69歳の老医師、ダウワン・パーゼルは、ある晩忽然といなくなった。管理者として務めている養護老人施設を出たきり9週間も行方知れずだという。彼の前妻・フィオナに捜索を依頼されたキンジーは調査を開始する。現在のダウワンの妻・パーゼルとフィオナの確執、施設の医療詐欺疑惑などの事実が浮き彫りになるが、肝心のダウワンの行方は一向に掴めない。

 一方、キンジーはダウワンの調査のかたわら、自身の新たなオフィス探しを行っていた。手頃なオフィスが見つかって一安心、と思いきや保険調査員を名乗る女性が現れ、キンジーはあるとんでもない話を聞かされる。新しいオフィスの家主兄弟は、殺人犯だというのだ。

 まず、はじめに一言。この『危険のP』、今まで読んできた「キンジー・ミルホーン」シリーズの中で断トツの駄作だと私は思う。この小説のあらゆる要素に、作家スー・グラフトンのウィークポイントが表出してしまっているのからだ。と、いっておきながら、この連載でグラフトンの作家としての弱点について、深く突っ込んで書いたことがないことに今さら気づいてしまった。まあ、いいや、このシリーズの読書日記はどうせ後2回だ(今のところ邦訳があるのは『ロマンスのR』まで。えっ、原書読めばいいじゃないかって? 私の語学力ではこの連載、10カ月に1回のペースになっちゃいますよ!)。グラフトンの小説を読みつづけて「これはアカン!」と感じた点を整理する意味でも、『P』の「アカン!」部分を見ていこうか。

 ここが「アカン!」その1:親戚ゾロゾロ、書きわけゼロ

 「キンジー・ミルホーン」シリーズに登場する依頼人の家族は、やたらと兄妹が多かったり、離婚した前妻との子供がいたりと、大所帯であるパターンが多い。別に家族がいっぱい出てくることはいいんだが、困ったことに没個性的で、誰が誰だか区別がつかないときがある。本作でも被害者の現在の妻と、前妻の双方に子供がいるわけだが、うっかり飛ばしながら読むと、どっちの子供だかわからなくなります。

 おまけにキンジーが事件関係者と出会うシチュエーションが似たり寄ったり(自宅の玄関か会社のオフィス)なので、「こいつとはさっき話していたよね?」と思ったら別の人物だったりということもしばしば。

 ここが「アカン!」その2:「生活」はあっても「社会」はない

 ハヤカワ文庫版『危険のP』の裏表紙にある粗筋紹介には、こう書いてある。

 「老人医療の深く危険な闇に切り込んだミステリ界のトップシリーズ」

 ところが、肝心の養護施設における医療詐欺事件については、ほんのちょこっと触れられる程度で、闇に切り込むどころか、メインテーマにすらなっていない。

 医療詐欺はこの小説において、ダウワン失踪の謎を追う物語を展開させるために用意されたマクガフィンに過ぎないのだ。

 「キンジー・ミルホーン」シリーズでは、社会問題を一見主題に掲げたように思えながらも、それは物語を進行するための記号的な役割しか与えられていないことが多い。いや、記号的にしか扱えない、と言った方が正しいだろう。

 なぜか。「キンジー・ミルホーン」シリーズには、キンジーをはじめ登場人物達の個々の「生活」は描かれることはあっても、「社会」が描かれることはないからだ。

 グラフトンは、前作『アウトローのO』で具体的な年代設定、商品名といった固有名詞をあえて自身の作品内でほとんど表現しないことを明言している。その一方で、主人公キンジーの年齢は具体的に定め、しかもシリーズ開始から20年近く経つにも関わらず、初登場時の32歳から4歳しか歳を取っていないという違和感を読者に抱かせながらも、はっきりと年齢を作中に明記することだけは忘れないのだ。

 グラフトンが32〜36歳のキンジーを描き続けることにどのような意味があるのかは、正直まだよくわからない。ただ、キンジーの年齢を30代半ばにつなぎ止めておく必要から、年代設定をあやふやなままにしてシリーズを続けねばならなかったのだろう。その結果、読者が暮らす現実の「社会」を欠いた世界を小説に書かねばならなかったのだ。「社会」が欠落した世界である以上、そこで表現される社会問題が中身の問われない「記号」になってしまうことは必然であると言える。

 こうして見ると「キンジー・ミルホーン」シリーズで「ライフスタイル」と呼んでいたものの正体を改めて考えなければいけないように思う。社会的文脈を欠いた中で描かれてきた「ライフスタイル」とは一体何だったのか?その問いの先に、先週のラストに提示した、グラフトンが『アウトローのO』でいきなりベトナムという具体的な社会背景を持ちこもうとしたのはなぜか、という疑問の答えもある気がするのだが……。

 挟名紅治(はざな・くれはる)

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ミステリー愛好家。「ミステリマガジン」で作品解題などをたまに書いています。つい昨日まで英国クラシックばかりを読んでいたかと思えば、北欧の警察小説シリーズをいきなり追っかけ始めるなど、読書傾向が気まぐれに変化します。本サイトの企画が初めての連載。どうぞお手柔らかにお願いします。

過去の「ふみ〜、不思議な小説を読んで頭が、ふ、沸騰しそうだよ〜 略して3F」はこちら

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