書棚をいじっていたら最下層からシャーロック・ホームズのゲームブックが出てきました。うわあ。いまならばDS等でスマートに遊ぶだろうところを、ページをいったりきたりして付録の地図を参考に謎を解決したものです。今回ご紹介するのは、ホームズの地図のスコットランド・ヤードがまだ存在しない、18世紀のジョージアン・ロンドンを舞台にした歴史ミステリ。コヴェント・ガーデン、セヴン・ダイアルズ、ロイズ・コーヒーハウス、中央刑事裁判所、そしてボウ・ストリート・ランナーズ——こうしたキーワードにウホッとなる方々なら記憶されていることでしょう、当時の市民の暮らしぶりの描写が抜群に面白い、盲目の名判事サー・ジョン・フィールディングが活躍するシリーズから……どれにしよう。なんせ未訳は8冊+1冊(後述)もあるのです。

 このシリーズは語り手の法律家ジェレミーが、恩人であるサー・ジョンについて回想をするという形で描かれています。ジェレミー少年が腸チフスと村人の心ない私刑によって次々と家族を奪われ、たったひとりで地方からロンドンにたどり着き、サー・ジョンに救われて、貴族の屋敷での殺人事件や印刷所での多重人格者斧虐殺事件の捜査を手伝いながら、身の振りかたを決めるまでを描いたのが既訳の『グッドホープ邸の殺人』『グラブ街の殺人』。サー・ジョンの住居であり治安判事裁判所であるボウ・ストリート4番地では住民たちが入れ替わり、次第に賑やかになっていくなかで、3作目のWatery Graveでは海軍、4作目Person or Persons Unknownは連続娼婦殺人事件、5作目Jack, Knave and Foolでは音楽ネタと劇場での事件、6作目Death of A Colonialではバースやオックスフォードへ舞台を広げて植民地問題を、7作目The Color of Deathでは奴隷問題を描き、8作目Smuggler’s Moonではケント州の港町ディールを舞台に密輸事件を、9作目An Experiment in Treasonではベンジャミン・フランクリンをゲスト出演させてアメリカの独立をテーマにしています。謎解き部分まで含めると4作目や9作目も捨てがたいのですが、1冊紹介するならばシリーズ最後の本にしましょうか。著者が残念ながら亡くなる数カ月前に発表された10冊目The Price of Murder(2003)です。

 テムズ河で幼い少女の亡骸が発見されます。おそらくはこのシリーズ最大の痛ましい事件。悪にはとても厳しいけれど、弱者の味方で人情味ある判決で定評のあるサー・ジョンが烈火のごとく怒っていることを、語り手である助手のジェレミーも感じます。このサー・ジョンをはじめとする大人たちの怒りのエネルギーが効いた作品なんです。ジェレミーがあまり柄のよろしくないとされるセヴン・ダイアルズ地区の少女の住まいを訪ねてみれば母親は引っ越したあと。少女の失踪届を出しているのに、これはどうしたことなのか。捜査は幼児の人身売買を疑う線で進められることに。被害者の少女には、だらしない母親を補うように心からかわいがってくれていた伯父がいました。彼は街を歩けばたくさんの人が尊敬のまなざしをむけ、?馬と話せる?とまで言われている天才騎手でした。

 そう、この作品でメインとして扱われる風物は競馬なのです。このシリーズに13歳で登場した語り手ジェレミーは17歳となっていて、ひそかに婚約し、その結婚資金作りに競馬で一発あてようとはりきります(だって、早く結婚しましょうよと相手にせっつかれ、すでに完全に尻に敷かれているという)。ボウ・ストリート・ランナーズの警吏とレースのある街へ出張して事件の参考人を追跡、身柄を拘束するのですが、すぐにロンドンへ連れ帰ればいいものをレースがあるのにそうはいかん、と、無理やり地元の判事のもとに勾留してあとで青ざめるはめに。

 シリーズなのでできれば順番に、というのはありますが、歴史ミステリ好きにはお薦めです。マジわくわくするから。謎解きはゆるめ。怪しいかも……と思った人物がたぶん怪しいんですが、そこはわりとどうでもよくて、当時の街の息吹が鮮明に伝わってくることや、警吏、監察医、コヴェント・ガーデンの肉屋のおじさん、賭博場の主だけれどサー・ジョンとは懇意の元海賊といった多彩な人物の描写が読みどころである、という点はひとまず置いておいても、この作品には、えーっそのオチありなの?! という破壊力のある解決が待っていることは言っておかなければ。最後まで馬が大活躍するんですよ。

 ミステリには実在の人物が活躍するものがいくつもありますが、このシリーズもそのひとつ。小説家/法律家のヘンリー・フィールディングの異母弟がサー・ジョン・フィールディングです。兄のあとをついでウエストミンスター地区の治安判事となってボウ・ストリートで裁きをおこないました。現在ミステリマガジンで連載中の皆川博子氏『DILATED TO MEET YOU』にも登場しますから、あああの、と思い当たったかたも多いでしょう。19歳で海軍での事故によって盲目となったサー・ジョンですが、法廷では数千人の犯罪者の声を聞きわけたそうです。そしてフィールディング兄弟が組織したボウ・ストリート・ランナーズこそ警察組織の礎となったと言われています。サー・ジョンは売春婦や若年犯罪者の更正にも力を入れてその功績で称号をたまわったとのこと。

 シリーズ10作目にして初めてジェレミーがサー・ジョンのことを?老いた?と感じる場面があります。ずっと登場を続けていた人物との別れも描かれて、著者のブルース・アレグザンダーにはなにか思うところがあったのかもしれません。彼の本名はブルース・クック。もともとノンフィクションやロサンジェルスの私立探偵もののクライム・ノヴェルを書いていたアメリカ人ですが、このシリーズが代表作となりました。現在ではレフト・コースト・クライムのブルース・アレグザンダー記念歴史ミステリ賞にその名が残されています。

 これが最後の作品と書きましたが、じつはこのシリーズには?11作目?があります。未完の遺稿を未亡人のジュディス・アラーと作家のジョン・シャノンが共同で完成させたRules of Engagementです。アメリカに対するいわば封じ込めの法案に関わっていた貴族が突然、橋から飛び降り自殺します。当時注目を浴びるようになっていた怪しい治療法との関係が浮上して、という内容。わたしはまだ半分で止めています。だって、読んだら本当にこのシリーズは終わってしまうから。

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三角和代◆(みすみ かずよ)ミステリと音楽を中心に手がける翻訳者。10時と3時のおやつを中心に生きている。訳書にジャック・カーリイ『毒蛇の園』、ジョン・ディクスン・カー『帽子収集狂事件』、ヨハン・テオリン『黄昏に眠る秋』(近刊)他。

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