折々のむだ話(その3)——Rien ne va plus.

「そこまで(リヤン・ヌ・ヴァ・プリュ)!」

 これはドン・ウィンズロウ『サトリ』のカジノ・シーンに出てくるフランス語の言葉。ルーレットが回りだしてまもなく、クルピエが賭けの打ち切りを宣言するときの決まり文句だ。

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 今月はじめに渋谷のイメージフォーラムでクロード・シャブロル監督の『最後の賭け』を観たら、カジノで客たちがルーレットに興じるシーンで始まり、この言葉が出てきたので、何かご縁があるという感じがして、嬉しくなった。あとで気づいたが、この映画、そもそも原題が Rien ne va plus だった。

 六十すぎの男と四十前後の女の詐欺師コンビが、いつもとは違う大仕事に挑んで、ピンチにおちいる。Rien ne va plus.は「もう何もかもうまくいかない」という意味にもなるから、ダブルミーニングのうまいタイトルというわけだ。

『サトリ』に話を戻すと、あの小説で私の好きなシーンのひとつは、美しいフランス人の女ソランジュが映画を観ているところだ(「青山ブックセンター六本木店での〈サトリ〉トーク」では拷問シーンを挙げたが、それについては6月25日発売の《ミステリマガジン》8月号をご覧ください)。

 何がいいかというと、前から三列目の席で観ているところだ。劇場にもよるだろうが、三列目ならかなりスクリーンに近い。現に「ソランジュはスクリーンの照り返しで銀色に輝いていた」というすばらしい描写がある。

 ソランジュは小さい頃から映画女優になるのが夢だったが、悲しい出来事のために断念せざるをえなかった。だから大人になっても、ひとりで映画館に入って、銀幕の世界に没入して涙する。ウィンズロウのさりげない描写から哀感がしみじみ伝わってくる。

 昔は私も前のほうで映画を観たものだ。一九七八年に『2001年宇宙の旅』がリバイバル公開されたときは、テアトル東京でのシネラマスコープ上映を最前列で見た。ところがご多分にもれずというべきか、年齢が進むにつれて、目が疲れるので、スクリーン全体が余裕で視野に収まるところで観るようになった。

 けれどもソランジュに影響されて、シャブロルの『引き裂かれた女』や今月の三本を、スクリーンが視野いっぱいに広がるようにして観てみたら、いやあ、すばらしい。いかにも「映画を観ている」という感じを久しぶりに味わえた。

 動きのはでな映画だと疲れるし、グロテスク味の強い画面で視野を満たすのは避けたい。そこへいくとシャブロル作品は近い席で観るのにちょうどいいようだ。

 リュディヴィーヌ・サニエやイザベル・ユペールの顔のクローズアップを堪能しながら、「大写し」という言葉をなまなましい語感とともに思い出したしだい。

(写真も筆者) 

黒原敏行(くろはら としゆき)1957年和歌山県生まれ。東京大学法学部卒。翻訳家。主な訳書に、バート『ソフィー』、マイクルズ『儚い光』、フランゼン『コレクションズ』、マッカーシー『すべての美しい馬』『越境』『平原の町』『血と暴力の国』『ザ・ロード』『ブラッド・メリディアン』、コンラッド『闇の奥』、シェイボン『ユダヤ警官同盟』、ウィンズロウ『サトリ』、ほか多数。

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