先週紹介した声優の相沢舞さんは、古本屋で見つけた3作目『遺留品』が「検屍官」シリーズとの最初の出会いだったそうな。で、そっから1作目にさかのぼってシリーズを追いかけていったんだって(以上、先週と同じく知人からの情報による)。で、今回がその第3作『遺留品』

 ウィリアムズバーグの周辺で若い男女のカップルが拉致・殺害される事件が相次いで発生した。いずれも乗り捨てられた車が発見された後に遺体が森の中で見つかる、というパターンであった。捜査は難航し、ついに5番目の被害者カップルの死体が発見される。被害者の女性、デボラ・ハービーは麻薬撲滅を訴える著名な運動家、パット・ハービーの娘であった。果たして5件目の殺人は連続カップル殺害事件と同一犯なのか、それともパットを巡る政治的陰謀なのか? 事件を捜査するケイの前に、なぜかCIAの隠蔽工作の影がちらつく……。

 前回の『証拠死体』で「検屍官」シリーズと3F私立探偵小説の違いは、プライヴェートの問題だけでなく組織の人間としての葛藤や苦悩にも焦点を当てていることだと指摘した。同僚との対立、マスコミからの批判、上部組織からの圧力への抵抗……。元恋人マークとの関係など、プライヴェートな問題で悩むケイも描かれるが、それよりも仕事上のトラブルに立ち向かう姿の方が、ライフスタイルのお手本としてより強く読者の印象に残るのだ。

 その特徴は『遺留品』も例外でない。いや、むしろ前2作以上に他の3F小説としての違いが浮き彫りになった作品だといえる。ケイは検屍官としてカップル殺人の捜査に関わる。が、本作において彼女が苦闘するのはパット・ハービーからの検視結果の開示請求を巡る諍い、CIAから付け狙われているかもしれないと不安に怯える女性記者アビーを支えることなど、つまり検屍を駆使した真相の究明ではなく、検屍官という立場を通して出会った人々との間に起こる感情のすれ違い・揉め事である。

 『遺留品』でのケイが、実は事件捜査の外郭をウロウロしていた存在にすぎなかったことは何よりも小説ラストを読めばはっきりする。このお話のクライマックスは、犯人逮捕ではなく、ある登場人物たちを見舞う悲劇によって幕を閉じる。事件の真相は最後の最後で(相当の付け足し感を漂わせながらも)ケイによって一応説明されるが、小説の結末におけるケイは自分が関わった事件の一断片が辿る顛末を、ただただ見届ける傍観者である。

 本作におけるケイは、事件を解決に導き収束させる“探偵役”としての魅力は全く与えられていない。「検屍官」という特殊な職業に就き、専門的な知識を有し極めて優秀な鑑識眼を持ちながらも、決してケイがヒロイックに描かれることはない。彼女に求められているのは“名探偵”としての姿ではなく、一人の職業人としてどう過ごしているか、ということなのだ。

 職業人としての姿を活写することを主眼とする3F小説。実はこれ、前の「グラフトン編」で「なぜライフスタイル的3F小説は近年読まれなくなったのか」という問題に言及した際、なんとなく心の中にあった(「グラフトンまとめ編」で触れた海外ドラマ云々とは別の)「ある考え」につながる。

 その「考え」とは、3Fミステリーの持っていた「ライフスタイル的小説」の側面って、現在の「お仕事小説」に受け継がれているんじゃあないか、ということだ。

 例えば高殿円の「トッカン」シリーズや新野剛志の「あぽやん」といった、一般には馴染みがない仕事に取り組む主人公を描きながら仕事観、人生観を読者に問う「お仕事小説」、これって(一般人には馴染み薄いであろう)私立探偵の主人公からライフスタイルを学ぶ「ライフスタイルの教本」としてのハードボイルドが源流にあるのではないかと私は思うのである。で、「検屍官」シリーズは3F小説と現在の「お仕事小説」の中継ぎ的役割を果たしたのでは……と考えは広がってくのですが、シリーズはまだまだ3作目。「お仕事小説」のことは頭の隅に置きながら、もう少し、個々の作品を見ていこうじゃありませんか。

 挟名紅治(はざな・くれはる)

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ミステリー愛好家。「ミステリマガジン」で作品解題などをたまに書いています。つい昨日まで英国クラシックばかりを読んでいたかと思えば、北欧の警察小説シリーズをいきなり追っかけ始めるなど、読書傾向が気まぐれに変化します。本サイトの企画が初めての連載。どうぞお手柔らかにお願いします。

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