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 実は1991年の入社当時のことはあまり覚えていません。ショックのあまり記憶を失ってしまったということでもなく、編集長の今岡清氏に「君は線が細そうだけどだいじょうぶ〜」と評された私は(ちなみに今岡さんに最初に推薦されたのはルーディ・ラッカー『ソフトウェア』)、実質的な編集長であったA氏と、いまはF社でご活躍のT氏の厳しい指導を受け、しかも一日一冊の翻訳SF読書を自らに課す日々で、とても落ち込んでいる余裕などなかったというのが本当のところでしょう。最初の日本SF大会「i-con」のスパリゾートで刻まれた凄絶な孤独感など、SFについてはさまざまな場所で語っていますので、ここでは割愛します(ひとつだけ、同期入社の予定だった某評論家氏の入社が叶っていたら、私はFT文庫編集部配属だったらしいですよ)。

 さて当時の早川書房といえば、『ホーキング、宇宙を語る』100万部突破、原?『私を殺した少女』直木賞受賞、そして『アルジャーノンに花束を』改訂版刊行という、なんというかとんでもない時代でした。ミステリの第1編集部は、数年前に亡くなられた菅野圀彦部長の下、現在は出版エージェントとしてご活躍のM氏がいわゆる3Fの女性探偵ものを(自信たっぷりに)仕掛け、現在は他社でご活躍のS氏がアゴタ・クリストフ『悪童日記』をベストセラーにしてさらにゲイ文学ブームをつくり(独特の美意識の方)、現在は翻訳家としてご活躍のO氏が創刊されたばかりの「ミステリアス・プレス文庫」を担当しながら『ジュラシック・パーク』を手がけ(LDコレクター)、ポケミスは現在翻訳家としてご活躍のT氏が担当(極度の倹約家)、NV文庫は現在翻訳家としてご活躍のM氏が担当(ミリタリー専門)、そして翌92年には「ハヤカワ・ミステリワールド」が創刊され、現在は翻訳家としてご活躍のN氏が東直己のデビュー作『探偵はバーにいる』を手がけ、93年には菅野部長が担当の高村薫『マークスの山』が直木賞受賞、95年にはS氏が担当の小池真理子『恋』が直木賞受賞——。

 そんな煌びやかさを横目に、SFマガジンの新米編集者であった私は、「世界SF情報」の原稿内にあった“サイエントロジー教会”という記述を勝手に“サイエントロジー協会”と直して叱責されたり、原稿・イラスト取りのついでに古本屋でサンリオSF文庫を漁っていて「帰りが遅い」と叱責されたり、あとはひたすら和久井映見についての編集後記を考え続ける日々で、上記の優秀なミステリ編集者の方々と接することができるのは、もっぱら会社行きつけのバーでのことでした。ほぼ毎日飲みに行き(たとえ終電前の10分間だけでも)、週に一度はそのままカラオケに繰り出し、月に一度はそのまま新宿に出て朝までボウリングという、まだかろうじてバブルの余韻が残る時代のことでした。

 さて、これはSFの第2編集部でSF文庫を担当されていた、現在はミステリ翻訳家としてご活躍のM氏の言ってくださった「ミステリが好きだったら、いつまでも読み続けるように」という一言は今でも脳裏にくっきりと焼き付いているのですが、結局そのアドバイスを活かすことはできず、SFマガジン編集長になる1996年9月までは翻訳SFオンリー、編集長になってからの12年半は国内SFオンリー、そして国内フィクション全般を統括する立場になったここ数年は国内ミステリ中心に、という仕事読書ばかりしてきた私にとって、翻訳ミステリは最も遠いジャンルになってしまいました。まあたしかに、担当作家の小川一水氏の『第六大陸』『復活の地』に続くステップアップのため、“登場人物がたった一人の冒険小説を書いてください”とオーダーして星雲賞受賞の中篇「漂った男」が生まれたり(なんとなくクレイグ・トーマスのイメージがありました)、冲方丁氏にジェイムズ・エルロイのLA4部作を薦めて『マルドゥック・ヴェロシティ』のいわゆるクランチ文体に結実したりとか(でも、実は冲方氏が好きなのは、チャンドラーでありアンドリュー・ヴァクスであり)、国内SFの編集に活かした部分もありはしますが、普段はそれほど意識したわけではありませんでした。

 ただひとつ翻訳ミステリ出版に貢献できたとすれば、08年と09年の「ハヤカワ文庫の100冊」フェアで名作の復刊を仕掛けたことくらいでしょうか。08年には、国内冒険小説ブームの嚆矢たるルシアン・ネイハム『シャドー81』、異色の本格ミステリであるジョン・スラデック『見えないグリーン』、09年には、探偵ダシール・ハメットの事件を描き映画化もされたジョー・ゴアズ『ハメット』、一時代を画した冒険小説の名作であるスティーヴン・L・トンプスン『A-10奪還チーム出動せよ』、法制度そのものを裁くリーガルミステリの傑作たるヘンリー・デンカー『復讐法廷』といった復刊を企画しました。翻訳ミステリへの恩返しといいますか、ようやくかつて自分が好きだった小説を再び世に問える立場になったということでしょうか。まあ成功したのは何度か増刷した『シャドー81』ぐらいで、なかなか厳しい現実を突き付けられたわけではありますが。

 というわけで、このコラムを書きながら、なぜ「探偵はBARにいる」という映画に、「翻訳ハードボイルドを志して早川書房に入社した僕の想いが、ほぼ叶えられてしまった気がした」ほど心揺さぶられてしまったのか、ずっと考えていました。もちろんこの映画がハードボイルドの単なるスタイルやファッションを模したものではなく、東直己氏の原作プロットを2時間の枠に合わせて過不足なく簡略化し、キャラクターや展開に映画ならではの仕掛けを施した、いわゆるネ申脚本だったこともあります。探偵小説/映画に欠かせないのは、やはり主人公の探偵が自分の足で事件の全容を丹念に把握していく過程だと思うのですが、この脚本はそこのところを完璧に理解しています。そして、探偵は依頼人の利益のためだけに存在するという原則をここまで純粋に描いたプロットもなく、〈俺〉役の大泉洋の痩せ我慢の美学とも相まって、まさに理想の探偵映画といえるのです。鑑賞後、私がまず思い浮かべたのは、“ロマン・ポランスキーの”というより“ロバート・タウンの”「チャイナタウン」でした(ミステリマガジンの東氏との対談で、本作の須藤プロデューサーが「探偵はBARにいる」の次に観てほしい探偵映画として本作を挙げていたのは、嬉しい驚きでした)。

 でも、実はそれだけではなく、「探偵はBARにいる」で描かれるバー「ケラーオオハタ」を中心とする主人公〈俺〉の日常が、私が早川書房に入社してから数年の、あの行きつけのバーを中心とした狂躁的な日々を思い出させてしまったんですね。あの空間には、ミステリであろうがSFであろうが関係なく、私が編集という営みに抱いていた憧れ、そして現実、そして夢、自由で滅茶苦茶で、そのくせ厳粛なすべてがありました。亡くなった最初の奥さんと初めて言葉を交わしたのも、そのバーでした。あー、わかりやすい。泣けてきた。

 というわけで、思いがけず個人的すぎる結末に到達してしまったわけですが、9月10日公開の「探偵はBARにいる」は素晴しい映画なので、ぜひご覧になってください。

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