ところで、先月末にタイトルもそのものずばり『犯罪』 Verbrechen

 という作品を読みまして、脳天をガツンとやられたところです。

 2010年の5月なかば。ドイツ文学翻訳家の酒寄進一先生からこんなメールが送られてきました。このころ、私はひょんなことから酒寄先生とお仕事をすることになり、フレドゥン・キアンプールの『この世の涯てまで、よろしく』という作品の企画を提出したばかりでした。

 メールを読むと、なにやら気になることが書いてあります。「実際に起こった事件や体験を脚色した11の短篇からなる」「人間の不条理さがドライに淡々と書かれていて」「カニバリズムなど猟奇的な題材もある」などなど。なんだかすごそうな本だなぁ、というのが第一印象だったと思います。酒寄先生と相談した結果、あらすじをまとめたレジュメと短篇一つの試訳を送ってもらうことになりました。そして数日後、メールで送られてきた「タナタ氏の茶碗」という一篇を読んだ瞬間、ああこれは企画にだすしかない!! 直感しました。

 ご挨拶が遅れました。東京創元社で翻訳ミステリの編集をしておりますS木と申します。今回は、6月11日発売の犯罪小説、フェルディナント・フォン・シーラッハの『犯罪』について思うところを書かせていただきます。思うところがありすぎるので、なんだか長くなるような気がひしひしとしているのですが……。おつきあいいただけますと幸いです。

 『犯罪』は、1篇が20ページ前後の短い短篇が11作収録されている連作短篇集です。物語の語り手はすべて「私」という弁護士で、彼が関わった刑事事件を扱っています。そのうちの2作目、「タナタ氏の茶碗」は、一言でいうなら“すさまじい復讐譚”です。あるお金持ちの日本人、タナタ氏の豪邸に、不良たちが盗みに入ります。金庫から現金と、真っ黒のみすぼらしい茶碗を盗んでいきます。盗みが大成功した不良たちは、大金を抱えてほくほくでした。しかし、彼らが盗んだ茶碗は、タナタ家に代々伝わるはかりしれないほど貴重な家宝だったのです。その茶碗を盗まれたタナタ氏がとった行動とは……。

 「なんじゃこりゃあ!!」というのが、いちばん最初の感想でした(いやほんとに)。この作品を読んでまず驚いたのは、ものすごく研ぎすまされた筆致で書かれているという点です。簡潔な文体でとてつもなく異様な事件が淡々と語られていくのですが、なんだか独特の空気感をかもしだしています。酒寄先生のメールには「頭をガツンと斧で叩かれたような文体」「カフカに匹敵するか、超えたかと思わせられるような筆致」とあって、深くうなずいたのをおぼえています。特にお気に入りなのは、下のパラグラフです。

 ガロテというのは細い針金で、両端に小さな木製の握りがついている。中世の拷問・処刑具を改良したもので、スペインでは一九七三年まで絞首刑具として使用されていた。そして今でも殺人の道具として愛用されている。部品はどこのホームセンターでも入手できる。安価で、持ち運びが楽で、効果的だ。背後からこの針金を首にまわし、力いっぱい引き締めれば、声はだせないし、すぐに絶命する。

 ガロテが何に使われたかは、すぐにおわかりですよね(にっこり)。このパラグラフがいきなり飛び込んできて、その唐突さにしびれました。そしてそのあとで繰り広げられる展開のすごいのなんのって、もう。私はわりと怖がりなのですが、「怖い〜、でもおもしろい〜、でもやっぱ怖い〜」と思いつつ夢中になって読みました。

 1篇ごとにあらすじをまとめていただいたレジュメも読みましたが、ほんとうに変なお話ばかりで、変な話好きとしてはたまらない!「羊を殺してその目をえぐりとってしまう伯爵家の御曹司」とか、「エチオピアの寒村を豊かにした銀行強盗」の話など、怖かったり、ユーモラスだったりとバラエティに富んだ短篇集です。そして何より驚いたのは、それらすべてが実際にあった事件をもとにしているらしい、ということ。これは酒寄先生が直接シーラッハさんにお会いしたあとで教えてもらったことですが、現実の事件をたどれないようにさまざまな要素を組み合わせたり、改変したりして小説として成立させているそうです。でも中には、ある情報を知れば現実の事件を特定できてしまう作品もあるとか……。いやはや、こんなおかしな事件がほんとうに起こるの!? と、「事実は小説より奇なり」というのを実感しました。

 特にすごいのが、彫刻『刺を抜く少年』に取り憑かれた博物館警備員のお話、「棘」です。主人公のフェルトマイヤーは、ある博物館に就職します。そしてささいなきっかけから仕事のローテーションが行われなくなり、退職の日までひたすら『棘を抜く少年』の部屋で警備を続けることになってしまうのです。想像してみてください! 自分がずっと、ひたすら同じ部屋で彫刻の警備を続けるはめになったら、いったいどうなるのか。フェルトマイヤーもだんだん心がおかしくなっていくわけですが、そんな奇妙で残酷な状況に追い込まれた人間の心理を、鮮烈に描いた珠玉の一作だと思います。

 著者のシーラッハさんは、もともと刑事事件専門の高名な弁護士で、彼がかつて関わった多くの事件が『犯罪』のもとになっています。その点もふまえて読むと、『犯罪』のまた違った魅力が見えてきます。それは、日本とも、アメリカとも異なるドイツの参審制という裁判制度のおもしろさです。参審制とは、一般市民から選ばれた参審員が裁判官と一緒に裁判を行う制度で、犯罪事件だと認定したり、量刑を決めたりします。ちなみに参審員は事件ごとに選ばれるわけではなくて、任期制です。選ばれたらいくつもの事件の裁判に参加しなくてはならないのです。ドイツ国民は大変だなぁ。事件も軽いものから重いものまでさまざまなものが対象になっています。

 で、日本ってたいてい裁判が長期間にわたるじゃないですか。ニュースで見て、「あれ? この事件いまごろ審議開始なの?」と思うこともしばしばです。ドイツではずいぶんさくっと手続きが進むみたいで、世間で大ニュースになる殺人事件でもあっという間に裁判が始まります。その一方で、訴訟手続きには日本にはない段階があったりしていて、いろいろな違いを感じました。「ハリネズミ」という作品は、窃盗事件を起こした兄を救うため犯罪者一家の末っ子が法廷で活躍する話なんですが、全体を通して審議の様子が臨場感たっぷりに描かれています。そのようなドイツの裁判のおもしろさも感じてもらえるといいなぁと思います。編集や校正はめちゃくちゃ大変だったんですけどね……法律用語の勉強とか……チェックとか……(ぼそっ)。

 その後企画も無事に通り、小社の隔月発行誌「ミステリーズ!」「タナタ氏の茶碗」(*)「棘」を掲載したりといろいろあり、そしてあっという間に訳了の日を迎えました。全篇通して読みはじめると、まずは試訳のなかった第1話の「フェーナー氏」に、やーらーれーたー(ぱたり)という感じでした。原稿を読んでいてもう、ほんとうにどうしようかと! シーラッハさん、あなた私をどうしたいの!? と問いつめたい気分でいっぱいでした。すごすぎて、好きすぎて、あまりの衝撃に狭い部屋をうろうろするはめに。私はだいたい訳稿をいただいて読んだあと、手帳にその作品の印象やよいと思った点、売りどころになる箇所を具体的に書くようにしているのですが、『犯罪』のメモを見直すと「すごい!」と「おもしろい!」しか書いていない(笑)。どんだけ興奮してたの自分! 

 そしていざ本にしようとするわけですが、それからが大変でした。だってこの作品、中身のすごさはもとより、ドイツでは45万部を超す大ベストセラーで、32か国で翻訳されることになっていて、映画化も決まっているんですよ!! さらにノーベル賞作家のヘルタ・ミュラーも受賞している権威ある文学賞のクライスト賞をはじめ、三賞を受賞しています。そんな作品に、編集者暦2年で、まだ4作しか編集していない新米で、刑法と刑事訴訟法の違いも知らなかった私なんぞが携わっていいのか!? と、もんのすごいプレッシャーだったのです。

 かつて友達に「あんたっていじめられても気づかなさそうだよね」といわれたことがあるくらい鈍くて楽観的なはずなのに、眠れなくなることもありました。校正紙(ゲラ)を持って帰る途中、駅から家までの道のりを歩いている間にふと立ち止まることもありました。急に思ったんですよ……「ああ、ゲラ重いなあ」って……200ページちょっとの薄い本なのでゲラは軽いはずなんですけどね、肩にゲラを入れた袋のひもが食い込んでくるわけです。とにもかくにも、148.1cmのちいさな体が抱えるにはいろいろな意味で重い、重すぎる作品だったのです。

 しかしまぁ、悶々としていたある日、やっと気づきました。別に自分ひとりで仕事をしているわけではない、というあたり前のことに。会社の先輩や上司には叱咤激励、あるいはツッコミの言葉をたくさんもらいましたし、校正部にはゲラにものすごく厳しいチェックを入れてもらいました。何より、ベテランの翻訳家でいらっしゃる酒寄先生の頼もしいお力添えがありました。すばらしい訳稿をいただけたのはもちろん、小社webマガジン「webミステリーズ!」に、なんと原稿用紙24枚にもわたる「ここだけの訳者あとがき」を書いていただきました。なな、なんと読み応えたっぷりの前後編です!(後編は7月5日に掲載予定です)『犯罪』という作品には、まえがきも解説も、あとがきすらついていません。そのほうがこの本の構成としてより美しいと感じたからです。しかしシーラッハさんは日本では初紹介の著者ですので、経歴やインタビューの内容などもどこかで紹介したいなぁと思っていました。この「ここだけの訳者あとがき」には、酒寄先生がシーラッハさんと直接お話したときのことも書かれていて、著者の魅力がたっぷり伝わってきます。ぜひ読んでみてください!

 そして、イラストレーターのタダジュンさんには、作品の雰囲気にぴったりあった、すばらしいカバーの絵を描いていただきました。おまけに扉絵まで! あまりにミステリアスでかっこいいので、見本ができてからしばらくは本を眺めてニヤニヤするという気持ちの悪いことをしていました。特に、手書きのドイツ語タイトルのところが好きなんです。不思議な味わいがあるな〜、手書き文字をお願いしてよかったな〜と思いました。また、装幀を手がけてくださった本山木犀さんにも大変お世話になりました。もともと白黒の絵を、左端のしずくとタイトルなどの文字部分だけを朱赤にするというかっちょいいデザインに仕上げてくださいました。なんだか気がつけばいい感じの本になっていて、正直言って驚きました。

 そんなわけでプレッシャーを感じながらの本作りでしたが、みなさんのおかげで楽しく作業を進めることができました。そしてドキドキしながら6月11日の発売日を迎えたわけですが、いざ世に出ると……なんだか思っていた以上に、高く評価していただけているの……かしら……? Twitterやブログでたくさんの感想を拝読して、とてもうれしくなりました。暇を見つけてはTwitterを検索してニヤニヤするという気持ちの悪いことを(以下略)。書店員さんには手書きの宣伝用POPを書いてもらったり、ポスターを貼っていただいたりしました。生きとし生けるすべてのものに感謝の念を送りたい気持ちでいっぱいです。ありがとうございます!

 やっぱり長くなってしまいました。おまけに夜中に勢いだけで書いたラブレターのような文章なので、テンション高くてすみません。身長まで暴露して何やってるんでしょうね、もう。でもこの記事を読んで、愛だけは嫌というほどこもっている本だと感じていただければ幸いです。未読の方には『犯罪』を手に取っていただけるとうれしいです。どうぞよろしくお願いいたします!

(*)「タナタ氏の茶碗」の「碗」は実際には旧字です。  

 東京創元社・編集部 S木(Twitterやってます→ @little_hs

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