ぼくはシリーズ物のミステリがキライである。

とはいっても、昔のシリーズ物は話がべつだ。ポアロ物とかリュウ・アーチャー物とかモース警部物なんかは、作品がどれも完全に自立している。シリーズの4作目から読もうと12作目から読もうとぜんぜん問題ない。

ところが最近のシリーズ物は、シリーズ全体がひとつの大きな物語になっていて、「1作目と2作目を読んでないと3作目を読んでもよくわからない」ってことが多い。実際、書評なんかでも「本書は傑作だ。しかし、これを楽しむには、シリーズの1作目から順番に読むこと」とか書いてあったりする。でも、それってどうなのか? こっちは気軽に一杯飲みたいだけなのに、いちげんさんはお断わり?

だめだよ、そーゆー排他的な態度は、とぼくは思うのである。

だから、ぼくがウィリアム・K・クルーガー『闇の記憶』を読んだのは、本当に「たまたま」だった。というのも、この作品はミネソタ州の保安官コーク・オコナーを主人公に据えたシリーズの5作目だからだ。ぼくは前4作をどれも読んでない。「クルーガーは面白い」という噂を聞いて手にとってはみたけれど、どうせまた「悪いけど、うちはいちげんさんお断わりだから」と冷たく突き放され、すぐに挫折してしまうだろうと思っていたのだった。

ところが、これが違った。店に入ったとたん、「いらっしゃいませー!」と温かい声。すぐさま席に案内されて、おしぼりがさっと出てくる。なんかそんな感じなのだ。主人公のキャラクターや経歴も、主要登場人物の関係も、舞台設定も、自然にすっと頭に入ってくる。登場人物たちが、シリーズ・ファン以外には意味不明な内輪話をはじめたりもしない。本書がシリーズの第1作でもまったくおかしくないくらい、ひとつの作品としてきちんと自立している。だもんだから、そのもてなしぶりについつい気をよくし、いつしか最後まで読んでしまったのだった。

しかし、接客態度がいいからって、料理がマズけりゃNGなわけで、問題は面白いかどうかだ。で、この『闇の記憶』なのだが、これがなかなか面白い。っていうか、かなり面白い。

いや、じつをいうと、これが抜群に面白いのだった。

しかし、残念なことに、この作品を褒めようとすると、浮かんでくるのは「小説にコクがある」「人物造型に優れている」「ミネソタの雄大な自然が魅力」とかいった、並はずれて月並みな文句ばかりなのである。ここが問題だ。どうしたらこの作品の魅力をアピールできるのか? ちなみに、ぼくには無理だ。ただし、帯の惹句にある「ハードボイルドな北の西部劇」はどうかと思う。この小説は西部劇として面白いんじゃない、あくまでミステリとして面白い。

この作品は、主人公の保安官が何者かに狙撃されるところからはじまる。当然、捜査が開始される。しかし、ずるずる捜査してたら読者は飽きてくる。そこで次の展開がある。本書の場合は新たな殺人事件だ。ぼくがまず感心したのは、この殺人事件の被害者だった。これがちょっと意外というか、「え、あの人が殺されたの? なら、話はどこに行くの?」とハッとさせられるのである。

で、さらに読み進めていくと、この小説は要所要所に仕掛けられた「新たな展開」が、どれもじつに巧みなのだった。といっても、アクロバティックな展開があるわけじゃない。なのに、読者がハッとする意外性がある。しかも、クルーガーはこの「新たな展開」の繰り出し方がやたらとうまい。「読者の注意を右に向けといて、左からさっと差しだす」とでもいおうか、タイミングが絶妙なのだ。ちょっとマジックみたいなんだよね(←褒めすぎか?)。

しかし、この小説でいちばん感心したのは、人間描写が優れている点だった。ぼくは「人間が描けている」とか「人間が描けてない」という決まり文句がキライで、そーゆーことを言うミステリ書評家は豆腐のカドに頭をぶつけて死んでほしいと思っている。人間が描けてる作品がそんなに好きならジュンブンガクでも読んでろよ、と毒づきたくなる。しかし、『闇の記憶』は人間が描けているのだった。

本書を読んでぼくが思い出したのは、ジョン・フォード監督の『捜索者』だ(西部劇だからじゃないよ)。この映画は、流れ者のジョン・ウェインが牧場を営む兄の家に帰ってくるシーンからはじまる。兄は結婚して三人の子供がいる。馬から降りるジョン・ウェイン。それを見守る兄嫁。やがて一家の団欒がはじまる。

ここでスゴイのは、「兄嫁が本当に愛しているのは、じつは夫の兄じゃなく、弟のジョン・ウェインのほうらしい」ということが観客にわかることだ。これはべつに、特別な説明ショットがあるわけじゃない。描写はごく自然で淡々としている。なのに、確実にわかる。あれはほんとに名人芸だと思う。

で、『闇の記憶』には、これに似たシーンがいくつか出てくるのである。特別な描写があるわけじゃないのに、「あ、いまこの男はこの女に惹かれてるな」みたいなのが、すっとわかるのだ。これにはちょっと唸った。うまい。すごくうまい。しかも、それが話の本筋と密接につながっていて、登場人物の心理にうっすらと影を落とし、物語に緊張感をもたらしたりする。いやもう、ほんとに見事です。

ということで、褒めてばっかりだけど、じつはこの『闇の記憶』は、この一作では完結しない。っていうか、訳者あとがきにもあるように、『スター・ウォーズ/帝国の逆襲』みたいに、話の途中でなかば尻切れトンボみたいに終わってしまう。なので、正当な評価は次作の刊行まで待たなきゃいけない。

正直いって、次作には不安もある。というのは、完結こそしていないもの、本書のラストにはかなり意外な事実が浮かびあがってくるからだ。ミステリは、真相があまりに二転三転しすぎると、クレディビリティが低下する。早い話、「いくらなんでも、そりゃ常識的にありえないだろ」ってことになってしまう。ゲーム性の高いジェフリー・ディーヴァーのリンカーン・ライム物みたいな話ならまだしも、『闇の記憶』はかなりリアリズム寄りの小説だ。これ以上意外な展開は、作品の命取りにもなりかねない。いったいどうするつもりなんだ、クルーガー?

ということで、完結篇にあたる次作の発売は今年(2011年)の12月。ドキドキするよね(←誰に言ってんだ?)。

※蛇足:ちなみに、本書には元FBI組織犯罪課の女性セキュリティ・コンサルタントがゲストキャラで出てくるんだけど、このキャラがカッチョよくてシビレるんだよね。美人でセクシーで頭脳明晰で、しかもコマンドーとしても超一流なわけ。ま、ある意味では「いかにも紋切り型のキャラ」なんだけど、紋切り型のキャラだからこその強烈な魅力ってあるでしょ? なんか、『快傑ライオン丸』のタイガージョーみたいなんだよ(←え、知らない?)。

矢口誠(やぐち まこと)1962年生まれ。翻訳家・特撮映画評論家。光文社「ジャーロ」にて海外ミステリの書評を3年間担当。主訳書は『ハリー・ハウゼン大全』(河出書房新社刊)。最新訳書はアダム・ファウアー『心理学的にありえない』(文藝春秋近刊)。好きな色は赤。好きなタイプの女性は沢井桂子(←誰も訊いてねぇーよ)。

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