「今の翻訳ミステリー大賞シンジケートは、過去の名作についての言及が少ない!」ーーそんなことをお思いの方はいらっしゃいませんか?

そういう方向けの連載が今回から月イチで始まります。犯罪小説が大好きでしかたがないという小野家由佳氏が、偏愛する作家・作品について思いの丈をぶつけるコラムです。どうぞご期待ください。(事務局・杉江) 

 マーガレット・ミラーの小説は、恐ろしい。
 読んでいる間、一ページたりとも、安心できない。
 読者を不安にさせる物語がサスペンスというジャンルだと定義するのなら、ミラーの作品はその化身です。殺人はおろか、犯罪に類する事件が起こっていなくても、こちらの心を離してくれない。
 たとえば『殺す風』(1957)が、そういう作品です。
 冒頭である登場人物が失踪する他は、終盤に至るまで事件らしい出来事は一切起こらない。ただ、残されたヒロインと知人友人のやり取りと、その中での心の動きが描写されるのみ。
 なのに、どうしてか、緊張しながら読み進めることになってしまう。
 何かが発生しそうな不穏さを感じているから、というわけではないのです。既に発生していて、どこかが変わっている、なのに、読者も登場人物も気づかない。ひたすらに胸をくすぐられているような不快な感覚だけがある。
 これから起こるのではないのです。とっくのとうに始まっている。それがミラーの小説です。
 ミラー作品のトレードマークの一つであるサプライズエンディングだってそうです。展開そのものが衝撃的というよりも、それを受けて、これまでこいつは、こんなことを隠していたのか、こんな本性だったのか、と思いを馳せてしまうからこそ、強烈な印象を残すのです。
 小道具やアイディアといった部分部分ではなく、小説全体で、読者の心を掴んでくる。だから、最初から最後まで、夢中で読んでしまう。
 今回紹介する『これよりさき怪物領域』(1970)は、ミラーのこの手法の到達点といえる、凄まじい作品です。
 
   *
 
 メキシコ国境近くで農園を営むロバート・オズボーン青年は、突如失踪した。愛犬を探しにいってくると出かけたきり、帰ってこなかったのだ。
 農園の周辺から敷地内の貯水槽にいたるまで、徹底的な捜索が行われたが、彼が見つかることはなかった。
 ロバートが行方不明になってから三か月後、彼の妻デヴォンは迷った末、死亡認定の訴訟を起こすことにした。
 審問当日、デヴォンは彼の死を証明するため、農園の雇われ人と隣人とともに裁判所へ向かう。証人となる彼らも、皆、ロバートの死を信じて疑わなかった。ただ一人、ロバートの母親アグネスを除いては……というのが本書の粗筋です。
 上で、ミラーの作品は既に何かが起こっている状態で物語が進む、と書きましたが、本書は分かりやすくそうであるといえるでしょう。
 警察の捜査も、関係者の心中の整理も、全てひと段落ついている。
 そんな中、多くの人が結果は分かりきっていると思っている審問が始まる。
 勿論、読者にとっては、ロバートが死んでいるのかどうか、死んでいたとしたらどうしてかという謎が残されているのですが、それを謎ととらえるのはあくまでメタ的な視点がある故で、作中人物は皆、そこについては深く考えていません。
 考えているのは、彼が死んだことによって、自分たちの生活がどう変わるのかについてです。
 たとえばデヴォンは、ロバートの死が認められたら、もうアグネスとは他人となってしまうのだろうか、などと考えます。そして、まだ若い自分の人生はこの先、どうなるのだろうか、とも。
 また、農園のマネージャーであるエスティバールや、オズボーン家の料理人であるドゥルスーラなどの雇われ人は、雇い主が死んだと認められたあと、自分たちの仕事や家はどうなるのかを考えます。
 それぞれロバートについて悪感情を持っていたわけではなく、むしろ、彼のことを好いていました。けれど、彼がいなくなってから月日が経って、別のことを考え始めている。
 ミラーは登場人物の微妙な心理を、的確に描いていきます。
 共通しているのは、彼ら彼女らがみんな、孤独であることです。一人一人の考えていることが、生活が、別物であるということが淡々と綴られていく。
 登場人物がお互いのことを分かち合うシーンが、ろくにないのです。会話も基本は一対一で、同じ車に乗っている時さえ、それぞれのペアで別々の話をしている。
 作中人物が皆、自分と他人の間に、確かな境界線を引いているのです。
 誰もが隠し事をしている……というよりも、胸の内に抱えているものを話さない。我々読者でさえ、その人の視点にならなければ、何も分かりません。
 登場人物の関係以外でも、本書は境界線だらけです。
 たとえば、隣家に住む妻を亡くした男やもめのレオとロバートには、大きな年齢の溝が横たわっていて、分かり合えない。物理的にも、二人の家の間には川があって、切り離されている。
 メキシコの国境近くという舞台だから、アメリカ人とメキシコからの密入国者の間にも深い溝がある。
 それから、ロバートは死んだと判断したデヴォンたちと、生きていると信じているアグネスという意見の対立だってあります。
 作中に「判事さんには判事さんの事実があるんでしょうが、あたしにはあたしの事実があるんです」という台詞がありますが、まさにこの通りで、境界線のあちらとこちらで、見えているものは全くもって違う。
 そして、彼らは絶対に分かり合えないと示すように、裁判が進んでも、誰の意見も心も交わることがないのです。
 こうして徹底的にありとあらゆるものを切り分けて書いている時点で、どこかうすら寒い怖さがあるのですが……実は本書で真に恐ろしい部分はその先にあります。
 ミラーは、厳格に保ってきた境界線を、ラストに至って消してしまうのです。
 ここが、怖い。
 
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 ミラーは、本書のクライマックス部分において、最も正気であるゆえに怪物になってしまった登場人物を書くのです。
 その人物は、他の誰よりも事件のことについて、ひいては世界のことについて理解している。
 境界線なんて実はどこにもないのだ、と。
 一見交わらないように見える誰かと誰かだけれど、実は重ねることができる。真反対の概念に見えるけれど、両立できる。
 ずっと描いていた分断が、なくなってしまうのです。
 全て元から一つだったと示すのです。
 そこまで読めば読者も気づきます。この人もまた、怪物になってしまったんじゃない。元から怪物だったんだ、と。
 
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 宮脇孝雄氏はハヤカワ・ミステリ文庫版の『まるで天使のような』(1962)の解説で、『これよりさき怪物領域』の原題Beyond The Point Are Monstersには「この地点の向こうには怪物がいる」だけではなく「この点を越えると怪物になる」の意味もあるのではないかと書いています。
 しかし、本書はタイトルに反して、実はこの怪物領域との境界線という概念を否定している作品のように感じます。
 上に書いた通り、その人物は元から怪物だったのですから。
 怪物領域との境界線というのがあり得るのなら、きっと、怪物に変わる点ではなく、自分自身が怪物であると気づいて、一応は保っていた人間性を捨ててしまう地点という、ただ、それだけの場所なのではないかと思うのです。
 だからこそ、マーガレット・ミラーの小説は、恐ろしい。
 読めば読むほど、僕自身も怪物であることに、気づいてしまいそうになるから。

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小野家由佳(おのいえ ゆか)
ミステリーを読む社会人三年生。本格ミステリとハードボイルドとクライムコメディが特に好きです。Twitterアカウントは@timebombbaby