翻訳昔話(その1)——駆けだしだったころ

 自分のことをヒヨッコ翻訳者だと、ずっと思っていた。途中から、もうヒヨコでもないか、若手翻訳者ってとこか、と思うようになり、そのまま長い年月が過ぎて、気がついたら年寄り翻訳者になっていた。いつのまに……? 悲しい。で、年寄りの特権として、昔話をすることにした。聞いてくださいね。

 翻訳の仕事をするようになって、三十年以上の歳月が流れた。時代が大きく変わった。最初のころは、パソコンはおろかワープロさえなくて、手書きだった。クリーム色の地に赤い罫線の入った満寿屋の二百字詰めが好きで、コクヨの安い原稿用紙で下書きをしたあと、清書にはこれを使った。清書が進むにつれて原稿用紙の山が高くなっていくのが快感だった。これだけ訳したぞ!と実感できた。あのころは、それを見るのが楽しみで仕事をしていたように思う。

 だから、ワープロに切り替えた当時は、作業時間は大幅に短縮されたものの、なんだか味気なかった。しかも、慣れないキー操作にエネルギーを奪われて、脳細胞が働いてくれず、訳文が浮かばなくなってしまった。どんなに手書きが恋しかったことか。もっとも、いまでは、池田真紀子さんがこのコーナーで書いてらしたのと同じく、わたしの脳細胞も指先に引っ越してしまったみたいで、パソコンのキーに触れていないと訳文が浮かんでこない。慣れとは恐ろしいもの。

 友人の紹介で初めて早川書房を訪れたのは、二十代の終わりの暑い夏の日だった。友人が書いてくれた地図を見ながら神田駅から歩いたのだが、当時はまだ木造の二階建てだったため、出版社だとは気づかずに通りすぎてしまった。

 二回目に訪れたときは、受付の前で編集者を待っていたら、小柄なおじさんがせかせかと入ってきた。

「あ、御用は承っておりますでしょうか」

「はい、編集者の方を待っているところです」

「ほう、よかった。では」

 おじさんは汗を拭きながら、せかせかと階段をのぼっていった。

 あとでわかったのだが、それが先代社長の早川清氏だった。一期一会。

 その後、一年ほど〈ミステリ・マガジン〉で短篇の翻訳をやらせてもらって、やがて初の長篇『アニー』を訳すことになる。映画公開に合わせて、締切りは一カ月後だった。初心者なのにィ……。でも、めでたく締切りをクリアしたおかげで度胸がつき、それ以来、仕事をどんなに急がされても怖くなくなった。いまでは「急ぎの仕事なんですけど」っていわれると、ちょっと嬉しかったりする(変人……)。

山本やよい(やまもと やよい)1949年岐阜県生まれ。同志社大学文学部英文学科卒。主な訳書/サラ・パレツキーのV・I・ウォーショースキー・シリーズ。ピーター・ラヴゼイのダイヤモンド警視シリーズ。最近はメアリ・バログのロマンス物に挑戦。

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