第18回

 前回は、著作権におけるアメリカの特殊な立場を概観しました。今回は、アメリカと日本との関係をたどってみたいと思います。

 アメリカがベルヌ条約に加入しなかったため、ヨーロッパをはじめとする国々はアメリカと個別に著作権の取り決めをしなければなりませんでした。

 日本がアメリカと著作権条約を結んだのは、1905年のこと(発効は翌年)。たった3条しかない条約で、注目したいのはその第2条。ここで、相手国の著作物を許諾なしに無償で翻訳出版してよい、と定められたのです

 つまり、アメリカ国内で発行されたアメリカ人の著作物に関しては、自由に無断で日本で翻訳出版できるということです(もちろん、逆に日本のものをアメリカで翻訳出版するのも自由)。

 これはすごいですよね。もし、いまもこの条約が生きていて、最新のベストセラーを契約なしで印税も払わずに出版できたら、どんなことになっていたでしょう。

 この条約のおかげで、当時はアメリカ文化の輸入がずいぶん促進されたはずです。

 ところが、状況は戦争をはさんで激変します。戦後の日本の出版界は、アメリカの占領政策によって大きく混乱することになるのです。

 まず、先に記した日米間の著作権条約ですが、正式に廃止されてはいないにもかかわらず、戦争開始とともに失効したとされ、相互の翻訳の自由は失われました。

 さらに、翻訳権を取得するにあたっては、GHQが作品を選定し、入札制度が取られるようになります。これによって契約は高騰し、アメリカのジョゼフ・グルー元駐日大使の回顧録『滞日十年』(石川欣一訳/毎日新聞社)が、原著者印税36%(!)を記録する事態になります。

 カミュの『ペスト』(宮崎嶺雄訳/創元社)などは、出版社と著者の間で印税率20%で(これも高い!)契約ができていたにもかかわらず、GHQによって破棄され、あらためて入札にかけられたといいます。その結果、35.6%という高額契約となり、あとでフランス側が秘密裏に当初の印税率にもどしてくれた、という裏話もあったとか。

 占領軍の介入は、これにとどまりません。

 すでに出版されていた翻訳書籍について、「著作権侵害」だとして続々と発売禁止の処分がくだされたのです。正規に契約したり、あるいは翻訳権の十年留保や保護期間の終了によって正当に翻訳出版していた過去の作品(開戦前からのものも含む)もあったといいます。

 発禁になったものをあげると、ゾラ、ジッド、コクトー、ファーブルといったフランス作家、リルケ、ヘッセ、トーマス・マンといったドイツ作家、ギッシング、バートランド・ラッセル、コナン・ドイルといった英国作家、チェーホフ、ショーロホフといったロシア作家等々。どうやらヨーロッパ圏を標的としていたように感じられますね。

 また、当時の日本では、著作権の保護期間は著作者の死後30年でしたが、GHQはそれを死後50年に一方的に引きあげます。そのため、保護期間が終了して出版できるはずの、あるいはすでに出版していた作品が、突然出せなくなってしまったのです。

 こうした混乱がいちおうの収束を見るのは、1952年。いわゆるサンフランシスコ平和条約によってです。

 このなかで著作権についての取り決めもなされたのですが、ここで新たな問題が生じました。戦時中、日本が敵国の著作権を保護していなかったことを理由に、連合国だった国々の著作権の保護期間には、戦争の年月を加算・延長しなければならないと決められたのです。

 つまり、1941年12月8日から起算し、平和条約発効前日までの3794日間を、保護期間に加算しなければならなくなったのです。10年以上延長される計算ですね。条約発効が遅れ、さらに長い期間が加算される国もあります。

 これが「戦時加算」問題です。実質的に、戦争に対する経済的な補償・賠償だといえます。著作権という意外なフィールドで、戦争に対するペナルティを背負わされたのです。

 しかし、ほんとうに日本は、戦時中に敵国の著作権を保護していなかったのでしょうか。

 当時、正式に翻訳出版の契約を結んだものについては、開戦によって原著者への海外送金ができなくなると、出版社は支払印税を政府に供託した例も多かったといいます。非常時であっても、最低限のルールは守られていたようです。

 戦前というと、なんとなく著作権意識も低そうな印象がありますが、そうとばかりはいえないみたいですね。

 サンフランシスコ平和条約にもとづくアメリカとの著作権の取り決めは、4年間の期限つきのものでした。

 前回お話ししたように、アメリカは1952年の万国著作権条約によって国際的な関係を確立します。日本も4年の期限切れにあわせて、1956年に万国著作権条約に加わります。

 この条約によって、日本の出版物にもおなじみの(c)マークがつくようになったのです。

 そして1989年、アメリカはとうとうベルヌ条約に加入し、これによって万国著作権条約は現実的な意味を失いました。

 ということは、(c)マークをつける意味もなくなったことになります。しかし、日本ではほとんどの書籍がいまもこの表示を使用しつづけています。必要がないのになぜか、といわれれば、ひとつには習慣だからといえるでしょう。

 しかし、それだけではないようです。この表示は、著作権者を知らせるための簡便で有効な手段なのですね。(c)表示を見れば、著作権を持っている者が誰かがわかるというわけです。

 ともかくも、アメリカのベルヌ条約加入をもって、波乱に満ちた日米の著作権関係は、ようやく安定期に入ったといえます。

 もっとも、いまもアメリカからは、著作権の保護期間の延長(50年を70年にするかどうか)といったさまざまな圧力があることは変わらないのですが。

 このあたりの事情は、宮田昇氏の『翻訳権の戦後史』(みすず書房)という、すばらしいテキストがあります。宮田氏は、翻訳出版の編集者から著作権エージェントを経て、日本ユニ著作権センターを興されたかたですが、このサイトの読者には「内田庶」のペンネームでご存じのかたも多いでしょう。本書は、著作権の専門家である宮田氏ならではの労作です。

扶桑社T

扶桑社ミステリーというB級文庫のなかで、SFホラーやノワール発掘といった、さらにB級路線を担当。その陰で編集した翻訳セルフヘルプで、ミステリーの数百倍の稼ぎをあげてしまう。現在は編集の現場を離れ、余裕ができた時間で扶桑社ミステリー・ブログを更新中。ツイッターアカウントは@TomitaKentaro

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