本のこと活字のこと 3——一日の終わりに寝床で

 小さなころは、長い休みになると、田舎でよろず屋を営む祖父母のもとに行った。「万」(よろず)ほどの数はないとしても、店には石鹸、歯ブラシ、電球、麦わら、ござ、ほうきにはたき、蚊とり線香、蠅たたき、ろうそく、ボールペン、剃刀、ちり紙などなど、ありとあらゆる雑貨がひしめいていた。表のタイルのショーケースでは煙草を並べて売っていた。もともとは砂糖屋だったのが、いつからかいろんなものを売るようになったらしい。

 店の奥まった場所にガラス蓋のついた木箱が並び、そこから銀色のスコップで白砂糖、黒砂糖、ざらめなどをすくって1斤、2斤と、昔ながらの尺貫法で量り売りしていた。ミゼットに乗せてもらい、配達についていったこともある。祖父はヤッと気合いを入れて、三輪トラックの荷台から大きな砂糖袋を担ぎあげ、斜めに首を傾げて、料理屋の裏口にまわった。

 前回、殿山泰司の『JAMJAM日記』について書いているとき、この祖父と万年床と週刊新潮のことを思い出した。祖父母の古い家は、間口が狭くて奥に深いいわゆる鰻の寝床で、土間の通路が家の真ん中に伸びて、裏の蔵に通じていた。台所が吹き抜け。屋根にあいた天窓から光がこぼれていた。よろずのものを置いた店の上にだけ、おとななら梁で頭を打つほど天井が低くて薄暗い二階がある。そこに祖父が寝起きしていた。寝床の枕元には、ミステリではなく、週刊新潮が散らばっていた。よろず屋は昔の田舎のコンビニみたいなものだから、朝は当然早く、夜もかなり遅くまで開けていて、閉店後も法事用の砂糖をたくさんの紙箱に詰めたり、それに熨しをかけて包装したりと、けっこう忙しい。祖父は一日の仕事を終えて、眠る前のひとときに、うぐいす色の蛍光灯スタンドを点し、寝床で週刊誌を読むのを楽しみにしていた。

 記憶にあるかぎり、わたしにとって初めて読んだおとなの読み物は、週刊新潮である。名物連載の「黒い報告書」というタイトルを心に留めていたわけではないが、毎号、殺しの話が載っているページはすぐに見つかった。わたしは祖父母が忙しい昼間、こっそり二階にあがって、格子窓からそそぐ薄い日差しのもとで、この連載のページをめくった。そのころはまだ長いものを読みこなすだけの読書の筋力がついていなかったので、読めるところを拾い読みしてドキドキするだけで精いっぱい。もちろん、「痴情のもつれ」や「愛欲の成れの果て」などわかるわけはないのだけれど、おとなの世界の黒々として淫靡な闇をのぞき見るスリルは充分に味わえた。

 シリーズの傑作をまとめた『黒い報告書』(「週刊新潮」編集部編)の解説によれば、この実際の事件をもとにした創作物語の連載がはじまったのは1960年。初期には新田次郎や水上勉、城山三郎など有名作家も執筆し、シリーズは人気を博したが、長期間の連載を支えていたのは、名高い文学賞候補者も多数まじっていたという、無名だが取材を手堅くこなす定連の書き手たちだった。40年間つづいていったん終了するが、2002年に復活。復活の第一作めが岩井志麻子の作品だった。岡山弁が飛び交う怪しいエロスに満ちた民話的な世界は、いつも肝のすわった安定感がある。多士済々の執筆陣のなかで、ほどよく硬質でノアールでいやらしさのツボを押さえた粉川宏、地方色豊かで情感があって映像的な井口民樹、罪を犯す人のせつない心情を書き込んでいく深笛義也などのベテラン勢はやっぱりうまいなあと感じ入る。

 翻訳は先に原書ありきで、その世界に入り込んでいくから、つい原文に呑まれて日本語の自然な表現を見失いそうになる。形容句で増築を繰り返したいびつな家のような訳文をつくっているのに気づいたとき、もともとが日本語で、適度に説明的でこなれたプロフェッショナルな文章に接すると、立ち直るきっかけを与えてもらえることがある。日本語で家をつくるときの屋台骨を確認できるような気がするのだ。「黒い報告書」も、わたしにはそのような読み物のひとつ。いまは1話105円で「黒い報告書電子版」も購入できる。

 この8月、祖父は100歳の誕生日を迎えることになった。よろず屋はとうにたたんで、いまはあの鰻の寝床の家もないが、ほがらかさは昔から変わらない。ただ、かつて豊かだった思い出話の枝葉がかなり断ち落とされて、最近は太い幹だけになりつつある。その幹というのは、戦争ほどばからしいものはないという親族にはおなじみのお話だ。いまも活字や写真を見つけると、長いあいだ、じーっと目を落としている。祖母は少し離れた介護施設に入所している。年に一度、叔母といとこがおじいさんを車椅子に乗せて、その施設へ連れていってくれる。祖父母とも体調が不安定なので、七夕のような再会はけっこう命懸けである。会うとふたりは晴ればれとした顔になり、おじいさんはおばあさんに「いまも働いとる」と男の見栄を張る。それをいとこから伝え聞いたとき、ふたりで泣き笑いになった。でも、おじいさんを見ならって、わたしも働くのだ、という気持ちが湧いてきた。これからも、この仕事をつづけて、一日の仕事を終えたとき手にとってもらえるような翻訳作品を届けられるよう精進したいと思っています。

那波かおり(なわ かおり)1958年生まれ。おもな訳書に、フィクションとして、ノヴィク〈テメレア戦記〉とリンジー〈華麗なるマロリー一族〉のシリーズ、ハリス『ショコラ』『ブラックベリー・ワイン』『1/4のオレンジ5切れ』、ノンフィクションとして、チェン『人はいつか死ぬものだから』、エンジェル『コールガール』など。ツイッターアカウントは@kapponous

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