初めてでした。

 ドストエフスキーの登場人物は、カラマーゾフの三男アリョーシャを特大の例外として、どこかねじれた、弱い人間が多い。『罪と罰』の主人公の貧乏青年、ラスコーリニコフもそうで、天才には凡人の「死骸や血潮を踏み越える」権利があるという、上の引用を含む犯罪論も、いかにも青い。こんな青臭い論理で、こすからい金貸しの老婆であれ生身の人間を殺せるはずはないのだが、それでも結局「着物の端を機械の車輪にはさまれて、その中へじりじり巻きこまれて行く」ように殺してしまう(しかも老婆の義妹まで……)ところが怖い。

 同じ個所を、話題の亀山郁夫さんの新訳で引いてみる。

要するに、ぼくの結論はこうなんです、つまり、何も偉人にかぎらず、ほんの少しでも人よりぬきんでてる人間はみな、ほんのわずかでも何か新しいことが言える人間はみな、そういう自分の資質のせいで、ぜったいに犯罪者になるしかないっていうことです、むろん、程度の差はあります。でなけりゃ、人並みはずれるのはむずかしい、かといって、人並みにとどまっていることにだってもちろん同意できません、これもまた、彼らがもってうまれた資質のせいってわけですが、ぼくに言わせると、同意しないことは義務でもあるわけです。(中略)つまり人間は、自然の法則によって、おおよそ(4字傍点)ふたつの階層に大別される。低い階層(凡人)、まあ、いうなれば生産のための材料です、自分とおんなじような子孫を生産するのが役目です、それと、ほんとうの人間、つまり、自分の環境のなかで、何か新しいこと(5字傍点)を言う天分なり才能形をあたえられた人たち、このふたつに分けられる。

 亀山訳はじつにすらすら読めた。すらすら読めて何がいいかと言うと、この話が(エピローグを除いて)ほんの2週間ほどの出来事であることを思い出させてくれる。2週間のなかに「宇宙」があるという、ド氏独特の時間感覚が味わえるのですね。

「罪」に続く「罰」のところを引用しはじめるときりがありませんので、このへんで。

加賀山卓朗(カガヤマ タクロウ)

1962年愛媛県生まれ。おもな訳書に、パーカー『盗まれた貴婦人』、ルヘイン『ミスティック・リバー』、ル・カレ『サラマンダーは炎のなかに』、ブレイク『荒ぶる血』など。

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