エドワード・ケアリーの最新作『おちび』(原題 Little )が十一月下旬に刊行されました。ケアリーのことをこよなく愛してやまない方々、そして未だケアリーの世界を知らずにのほほんと暮らしていらっしゃる方々、お待たせいたしました。
〈アイアマンガー三部作〉『肺都』刊行から早二年。これまでに、ケアリー・ロスを思う存分に味わっている友人知人老若男女の苦悶の声、歯ぎしりに似た唸り声、地を這うようなすすり泣き、人間のものとは思えない号泣など、多種多様な声が届いてきていました。
 でもでも、ようやく、その方々へ向けて処方箋が届きますよ。といっても、これはただの対症療法です。残念ながら病気の根本的な治療にはなりません。
『おちび』『肺都』(573ページ)よりも15ページ長い588ページで、肺都よりもイラストがたっぷり入っています。文章のあいだに差し挟まれているので、よりいっそう物語の世界へと引きずり込まれていきますよ。うわあ、大変。そしてケアリーの絵がまた素晴らしい!
 本書の主人公は、後に19世紀のロンドンで人気を博すことになる「蠟人形館」を作ったマダム・タッソーです。そのマリー・タッソーが自分の誕生から、ロンドンへと渡っていくまでの波瀾万丈の半生を回想して書いた自伝であり、さらに絵も描いている、という設定の歴史小説です。タイトルは、彼女がとても背が低かったことから付けられました。
 マリーはスイスで生を受け、六歳で孤児となり、蠟で人体の部分模型を作るのに秀でた医師のフィリップ・クルティウスの元で蠟の技術を学んでいきます。このクルティウス先生、そんじょそこらの医師とは違って、人間が苦手で蠟が大好き。とりわけ女性が苦手で、女性の前に出るとへどもどしてしまって、まともに話ができません。しかも長身でほっそりしていて、姿だけはアイアマンガーに出てくる「仕立屋」アレクサンダー・アークマンにそっくり!
 こんな恥ずかしがり屋のクルティウス先生ですが、幼いマリーにはなぜか心を開き、「私はきみが怖くないんだよ」と言ってマリーを弟子として受け入れます。マリーが八歳になったとき、ふたりはある事情からパリに逃げることになります。ところが異国の地は、フランス革命へとなだれこんでいく激動の時期にさしかかっていました。
 孤児となった女の子が召使いとなり、やがて大きな館で働くことになる――と書くと、まるでアイアマンガーに出てくるお転婆ルーシーみたいですが、実はこの『おちび』とアイアマンガー三部作は秘密の糸で結ばれているのです。
 ケアリーはこの『おちび』を完成させるのに15年という歳月を費やしました。『望楼館追想』を刊行したときから、この作品を書こうとしていたのですが、なかなか完成させられませんでした。その理由については「訳者あとがき」で触れましたが、とにかく、行き詰まっていたときにアイアマンガー三部作という壮大な物語を書き上げました。「急がば回れ」をしたおかげでケアリーは、いつの間にか使い方を忘れていた想像の翼を羽ばたかせるやり方を思い出したのです! ブラヴォー!

「あの作品が作家としての私を元の状態に引き戻してくれました。フィクションを書く楽しさを思い出させてくれた。作家なら好きなだけ行きたいところに行けばいい、ということを思い出させてくれたんです」

 アイアマンガーを書き上げたからこそ、『おちび』を完成させることができた。つまりですね、アイアマンガー三部作にはそれだけの力が秘められているということでもありますね。想像する力、創作する力を与えてくれる作品なのです(創作関係者で未読の人はすぐに買いに行くべし、行くべし!)。

堆塵館 (アイアマンガー三部作1) (アイアマンガー三部作 1) 穢れの町 (アイアマンガー三部作2) (アイアマンガー三部作 2) 肺都(アイアマンガー三部作3)

 そうしたアイアマンガーの力が最大限に生かされているのがマリーというキャラクターです。彼女はどこまでもつよく、たくましく、美しいのです。どんなに虐げられても、酷い扱いを受けても、人を愛するという気持ちを失わず、逆境のなかを生き抜いていきます。ルーシーと同じく、マリーの顔立ちは美しいとは言えませんが、本人はいっこうに気にしていません。むしろ父と母の顔の特徴を備えている自分の顔を誇りにしています。パリの仕立て屋の召使いとして働き、そこの未亡人にひどい扱いをされても、決して絶望したりしません。でも、クルティウス先生は、その未亡人にとっくに攻略されて言いなりになっているので、ちっともマリーの窮状を理解してくれません。
 そんな彼女の味方になってくれる人物も現れてきます。再びアイアマンガーの話になりますが、アイアマンガーは「ボーイ・ミーツ・ガール」のお話とも読めますが、こちらは「ガール・ミーツ・ボーイ」のお話と言えるかもしれません。会いますよ、男の子に。そしてその子が、青っちろくて無口で頼りなくて存在感もなくて、布で作った自分の分身のような人形を肌身離さず持っているんです。
 ああ、ケアリーの作品に登場する男たちはどうしてこうも優柔不断で軟弱なんでしょう! 
 なんて儚げで素敵なんでしょう! 

 あ、強い男性ももちろん登場します。犬といっしょに育った凶暴な男。王さまの首をはねたり、バスティーユの司令官を殺したり、切断した首を蹴りながら歩いてくるような人々。庶民が力を得たらどんなことでもできる、ということを実践してみせている人々が。
 そんななかでマリーは愛する人たちを守るためにすべきことをします。その勁さに最後まで圧倒されます。また、この作品はたくさんの別れが描かれています。もう、ここにいたっては、号泣しようが男泣きに泣こうが、高笑いしようがスキップしようが、舞おうが歌おうが、かまってなどいられません。思う存分好きなように感情を表現してください。これはそういう本なのだとわたしは思っています。
 歴史上の実在の人物をケアリー的世界の住人としてこれほどまでに生き生きと描いたことが、わたしにはなにより素晴らしいことに思えるのです。

 そうそう、次のケアリーの作品はもう完成していて、英語圏では来年の秋に刊行されます。あら、もうすぐですね。アイアマンガー三部作を10年以上待ち望んでいた身にとってみれば一年など苦ですらありません。ただ、そのときまでみなさまのケアリー・ロス状態が悪化しないことを心より祈っています。今度はピノッキオにまつわるお話です! 短い作品で、オブジェの写真がたくさん入っています。どうぞお楽しみに!
 

トークイベント開催
『おちび』刊行記念のトークイベントが代官山蔦屋書店で12月19日(木)午後7時からおこなわれます。
 
 詳細は同書店のイベント案内ページで→ https://store.tsite.jp/daikanyama/event/humanities/11055-1423371115.html

 
 

古屋美登里(ふるや みどり)
 著書に「BURRN!」誌で連載している書評をまとめた『雑な読書』『楽な読書』(シンコーミュージック)。訳書にエドワード・ケアリーのアイアマンガー三部作(『堆塵館』『穢れの町』『肺都』)(東京創元社)、、映画「光をくれた人」の原作M・L・ステッドマン『海を照らす光』、ラッタウット・ラープチャルーンサップ『観光』(以上ハヤカワepi文庫)、イーディス・パールマン『双眼鏡からの眺め』(早川書房)、ダニエル・タメット『ぼくには数字が風景に見える』(講談社文庫)、デイヴィッド・マイケリス『スヌーピーの父 チャールズ・シュルツ伝』、デイヴィッド・フィンケル『帰還兵はなぜ自殺するのか』『兵士は戦場で何を見たのか』、ジャニーン・ディ・ジョヴァンニ『シリアからの叫び』(以上亜紀書房)、アトゥール・ガワンデ『予期せぬ瞬間』(みすず書房)など。
 倉橋由美子作品復刊推進委員会会長。倉橋由美子の単行本未収録エッセイ集『最後の祝宴』(幻戯書房)を監修刊行。現在はエドワード・ケアリー普及委員会(これはどなたでも参加でき、自己申告すらしなくてもよく、ひたすらケアリーの作品を普及する役割が課せられるだけです)の自称会長。
■担当編集者よりひとこと■

 翻訳の古屋先生の愛にあふれたほとばしるような熱いコメントのあとに、書かせていただくのは難しいのですが、ともかく〈アイアマンガー三部作〉に続いて、この『おちび』という規格外の作品に関わることができたのは本当に素晴らしい体験でした。私自身、マダム・タッソーの蠟人形館に行ったことはあっても、マダム・タッソーについては、何も知りませんでしたので、最初に一読したときは、驚きの連続でした。この衝撃は『ベルサイユのばら』を初めて読んだときに匹敵するかも(年がばれそうですが……)。ケアリー自身による挿絵もすばらしく、4000円という少々高めの定価ですが、絶対お得です。トークイベントにも、是非お越しください!

(東京創元社 K) 

 

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